hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

他人の自由を嫌う人々と新自由主義・ファシズム(終)--「音楽に政治を持ち込むな」という「政治」がなぜ活性化するか

 ファシズムは、下(一般の人)からの運動という側面を持ちます。それを支えるイデオロギーは、復古的なネーション(国民共同体)信仰です。

 現在の日本でいえば、日本会議イデオロギーは、国家神道に基づいて戦前の天皇制国家へ戻そうというものです。

 何故そうなるかというと、それは、ファシズムが自分達(ネーション=国民共同体)が軍事的に弱いが故に、負けたが故に、不当な国際的扱いを受けることとなった、受けている、という感覚を根源にしているものだからです。

 そして、そうした感覚を基礎に、人々を組織し、扇動しようとする運動であることからきています。

 そうした不当な国際的扱いを受ける以前の、強かったと自分達が夢想する過去へ復古し、それを基礎に、自分達の過去から現在への行動全体を、正当化し直そうとするのです。

 この運動の目的は、当然、ファシズム権力の目的と同一であり、それは、自分達が国際的に「正当」な位置を取り戻すこと、そのために国民の精神と行動を軍事力の強化、戦争準備に向かうように影響力を与え、コントロールすることです。

 そして、この復古的共同体イデオロギーの運動は、ファシズム国家の行動と同じように--あるいは時には、国家の暴力が持つ合法性の制限を補うという意味で補完的な--暴力性を帯びています。

 何故そうなるかというと、彼らは、軍事力を中心とする力によって「正義」が実現する--正しい日本が取り戻せる--と考えているからです。

 彼らが想定する弱いネーション、強いネーション、というのは、国際的な軍事的に敵対的な環境を前提として用いられる表現であって、そうした環境では、この復古的共同体は、権威的なリーダーの下に、無条件に帰依するメンバーが集結し、内外の敵と戦う集団という性格を持つことになります。

 そこでは、「非国民」を「探し出し」、その権利や自由を奪うことが重要な仕事となります。

 それは、彼らが考える「復古的共同体」建設の作業のたんなる一部分というより重要な部分を構成しており、「復古共同体」建設を大儀とするファシズム運動のエネルギーの供給源ともなるのです。

 何故なら、彼らの運動組織の存在意義、つまり存在することの効果、メンバーになることによる満足は、こうした「非国民」の設定、その権利と自由への攻撃において、一番、「実感」できるからです。 

 何故、こうした復古共同体への参加メンバーが発生し、増えるのでしょうか。

 第1の理由は、福祉国家の消滅です。

 福祉国家が機能している時は、国民として福祉を受け取っているという事実自体が、国民共同体のメンバーである、ということを「実証」していました。

 そのことに無自覚であってもよいほどに、事実として、安定的な国民共同体のメンバーだったのです。

 しかし、福祉国家の消滅によって安心して依存でき、所属できる共同体は失われてしまいました。

 このことは、このシリーズで、新自由主義が国民に無力感、閉塞感をもたらした、と指摘してきたことを、国民共同体という視角から言いなおしたものです。

 第2の理由は、ファシズム運動の存在とその宣伝がもたらす社会の暴力的雰囲気、暴力的環境です。 

 当初より違和感なくファシズム運動の主張に共感する人もいるでしょう。

 しかし、たとえあからさまな共感はしない人でも、福祉国家が失われて頼る共同体が失われた中で、さらに、暴力的な環境が拡がった時に、どのような心理が働くでしょうか。

 「孤独はいやだ」「その主張の当否と関わりなく、どのようなものではいいから共同体に所属したい」という願望が増大するでしょう。

 日本人の理屈抜きの集団所属願望の強さは、日本人自身も世界中の人も認めるところです。ですから、こうした感覚はよくわかるところだと思います。

 最後に、これに対抗する私達の反ファシズムの思想と行動とはどのようなものであるか、明らかにしておく必要があります。

 フロムは、『自由からの逃走』の中で、ファシズムを、自由から逃げようとしたことから生じた結果として説明しています。

 近代人が前近代的な拘束から抜け出して、個人として自由になったが、それは、前近代社会が提供していた共同体的な安心、絆の喪失を意味していた、というのです。

 ファシズムは、個人としての自由を否定する代わりに、孤独から解放し、共同体所属願望に応えてくれるものだと説明しています。

 権威的なリーダーの下に、従属的な存在となり、復古的な共同体の中に自分を一体化することが夢想され、喜びとなります。

 フロムの議論は、フロイトの議論に基づくものですが、実は、柄谷行人も、フロイトに基づいて同様の考察を「ネーション」というものについて行っています。近代国家の中で、人は失われた共同体を想像的に回復しようとする、それがネーションだというのです。

 ファシズムにおいては、このネーションが復古的な形でのそれとして現れ、求められるのです。

 では、私達はどのように反ファシズムの連帯を進めたらよいでしょうか。

 フロムはその答えとして、「愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれる」ことという表現をしています。 

 これは、個人であることをやめずに、個人に本来的に内在するところの、他の人々との結びつきをもたらそうとする愛や仕事の自発性の力によって、連帯を取り戻そうとするものと考えられます。

 他方、柄谷は、「アソーシェイショ二ズム」を答えとします。

 これも、狭い共同体的な拘束から自由になった個人でありながら、他人を手段とせず目的としてつながり合う考え方であり、高次のレベルでの互酬的交換を行う、そういう行動の仕方です。

 これらの考え方をキャッチフレーズ的にいえば、グローカルな市民の連帯ということになるでしょう。

 こういう思想を「お花畑」と揶揄する人もいます。

 しかし、まず、マグナカルタ以来、8世紀かけて確立してきた個人の自由、権利という思想と現実、その大切さを、見ることのできない人のほうが、冷静さを失っています。

 また、この100年ほどの間の悲惨な戦争経験、そして最近のアフガンや中東の戦争、様々なテロ事件の経験を通じ、国家を超えた平和的な連帯の必要性も、ますます切実となってきています。 

 あの安倍首相すら、国際的に公的な立場(「戦後70年の談話」)は、「第2次世界大戦を反省し、国際的な平和を非軍事的に求める」ということになっていることを思い起こす必要があるでしょう。

 また冷静な目で見て、アフガン、中東での軍事的な対応はすべて失敗し、多くの一般市民の犠牲が積み重ねられてきています。

 外交的な解決を求めるグローカルな市民の連帯は、現実的な必要に基づいているのです。

 私は、グローカルな市民の連帯の思想を--個人も平和を奪うファシズム運動の復古的共同体の思想に--対置したいと思います。