2016-07-05 人の自由を脅す安倍ファシズム政権の権力悪用の拡大--イギリスとの違い 前々回に、touitusensenwoさんから、 新自由主義が、ファシズムを下から支える運動を生み出しているということが、良くわかりました。イギリスのEU離脱の国民投票結果も、この流れの上にあるのですね。 というコメントをいただきました。いつも、ありがとうございます。 イギリスのEU離脱について議論する前に、少しファシズムということについて、述べておきたいことがあります。 イギリスの国民投票は、確かに、私が前々回描いたような流れと同様であるといえます。 しかし、イギリスがファシズムの下にあるか、といえば、それは、現在ファシズム政権下にあるわけではなく、また、EU離脱自体は、ファシズムの政策というわけでもない、ということを確認しておく必要があります。 このことは、日本の場合、つまり安倍政権下のある私達の場合とは大きく違います。 私は繰り返し述べてきたように、秘密保護法の成立以来、日本の政権は、ファシズム段階に入っています。 ファシズム権力が日本にはすでに存在しているのであり、その権力作用が広がりつつあるのです。そのことを以下で明らかにしていきます。 これを通じて、イギリスとの相違が自ずとわかると思います。 最近の報道に関して、安倍政権の主張に対して、「忖度するな」「自粛するな」という議論があります。それはその通りですが、そういう言い方では、政権によって実際に行なわれている脅迫の存在が見失われます。 秘密保護法成立以来、このファシズム政権による、我々国民の持つ自由に対しての様々な公然たる脅迫が始まっていることを見逃すことはできません。 この政権の内部にいるファシズム的性向を持つ政治家や官僚の自己解放が始まっています。 それらは、下からのファシズム運動とは性格が異なります。 下からの運動は、暴力性を帯びているとしても、それが権限を持たない者の運動であって、公的には権力的な優越性を持たない集団の言動であることは、自他ともに明らかです。 ところが、様々なレベルの権力的な位置を持つ者による、その地位を利用した言動は、そのまま人の自由を強く脅かし、侵す効果を持ち得るのです。 前回の衆議院選挙の時に、公衆トイレでの安倍首相批判の落書きのみが、器物損壊で警察の捜査対象とされました。私の知る限り、マスコミは、ただそれを報道しただけで、正面から批判しませんでした。 この落書き自体は不法行為ですが、安倍首相批判の落書きのみを捜査対象とするのは、恣意的であり、権力の濫用といえるでしょう。 ところが、今回驚くべきことに、「選挙投票に行こう」と呼びかけたグループに、警察が写真を撮るなどした上、ストップをかけたというのです。 (続き)議を受けた県警察本部は『選挙運動ではなく、全員で声を合わせ「選挙に行こう」などと叫んでいた点が集団示威に当たる。適正な職務執行だった』とコメントしています」狂っているとしか言いようがない。市民が集まり選挙に行こうとアピールするのは、今の日本では警察の取り締まり対象なのか。 — 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2016年7月4日 日本はいつから「選挙に行こうとアピールすると警察にビデオで撮影され解散させられる国」になったのか。「戦争の悲惨さを訴える展示」が公共施設から次々と撤去され、「憲法を守ろう」という趣旨のTシャツやキーホルダーを身につけると警察に威圧される。社会の変化が、すべて同じ方向を向いている。 — 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2016年7月4日 県警察本部がこうした行為を職務としている、と公然というわけです。これは、権限の濫用というよりも、国民の自由の権利への権力的な挑戦というべきものです。 続いて、こういう報道もなされています。 「国歌歌えない選手、日本代表じゃない」森喜朗氏(朝日)https://t.co/uomq2K04aT これも同じ方向を向いている。森喜朗氏は神道政治連盟と日本会議の両国会議員懇談会の元重鎮で、安倍首相にとっては頭が上がらない親分的存在。戦前回帰的な価値観の作り替えが加速している。 — 山崎 雅弘 (@mas__yamazaki) 2016年7月4日 国民に対し、君が代を歌うことを強制などする権限は、誰も持っていないことは、いうまでもありません。 都教委の君が代強制裁判で、教員に対する強制が可能とされるのは、公務員に対する職務命令権限という文脈でのものです。 ところが、五輪・パラリンピック組織委会長の森氏が、スポーツ選手に対して、「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」等と実質的に脅迫を行っています。これも、国民の自由への権力的な挑戦です。 警察の件といい、森氏の件といい、これらを「権力の濫用」というようにとらえるのは、法的に適切であるとしても、政治学的、社会学的には不適切だと思います。 「濫用」という言葉では、権力行使のひどさは伝わりますが、そのひどい権力行使が、個人的でたまたまなされたものであるかに響き、それらの行為全体が権力システムとしての意味、効果を持つものであることが、むしろ隠されてしまいます。 日本的ファシズム政権下では、国民の自由や権利を侵害する、乱暴で脅迫的な権力悪用が、時には文書による命令、通達を通じて、時には、そうした命令、通達がないままに、権力的な地位を利用することを通じて行なわれていきます。そうした権力悪用が、権力システム全体として、作用、進行していくのです。 山崎氏が、指摘している「変化がみな同じ方向を向いている」というのはそういう意味です。 中には、私のような議論は、「一つ一つの命令、通達が確認できていないのに、全体を計画的な陰謀のように描く」もの、つまり、いわゆる「陰謀論」だとして批判する人がいます。 しかし、上記で私が主張していること、あるいは山崎氏が述べていることが、陰謀論でないことは明らかでしょう。 いずれにせよ、ここで重要なのは、安倍首相と森会長が「裏で示し合わせているかどうか」ということではなく、彼らの行動それぞれ--内閣における集団自衛権合憲解釈決定や君が代強制発言--が、いずれも権力的な地位を利用したものであり、ファッショ的な効果を持つもの、国民の人権や自由への侵害となっているということです。 ファシズム勢力が権力を持つと、明確な命令と同時に、そうした明確な基礎を持たない権力悪用が大量に「発生」し、それらが合わさって、ファシズム権力システムとして機能していくのです。 そしてさらにいえば、こうしたファシズム権力システムとしての作用に加えて、下からのファシズム運動が加わっているのが、ファシズム勢力の動きの全体像です。 この全体像を把握しながら、これらが少しでも小さい内に、一つ一つに対し、はっきりと抵抗し、批判を加えることが必要です。 マスコミは、ただ事実を報道するだけではなく、特に人権に挑戦するような権力悪用に対しては、正面から批判を行うべきです。 それがないと、伝わってくるのは、権力の脅迫に対するマスコミのおびえであり、社会には抵抗の意志ではなく、そのおびえが感染していきます。 マスコミがひるむことなく、こうした権力批判を行ってほしいと思います。
というコメントをいただきました。いつも、ありがとうございます。
イギリスのEU離脱について議論する前に、少しファシズムということについて、述べておきたいことがあります。
イギリスの国民投票は、確かに、私が前々回描いたような流れと同様であるといえます。
しかし、イギリスがファシズムの下にあるか、といえば、それは、現在ファシズム政権下にあるわけではなく、また、EU離脱自体は、ファシズムの政策というわけでもない、ということを確認しておく必要があります。
このことは、日本の場合、つまり安倍政権下のある私達の場合とは大きく違います。
私は繰り返し述べてきたように、秘密保護法の成立以来、日本の政権は、ファシズム段階に入っています。
ファシズム権力が日本にはすでに存在しているのであり、その権力作用が広がりつつあるのです。そのことを以下で明らかにしていきます。
これを通じて、イギリスとの相違が自ずとわかると思います。
最近の報道に関して、安倍政権の主張に対して、「忖度するな」「自粛するな」という議論があります。それはその通りですが、そういう言い方では、政権によって実際に行なわれている脅迫の存在が見失われます。
秘密保護法成立以来、このファシズム政権による、我々国民の持つ自由に対しての様々な公然たる脅迫が始まっていることを見逃すことはできません。
この政権の内部にいるファシズム的性向を持つ政治家や官僚の自己解放が始まっています。
それらは、下からのファシズム運動とは性格が異なります。
下からの運動は、暴力性を帯びているとしても、それが権限を持たない者の運動であって、公的には権力的な優越性を持たない集団の言動であることは、自他ともに明らかです。
ところが、様々なレベルの権力的な位置を持つ者による、その地位を利用した言動は、そのまま人の自由を強く脅かし、侵す効果を持ち得るのです。
前回の衆議院選挙の時に、公衆トイレでの安倍首相批判の落書きのみが、器物損壊で警察の捜査対象とされました。私の知る限り、マスコミは、ただそれを報道しただけで、正面から批判しませんでした。
この落書き自体は不法行為ですが、安倍首相批判の落書きのみを捜査対象とするのは、恣意的であり、権力の濫用といえるでしょう。
ところが、今回驚くべきことに、「選挙投票に行こう」と呼びかけたグループに、警察が写真を撮るなどした上、ストップをかけたというのです。
県警察本部がこうした行為を職務としている、と公然というわけです。これは、権限の濫用というよりも、国民の自由の権利への権力的な挑戦というべきものです。
続いて、こういう報道もなされています。
国民に対し、君が代を歌うことを強制などする権限は、誰も持っていないことは、いうまでもありません。
都教委の君が代強制裁判で、教員に対する強制が可能とされるのは、公務員に対する職務命令権限という文脈でのものです。
ところが、五輪・パラリンピック組織委会長の森氏が、スポーツ選手に対して、「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」等と実質的に脅迫を行っています。これも、国民の自由への権力的な挑戦です。
警察の件といい、森氏の件といい、これらを「権力の濫用」というようにとらえるのは、法的に適切であるとしても、政治学的、社会学的には不適切だと思います。
「濫用」という言葉では、権力行使のひどさは伝わりますが、そのひどい権力行使が、個人的でたまたまなされたものであるかに響き、それらの行為全体が権力システムとしての意味、効果を持つものであることが、むしろ隠されてしまいます。
日本的ファシズム政権下では、国民の自由や権利を侵害する、乱暴で脅迫的な権力悪用が、時には文書による命令、通達を通じて、時には、そうした命令、通達がないままに、権力的な地位を利用することを通じて行なわれていきます。そうした権力悪用が、権力システム全体として、作用、進行していくのです。
山崎氏が、指摘している「変化がみな同じ方向を向いている」というのはそういう意味です。
中には、私のような議論は、「一つ一つの命令、通達が確認できていないのに、全体を計画的な陰謀のように描く」もの、つまり、いわゆる「陰謀論」だとして批判する人がいます。
しかし、上記で私が主張していること、あるいは山崎氏が述べていることが、陰謀論でないことは明らかでしょう。
いずれにせよ、ここで重要なのは、安倍首相と森会長が「裏で示し合わせているかどうか」ということではなく、彼らの行動それぞれ--内閣における集団自衛権合憲解釈決定や君が代強制発言--が、いずれも権力的な地位を利用したものであり、ファッショ的な効果を持つもの、国民の人権や自由への侵害となっているということです。
ファシズム勢力が権力を持つと、明確な命令と同時に、そうした明確な基礎を持たない権力悪用が大量に「発生」し、それらが合わさって、ファシズム権力システムとして機能していくのです。
そしてさらにいえば、こうしたファシズム権力システムとしての作用に加えて、下からのファシズム運動が加わっているのが、ファシズム勢力の動きの全体像です。
この全体像を把握しながら、これらが少しでも小さい内に、一つ一つに対し、はっきりと抵抗し、批判を加えることが必要です。
マスコミは、ただ事実を報道するだけではなく、特に人権に挑戦するような権力悪用に対しては、正面から批判を行うべきです。
それがないと、伝わってくるのは、権力の脅迫に対するマスコミのおびえであり、社会には抵抗の意志ではなく、そのおびえが感染していきます。
マスコミがひるむことなく、こうした権力批判を行ってほしいと思います。