hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

他人の自由を嫌う人々と新自由主義・ファシズム(3)--「音楽に政治を持ち込むな」という「政治」がなぜ活性化するか

 今日は、新自由主義が人々の間で、前回指摘したよりも、さらに広範な攻撃的な態度を呼び起こすことについて述べておきます。(ファシズムに関しては、次回に論じます。)

 前回、新自由主義がもたらす無力感、閉塞感から、自分が公務員や生活保護受給者に比べ、「不当な」状況におかれているという不満が生じ、「不当な」状況の「原因」は、公務員や生活保護受給者の「特権」であり、それを取り除けば、自分の力が「回復」する、という感情的な「政治」が発生することを述べました。

 このような「政治」行動を合理化するイデオロギーが、新自由主義から派生する「消費者(納税者)王権論」や「自己責任論」であることも述べました。

 しかし、新自由主義は、これらの理屈らしいもの、イデオロギー的「根拠」らしきものとともに、「新しい秩序=行動原理」を人々の間に持ち込みます。

 それは、弱肉強食の原理です。国家の側からは、法が強者に都合の良いものに改変され、解釈され、あるいは法の元の精神は抜き去られ、ただ形式的な合法性だけが残されます。

 これに対応して、人々の間でも、これまであった倫理的な秩序は崩壊していき、弱肉強食の行動が露骨に現れるようになっていきます。

 こうした中で、とられる倒錯的で醜悪な行動が、匿名性を利用した他人への攻撃です。何をやっても匿名性がある限り罰を受けないという「強者」になって、自分の気に食わない者へ自分の不満感情をぶつけ、相手を不快にする、たじろがせる、ということで、自分が「強者」であり、相手が「弱者」であることを確認し、満足しようとするのです。

 ここでは、なんらかの理屈(イデオロギー)から見てそれを正当化できるかどうか、ということは、もう問題とされません。

 ただやりたい放題をやって、「それを罰することができないのは、おれが強者でお前が弱者だからだ、ざまーみろ」というわけです。

 たまたまこうした現象に注目したツウィートやコラムをこの数日に見ました。

 

 内田氏は、「呪い」という心的傾向というふうに表現しています。

 そこでは、必ずしも、匿名性に注目していませんが、「呪い」という言葉自体が、匿名性を象徴していますね。

 真夜中に、藁人形に釘を打ち込む、あれです。あれは見られてはいけないものです。見られると、あの呪いの儀式はパワーを失ってしまうのです。

 もう一つは、西田小夜子という作家の「妻と夫の定年塾」というコラムです。

 

 軽い笑い話のようなことで傷つく人が最近、増えてきたなと進一さんは感じる。

 ・・・声欄で、匿名の読者が進一さんの文章を、変な具合に攻撃している。

 さらりと旅の失敗談を書いたのに「自慢たらたらで終始していますね。イタリアの偉大な芸術や建造物は素通りですか。残念!」と、意地悪い言葉が並んでいるのだ。

                  東京新聞2016年06月29日)

 これが、実話に基づいているかどうかはわかりませんが、インターネット上では、こういう感じの攻撃は度々見ますね。

 この作家が冒頭で、「軽い笑い話のようなことで傷つく人」というように、攻撃者が実は、「傷ついている人」であること、そしてそうした人が日常レベルで増加していることをさりげなく指摘しているのは、考えようによっては、深刻なことです。