安倍首相は、なぜ相模原事件への批判声明を出さないのか(続/終り)--言葉の大切さ
多くの人が、相模原事件の事実関係やその報道の仕方・論じ方に関して、すっきりしない感覚を持っています。
私も、前回のブローグで、最低限の最初の出発点として、必要だと思うことを書きました。
そうしたら、ネットで、移民に対する襲撃に関して、ドイツのメルケル首相が次のような発言をしていることを知りました。
メルケル首相のメッセージ(論理と意図)が、コンパクトで明快、確固たるものであったのでしょう、上記の記事自体が、コンパクトで、明快、分かりやすいものとなっています。
①「衝撃的で、耐え難く、つらい」と述べつつも、独当局が事態に対応できなくなっているわけではないとコメント。
②襲撃犯らの狙いは「助けを必要としている人々に手を差し伸べようとするわれわれの共同体意識、寛容さ、意欲を損なうこと」だったとして、「そのようなことは断固として退ける」と述べた。
③移民・難民を受け入れる姿勢を改めて強調。「私たちにはできると、今も確信している。これは、われわれの歴史的な義務であり、グローバル時代における歴史的な課題だ」とメルケル首相は語った。
メルケル首相は、①被害状況に責任があり、かつ感情を持った当事者として立ち会っていることを示した上で、②政府が守ろうとしている価値を破壊しようとする犯人の動機を分析・非難し、③政府の政策の続行を宣言しています。
今回の日本の悲しい事件において必要なのは、まさにこのようなメッセージ(①悲しみの共有、②優生思想の非難、③障害者のための福祉政策の強化)であると思います。
なぜそれがないのでしょうか。前回、その答えは書きませんでしたが、もちろん、それは安倍政権がファシズム政権であり、ナチズムに親近感を持っており、今回の犯行を陰に陽に擁護するような勢力を支持勢力・利用勢力としているからです。
私が、メルケル首相のような発言が必要だ、という時、それは、メルケル首相のようなリーダーが必要だ、ということに等しいようにとられるかもしれません。
そして、それはさらに、今日の世界的な状況における日本をリードするリーダー待望論につながるものととられるかもしれません。
しかし、私の意図はそこにはありません。
リーダー論ということでいえば、すでに安倍首相は、日本人の多数の待望したリーダーだということだと思います。
「それに代わる者がいない」という理由での比較的高い支持率の維持が、それを示していると解釈できるでしょう。
私は、日本の政治おける問題を、リーダー論という視角からではなく、言葉・論理の大切さ(その欠如)という観点から考えたいと思います。
私がメルケル首相のメッセージを議論したのは、「ドイツはすぐれている」「すぐれた指導者がいる」「日本もまともな指導者が欲しい」ということではありません。
安倍首相を「それに代わる者がいない」という理由で支持している日本人の政治感覚は、様々なレベルにおいて、言葉・論理を大切にしない、文化・社会・政治的背景があるように思います。日本の問題を深さを持って考えるには、そこを問題にする必要があると思います。
メルケル首相の簡潔なメッセージは、こうした問題を考えるための材料となるでしょう。