hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

人間的公務員「天皇」制のために(2)

 もう、天皇の生前退位に関わる「お気持ち」が発表されました。その前に、このシリーズは、書き終わるつもりでしたが、間に合いませんでした。

 ただ、意味がなくなってしまうことはないので、なるべく要点に絞る形で、続けます。

 

 1.革命としての国民主権天皇の国民化

 

憲法前文)

・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、・・・

 

は、革命的な瞬間を表現したものです。それは、天皇主権を、国民主権に変更した瞬間です。

 (前にも書いたように、宮澤「8月革命」説は、彼の保身の論理です。)

 そして、この瞬間天皇は、一国民となりました。

 

2.地位(役割)としての「天皇

 

(第1条)

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 

 ここで、まず重要なのは、憲法上の「天皇」は、地位(役割)であって、生物的な存在としての天皇ではないことです。続いて「この地位」といっていることは、この当然のことを確認しています。第2条でも、「皇位」という表現を用いて、同じことをいっています。

 

 3.総意による「一方的」制度と「奴隷的」天皇

 

 第1条で、もう一つ重要なのは、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と述べていることです。

 ここで、日本国民の内、後に明確にされる、主権を有しない国民(=天皇)と主権を有する一般の国民に区別がなされ、後者の総意として、前者(天皇という地位)が生物的存在としての天皇皇位継承者に与えられる、というわけです。

 これは、憲法が、一般国民による革命的な性格を持っていることによる、一方的な宣言であることを反映しています。

 つまり、天皇の意思を聞くことなく、一方的に「天皇になれ」(=天皇という地位・役割を受け入れて、その仕事をしろ)といっているのです。

 では、天皇やその地位の継承者達が、「天皇になること(その地位の受け入れ)」を拒否することはできないのでしょうか?拒否すると、憲法違反として重罰を受けることになるのでしょうか?

 もちろん、そうではありません。この憲法は、人権の尊重を基本としており、いやでもやらせるという奴隷制を、誰に対しても(天皇に対しても)、あてはめようとすることはあり得ないからです。

 もし、天皇及び皇位継承者達全員が「いやだ」と言い出したとすれば、当然、憲法(の基本精神)に基づいて、それは受け入れられます。

 その場合、それは皇族による「共和革命」を意味することとなり、ただちに、日本は共和制に移行することとなるでしょう。

 皇族は、主権者としての国民の一部に復帰することになります。日本は、主権者としての国民のみによって構成される国(共和制国)になります。

 現在の憲法は、天皇に関わる条項、文言を削除すれば、そのまま有効であり、実質的な混乱は全くないまま、共和制は実現できます。

 上記は、一般国民による天皇の地位の付与に対して、天皇皇位継承者達による、それに対する「実質的な拒否権の存在」を認めることを意味します。*1

 ただし、それは、皇族側によるその地位や役割の内容についての「条件闘争」の可能性を認めるものではありません。

 憲法の規定が、一般国民による一方的宣言であるというのは、あくまで、「地位・役割内容は一般国民によって決めてある」という意味であり、これは重要なことです。

 私は、今回の天皇による生前退位の問題は、広い意味でのこの「実質的な拒否権」の表明であると理解します。

 従って、一般国民の側からは、これを認め、--「奴隷的」天皇制の主張者は賛成しないでしょうが--皇位継承者達に、受諾の返答を促して、ことを進めるのが妥当と考えます。

 なお、付け加えておくべきは、憲法施行後の1947年9月に昭和天皇が行なった「沖縄処分」発言のような、明白かつ重大な憲法違反に対しては、一般国民(政府)は、直ちに最低限、天皇の罷免を断行し、さらには共和制への移行も含めた議論を行なうべきだったと考えます。

 

4.「憲法を象徴する公務員」としての「象徴天皇

 

 

(第4条)
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。

 

 この条項は、天皇主権がいかに国の進路を誤り、国民に犠牲をもたらしたか、という歴史的反省に基づいて、象徴天皇の権限、活動を極限的にといえるまで制限して、国民主権の実質を確保しようとするものです。

 「天皇この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ」というのは、何を意味しているのでしょうか?

 それは、先に指摘したように、「天皇」という言葉の代わりに、「天皇の地位・役割」という言葉を入れてみると、はっきりします。

 つまり「天皇の役割は、この憲法の定める国事に関する行為を行なうのみである」といっているのです。この国事行為のリストは、次の通りです。

 

(第7条)
天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の委任状を認証すること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。

 

 これらの行為は、戦前の天皇制の下では、天皇が権威、権限を持って行なったことなのでしょう(私はこの点についてのすべては確認していません)。

 しかし、この日本国憲法の下では、それらの国事行為は天皇による、象徴的な形で国事に権威を与える、まさに「象徴的行為」である、ということを、天皇は「国政に関する権能を有しない」とすぐに明確にする形で念押しをしています。

 また、国政に関する権能を有しない」という規定は、それ自体として、天皇から選挙権が剥奪され、さらに政治的な発言が禁止される根拠とされます。

 つまり天皇は、「国政に関する権能を有しない」タイプの国民と区分され、彼が有する人権ということについていえば、重要なものが剥奪されていることになります。

 上記から、象徴天皇の仕事は、このリストにあるだけ、それ以外してはいけない、というのがこの憲法の本来的な姿(意図あるいは主旨)であることは、明白だと思います。

 例えば、特に、国会開会式における天皇の「お言葉」というものは、憲法が認めるならば、当然このリストに明示的に出てくるべき性質のものです。

 しかし、実際には憲法が挙げる10項目に入っていないのですから、私の目からは、それを行なうことの違憲性は明白です。憲法学者でこの合憲性をいう人は、本筋でないところからこじつけているとしか思えません。

 ただ、私は、現時点では、このリスト以外のいわゆる「公的行為」というものも、象徴天皇の役割に含めていいと考えています。ただし、それは、「この憲法に沿ったもの」でなければなりません。

 また、長くなっています。「この憲法に沿ったもの」とは何なのか、その点について、次回に続けます。

 

*1:この論点については、岡口基一氏のツウィートで、学者達の議論がすでにあることを、前回の記事に対するpikoamedsさんからのコメントで知りました。ありがとうございます。