人間的公務員「天皇」制のために(4)--ザ・ピープル、しっかりせよ!
今日も少し、本論から脱線します。
天皇の「お言葉」に関して、法律家でない人達の論評の中に、「重い問題提起だ」という意見と「これは、第2の天皇人間宣言だ」という意見があります。
私は、これらの論評に共感するものです。
そして、世論調査を見ますと、
問い)現行制度では、天皇は生前に退位し、皇位を譲ることはできません。 あなたは、天皇が生前に退位できるようにすることをどう思いますか。
答え)できるようにした方がよい --86.6%
(共同通信による8月8、9日調査)
とのことです。
一見すると、基本的にまともな方向へ話が進んでいきそうです。
しかし、私はかなり不安を持っています。
今日のサブタイトルを、「ザ・ピープル、しっかりせよ!」としました。
ザ・ピープルというのは主権者たる国民のことです。
ですから、本来、「しっかりせよ!」等といわれる存在ではなく、最高の存在です。
しかし、あえて自らと仲間を叱咤激励し、この不安を払拭しようと思います。
「ザ・ピープル、しっかりせよ!」
原発も、秘密保護法も、戦争法も、反対がかなりの多数を占めていました。
ところが、何故か、少し時間が経つとずいぶん様相が変わってしまいました。
確かに、安倍ファシズム政権は、嘘や騙し、アメとムチ、論点ずらし、権力濫用、色々やりましたが、私から見るとそれほど、巧妙でも精緻でもないやり方でした。
自分が、主権者としての国民=ザ・ピープルだ、という自覚があると、そう簡単に変われるものではないと思います。
ザ・ピープルとしての自覚があると、すぐにインチキが直感できます。だまされないはずです。
生前退位の問題で、天皇のメッセージが、憲法違反だというもっともらしい意見があります。
これについて、主権者としての意識を明確にして考えてみましょう。
例えば、この共同通信のアンケートの中に、次の結果があります。
問い) 今回のビデオメッセージをきっかけに生前退位を可能にする法整備が進む可能性があります。 あなたは、このことが、天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題があると思いますか。
答え)問題がある-----16.2%
問題はない-----72.6%
分からない・無回答-11. 2 %
(共同通信による8月8、9日調査)
何か、うさんくさい質問ですね。
この質問の中の「このこと」とは、「法整備が進む」ことです。
これは、実は、次の2つの全く別のことを、わざとごちゃ混ぜにして、「問題がある」という答えを誘導しようとするものです。
(1)「ビデオ・メッセージ」
(2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」
(1)「ビデオ・メッセージ」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」という論理は、それなりに、憲法論として成立するでしょう。
ビデオ・メッセージを発する、という行為が、憲法規定に反する疑いがある、という論建てです。
他方、
(2)「生前退位を可能にする法整備が進むこと」が、「天皇が国政に関与できないとする憲法の規定上、問題がある」ということはあり得ません。
この2つは、明確に区別しなければなりません。それぞれについて、別々に議論すべきことです。
そして、重要なことは、この2ついずれについても、主権者たる国民として考え、決定するということです。
まず(2)について見ましょう。
(2)では、国民が必要、妥当と思うことを決めれば良いのです。
つまり、憲法に書かれた通り、国民主権でやればいいだけのことです。
法整備を進めるかどうか、法整備の中身をどうするか、国民、議会が議論します。
その始めや、途中に、天皇や天皇の家族の意見を聞くことは「必要」あるいは「義務」ではありません。
しかし、国民、議会が、そうした意見を何らかの意味で参考にしたいと思い、そのほうが適切な決定ができると考えて、天皇側に質問を行なうことはあり得るでしょう。
基本的に、「天皇は国政に関する権能を有しない」という憲法の規定は、天皇の権能・行動や政府の行動に縛りをかけるものであって、国民の主権者としての行動に制限をもたらすものではありません。
天皇の意見を聴取するかどうかを考えて、するとすれば、それは主権者たる国民が、(主権者として一方的に)正しい、妥当な決定を行なうためのものです。
(前回まで示してきた私の憲法解釈では、天皇候補者は「交渉」はできませんが、「実質的な拒否権=天皇に就任しないこと」は可能です。)
もちろん、共和制になることを国民が決定する場合は、天皇側の意見を聞く「必要」は全くありません。
国民あるいは議会の多数が主権者として決定の結果、天皇の希望が100%、あるいは150%、200%実現することもあるかもしれません。逆に、全く何も認められないこともあるでしょう。
いずれの場合も、それは天皇による国政への関与でも何でもなく、ただ、主権者たる国民による決定です。
次に、(1)について見ましょう。
中には、天皇のメッセージの内容は、「賛成、あるいは必ずしも反対ではない、だが、(1)メッセージを発したこと自体が、憲法違反だ」という人もいるでしょう。
そうした立論は、憲法論としては可能だと思います。(前回、私は、そうした立場に立たないということを書きましたが。)
そうした立場の人は、メッセージを発したこと自体を批判すれば良いでしょう。
主権者として当然です。
当然どころか、憲法違反に対し戦う(批判する)のは、主権者としての責務ですらあるのです。
ところが、共同通信アンケートは、「ビデオ・メッセージ」を問題にしているように見せながら、問題の焦点を「生前退位を可能にする法整備が進むこと」にしてしまい、「法整備が進めば、憲法上問題があり」、「法整備が進まなければ、問題がない」という構図に、回答者の意識を引き込んでいます。
先に述べたように、主権者としての自覚があれば、こういうインチキに振り回されないでしょう。法整備を進めるか進めないかは、100%国民が決めることです。
それが天皇の希望に沿ったものとなるか、ならないかということと、すでになされた天皇発言の違憲性の有無とは何の関係もありません。
アンケートがなすべきであった妥当な質問としては、例えば、
「天皇は国政に関する権能を持たない、とする憲法の規定があります。今回のビデオメッセージについて、この規定に反すると考えますか?」
というものでしょう。
もしかしたら、ビデオ・メッセージの違憲性の問題と法整備を進める・進めないの問題を絡めようとする人の中には、違反に対し、「何らかの罰が必要だ」という意識があるのかもしれません。
メッセージは違反であり、違反者に対する「最強」の罰は、違反者の希望を(たとえ内容的・人道的にそれが正当・妥当であったとしても)認めないことだ、というのです。
これも、強いて言えば、主権者意識といえばいえるかもしれません。しかし、主権者意識というよりは、何かサディスティックで、権威主義的な匂いがしますね。
実際のところ、「違反者の希望を認めない」という罰を必至とすることは、論理的に破綻していて、その「論理」の適用は、権威主義者の都合や利害による恣意とならざるを得ないのです。
このことは、次の例を考えれば、すぐわかるでしょう。
天皇が自民党の憲法案の支持者になって、ビデオ・メッセージ第2弾でその旨を披露したとしましょう。
そうすると、この「論理」に従うと、自民党憲法案は、実現が許されないことになります。
めでたいことですが、実際にはこうはならず、権威主義者達は、必ず、「あれは天皇の本心ではない。自民党案を阻止するために、言い出したのだ」と言い出すでしょう。
この種の(1)と(2)を絡めようとする「論理」の枠組み(違反に対する罰という枠組みや、あるいは、天皇の意見を認めるとそれは憲法違反を認めることになるからダメという枠組み)は、単なる口実であり、それはただ「自分にとって不都合な法の整備を進めたくない」人々の政治的な利害を隠すためのものであることを見抜く必要があります。
今日は(も?)、少し脱線しましたが、私はつくづく、細かい議論以前に、しっかりした主権者意識を持つこと、育てていくことの重要性を感じます。