hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

原子力安全工学、金融工学の危うさと学問の「工学化」(1)

  英国のEU離脱の話から、横道に逸れて来ていますが、大切な点だと思いますので、タイトルを変えて論ずることにします。

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 工学というものは、本来、理学的な知識と数学を合わせて、実践の一連の手続き(通常は複雑で長いものとなる)を明確にしながら、難しい実践に向かおうとするすばらしいものです。

 またそこでは、実践的な目標が明確であるために、理学的な知識だけ、あるいは数学的センスだけでは、出てこないであろう驚くべき発見がなされます。

 そしてそれが、理学や数学に刺激を与える、ということも度々のようです。

 また、工学自体も様々な意味での発展があります。

 伝統的にいえば、工学の対局にあるのが哲学でしょう。本来の大学(ニユバーシティ)では、工学部というのはありませんでした。

 日本の明治維新後にできた東京帝国大学は、工学部を有する新しい大学でしたが、そこでも、学部序列としては一番低い席が与えられました。

 哲学こそ学問の王であり、実践を目的とする、実践によってたつ工学というものは卑しいものとされたのです。

 しかし、だんだん工学の力が大きくなっていくと、「哲学的思考」というものは、「高尚」のように見えるが、役立たず、意味不明で、時間の無駄、さらにいえば、インチキ、といった負の意味を与えられることさえ出てきました。

 ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論稿』やポパーの『歴史主義の貧困』がそうした「哲学的思考」批判としては重要です。

 前者は、即、工学へと向かうものではありませんが、旧来の「哲学的思考」批判としては決定的でした。

 後者は、批判対象は歴史主義ということになっています。

 実際には読んでみると、批判対象とされているものが明確に定義されていないのですが、他方で、社会科学へ工学的な方法を導入することの意義が強く推奨されていることがわかります。

 最近では、旧来の「哲学的思考」を非生産的なものとして、工学的なアプローチを採用しようとする傾向は、ますます強まっています。

 戸田山和久という科学哲学者が、 『哲学入門』[2005]という本を出していますが(10年以上も前ですが、学問論のスパンでは、10年前は「最近」といってもよいでしょう)、哲学における「工学的なアプローチ」を展開しています。

 私は、工学自体の発展が固有の必然性とすばらしい成果をもたらしてきたことを認める立場ですが、同時に、そこに、深刻な問題が生じてきていることを、批判的に見ている者でもあります。

 この問題は、工学が発展すればするほど、資本主義や国家と深く結びついてくることと関係します。

 しかし、以下では、学問内在的な観点からの議論に絞ることにします。

 工学が本来的に持つ実践的な構えには、落とし穴があります。 

 「『実践する』ということを前提に全体を作り上げていってしまう」ということが常態化します。

 原子力安全工学を例にとりながら、議論しましょう。

 現在、多くの重要大学に、原子力安全工学学科に相当するものがあります。しかしそれらで、安全性という観点から、どれだけ真剣さを持って、「原発をストップする」という選択肢を含めた枠組みが考えられ、そうした枠組みに基づいた工学教育が行なわれているのでしょうか?

 原発に携わってきた技術者・研究者で批判的立場を明確にした人々や早くから批判的であった研究者の中には、例えば、「まだ抜本的な安全策が提出できていないので、100年くらいは、原発は廃止する、その後に、抜本的な安全策ができれば、再開してもいい」ということを述べている人もいます。

 そういう人達が、原子力安全工学学科の講師として授業を受け持つことはあるのでしょうか?

 私は、これらの疑問に対する答(実態)を知るところではありません。しかし、Noと答えて、間違いはないだろうと想像します。

 現在の原子力安全工学は、原子力をいかに安全に取り扱うかを分析するものでしょう。それは、最終的に、原子力を使うための学問であって、ストップするものではありません。

 一時的に、ストップする根拠を与えても、それは次のステップで「安全を保証して」動かすためのものです。様々な段階で困難が生じても、それは、「必ず」克服されていくものであり、従ってまた、「必ず」原発は動かし得るものなのです。それは、「技術者としての確信」に近いものです。

 他方、仮に、原子力安全工学の研究を通じて、原子力はいかなる方法・技術を使っても安全なものにすることが不可能であり、危険であって、従ってその利用は止めるべきである、という結論が得られたとしましょう。

 さらに、それが受け入れられて原子力利用が廃止されたとしましょう。

 そうすると、原理的な言い方をしますと、原子力安全工学は不要となります。

 あなたが、この分野の専門家であって、学部時代から10年間以上勉強、研究してきたとしましょう。それが無駄になってしまうのです。その様な時に、自分の判断が、冷静、客観的、中立的にできると思いますか?

 あなたの周りは、みんな、いかに原子力を安全に使うかを研究してきた人ばかりなのに、それを例えば、「根源的な代替的安全策が見つかるまでは、50年あるいは100年くらいは、ストップしよう」と提案することができますか? 

 原子力安全工学が、「本当の意味での実践的」な--つまり、市民にとって安全を保証する--ものとなっていくには、次のことが必要でしょう。

 すなわち、研究者達が自己の使命として、「実践的な選択肢」の中に、場合によっては「原子力の使用を止める」という選択肢(結論)を含んでいる新しい工学的枠組みを、本気で受け入れるようになっていくことです。

 横道がどんどん長くなっていますが、なるべく次回で終わりにします。