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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

安倍ファシズム政権と発展途上国研究の「正しい」適用

 こんなツウィートがありました。

 

  ここで「笑顔を抜き」「仏頂面の聴衆を抜く」と言っているのは、「笑顔の部分を使い」「仏頂面の聴衆の部分を使う」ということですね。

 この種の論評は、失礼ですが、もしかしたら少し誇張があるかもしれません。でも、私はだいたいにおいて間違っていないだろうと思います。

 NHKが、熊本地震の時に、震源地などを示す図に川内原発が入らないようにしたり、今回の参院選を極端に知らせないような番組構成をしたりしたこと、女性殺害に講義する沖縄県民大会を、「県民大会」という呼称を意図的に避けている、等々、から考えて、NHKが系統的に行なっている検閲の重要な一部である、と考えられます。

 安倍政権のやっていることを見ていて、(独裁的な)発展途上国で見られる手法だな、と思うことは、私も度々あります。

 このブローグでも、安倍政権の国会与党と一体になった独裁(秘密保護法や解釈改憲、戦争法の制定)が、本質的にはクーデターであると指摘しました。

 これは、1992年にペルーのフジモリ政権がやったことと本質的に同じです。議会の与党と一緒になって、憲法に基づく本来の議会政治をひっくりかえして、独裁体制を作り出していくのですが、これは、「自己クーデター」と呼ばれました。

 また、ラテンアメリカの軍事政権は、1980年代以降に民主政権へ移行していきますが、その中で、政治テクノロジーとして目立ってきたことがあります。

 テレビを中心としたマスメディアの利用です。それ以前は、政治において、労働組合や政党等の組織勢力が重要性を持っていると考えられていました。

 ところがややおおげさにいうと、民主主義へ移行した結果、民主主義では、ある意味で選挙がすべてであり、選挙はテレビをうまく利用した者が勝つ、という経験が得られるようになっていきました。

 この点は、途上国よりも、むしろ先進国で先に起きていた現象かもしれません。

 一方で、労働組合などの組織に属する人の数が減少してきたこと、他方で、生活の中で、娯楽を中心としたテレビに接する人の数と時間が増大してきたことによるのでしょう。

 しかし、一般的なテレビ利用というのではなく、許可権限を利用して圧力をかけたり、公共放送とされるNHKを事実上「政府放送」にしてしまうのは、やはり途上国的です。

 昔、雑誌のレフリーとして、ある途上国の財政についての数量的分析の外国人の論文を読んだことがあります。

 それは、選挙前になると、財政のバラマキが行なわれることを、統計的な回帰分析で実証したものでした。

 これも、今回の安倍政権が高齢者向けに補助金のバラマキを行なったのと同じですね。

 以上、いろいろ述べてきましたが、決論的に、日本も「途上国」になってしまった、ということなのでしょうか?

 途上国政治の研究が、日本にもあてはまるということなのでしょうか?

 もはや日本も「北朝鮮並」「中国並」ということなのでしょうか?

 私も発展途上国の研究をしているので、研究という観点から、昔から気になっていることについて、コメントしておきたいと思います。

 それは、発展途上国研究に見られる「傲り」というようなものです。 

 発展途上国研究というのは、「先進国」でなされるもの(日本は当然「先進国」です)で、フロンティアの学問、最先端の学問を適用すべきもの、もちろん「研究対象」は、「発展途上国」ということになっています。

 それは「発展途上国」を貧困や官僚の贈賄から解放するための研究であり、そのために途上国が「客観的」分析の対象とされるのは当然であり、さらにいえば研究する側(先進国)に感謝して当然だ、というような雰囲気があります。

 その極端なものが、途上国の政治研究界隈での、「破綻国家」「失敗国家」(=failed state)という呼称の拡がりです。

 「失敗国家インデックス」というようなものまであり、アフリカの国々がそのリストに筆頭に挙げられています。

 もちろん、「先進国による軍事介入を正当化している」バイアスのある用語だという批判もあるようですが。

 7、8年前のことですが、私が非常勤で講義をしていた時に、大学院のマスターレベルの学生が、「破綻国家における教育をどうとらえるか」というようなことを言ったので、びっくりしたことがあります。

 おそらく、途上国の政治に関心を持ってまじめに勉強してきた人なのでしょう。つまり、大学でそういう専門教育を受けてきた人だろうと思います。

 しかし、専門の勉強を始めてすぐの若い人に、「破綻国家」という概念を、無批判的に教えるのはどうでしょうか。

 それを、若い内から、途上国の見方の基礎的ツールの一つとするような教育は、あまりに「上から目線」を植えつけてしまうもの、自己を相対化する能力を奪うものです。

 あるいは、やはりレフリーとして、数量データを使った日本人の論文を読んだことがあります。中東での男女平等を進めるために、モデルを作ってシミレーションを行なっていました。

 この種の論文では、必ずと言っていいほど、「政策的インプリケーション」ということが問題となって、シミレーションが行なわれます。

 ところが、私が驚いたのは、「政策的インプリケーション」として、モデルの因果関係はわからないといいながら、ともかく、こういう政策を取れば(この政策変数を動かせば)、男女平等に貢献がある(男女平等の指標が良くなる)ということが述べられていたことです。

 現在、社会科学において、いくら数量信仰があるとはいえ、途上国における政策づくり、というものをまじめに考えたら、こんなことは、とてもできることではありません。

 私自身は、研究を続ける中で、最初から発展途上国ありき、ということではなく、むしろ先進国を含めて全体を理解し、それを対象化、相対化して、その中に発展途上国を位置づけて捉えることの重要性を感ずるようになりました。

 そうすると、当然、日本もその中に位置づける必要がありますし、固定的に、先進国と発展途上国と分けて議論するような方法の不適切さを感じます。

 世界全体を相互に特別視せずに、それを歴史的な流れの中で理解することが必要です。

 そうしてみると、今の日本のことも、「先進国」から「途上国」に逆戻りという把握よりも、明治維新の絶対主義的天皇制から、敗戦後の民主主義への移行の不徹底の問題という把握が必要ではないか、というように思います。

 戦後直後の近代主義者達が提起した、個人の確立といった民主主義の根幹に関わる問題は、まだ終わっていないのではないでしょうか。