hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

原子力安全工学、金融工学の危うさと学問の「工学化」(2/終り)

 最初に、沖縄、髙江のヘリパッド着工について、怒りの表明、抗議を行なっておきます。

 

 

 

 沖縄、髙江への機動隊派遣、市民を暴力的に排除しながらのヘリパッド着工に、怒りを覚えます。

 安倍首相に抗議します。

 マスメディアは、こうした事実をきちんと報道すべきです。それがあれば、安倍政権もここまで酷いことをできるとは思いません。

 報道者には、そうした社会的使命を果たすことが前提として、特権が与えられています。

 今、沖縄髙江の真実を報道しようとしないマスメディアにも、抗議します。

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 安全工学における安全評価の基本枠組みは、「確率論的安全評価」と呼ばれます。

 原発の場合、苛酷事故へ至る原因・結果の連鎖の環を積み上げて計算するのです。

 竹田茂夫氏は、この手法による、原子力学会のリスク評価を3つの点から批判しています(東京新聞2011/09/22)

 

 ①事故原因の予見不可能性。思いつかない原因の存在。あるいは、こうした学会の報告書などで無視される原因の存在。例えば、全国の原発への同時多発テロの可能性。

 ②原因・結果の環は確率的に独立とは限らない。つまり、複数の事故原因は連動、共振する可能性がある。複数の原因のひとつひとつの確率が低いので、その積は極小で無視できるという、確率的独立の想定は誤りである。

 ③損害額が過少に評価される。原発のリスクを事故の確率×損害の大きさで測る場合、損害とは何かが決定的に重要になる。東電の賠償額は巨額になるが、それとてもわれわれが失ったもの、失うもののごく一部にすぎない。

 

 私は、この竹田氏の本質的批判で、原子力安全工学の持つ根本的欠陥が十分に示されていると思います。

 また、上記①②③の批判は、金融工学への批判にも当てはまるといってよいでしょう。

 ところが、実際には「専門家」達が行なう議論や報告書は、上記のような本質的・根本的欠陥をどうするか、という議論はせずに、非本質的・非根本的な部分を細々と数字や数式を使って議論をして、「安全を確保する」ということになっています。

 何故そうなるのか、といえば、それは前回議論したように、原子力安全工学が、原発を動かすためのものであるから、そのためには、その学問の根本的な弱点から目を背ける他ないから、そして自分の「得意」なこと・論点だけを細々と研究するから、こうして、長期的にストップするという選択肢は、最初から排除されるようにできているから、です。

 あるいは同じく、金融工学も、金融取引の領域を拡大化し、活発化するためのものであって、それは①②③のような問題に向き合わないことによって、成立し、応用可能となるものだからです。

 実は、こうした問題は、これらの現代社会と密接に関わった領域の原子力安全工学や金融工学に典型的に現れてきていますが、現代の学問全体の問題でもあります。

 また、長くなってきましたので、このことをよく示す、2つのエピソードを紹介して終わります。

 リーマンショックに関わって、経済学者の責任が問われた英米での話です。

 第1は、イギリスのエリザベス女王の「どうして、リーマン危機が起きることを誰もわからなかったのですか?」という質問に対する経済学者達の回答です(朝日新聞2012年10月11日)。

 「金融市場や世界経済について多くの警告はありましたが、分析は個々の動きに向けられました。大きな絵を見失ったことが、ひんぱんにありました」「誰も全体を見ていなかった」

 

 

 第2は、米議会での証言(デイヴィッド・コランダーのジョーク)です(『世界』 2011年3月814号p116-117)。

 

夜おそくひとりの議員が我が家へ向かつて歩いていると、街灯のもとで鍵を探している経済学者に出会った。その経済学者も投票してくれるかもしれないと思って、立ち止まって助けることにした。しばらく探したが見つからないので、議員が経済学者に、どこで鍵をなくしたのかと尋ねた。すると、経済学者は真っ暗な彼方を指差した。そこで議員が「なぜそこと違うところを探すのか」と尋ねると、経済学者は「ここは光で照らされ明るいからだ」と答えた。

 

  特に解説しなくても、この2つを合わせると、現在の社会的実践に関わる社会科学の病巣がよくわかっていただけると思います。