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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

人間的公務員「天皇」制のために(5)--キモとしての「世襲」と「象徴」

 今日は、本論に入ります。

 私は、昭和天皇から平成天皇への代替わりによって、憲法象徴天皇制の性格の変更(解釈変更)の可能性が開かれたと考えます。

 この新しい解釈が、私が「人間的公務員『天皇』制」と呼ぶものです。*1

 この解釈変更は、共和制支持者の側から見て、「共和制」性の前進と捉えてよいものだと思います。

 また同時に、こうした解釈変更を明確化することは、現在の安倍ファシズム政権に対抗する幅広い人々との共同を形成、明確化するためにも、必要なことと考えます。

 また、長くなりそうで恐縮ですが、天皇の代替わりの意味から議論します。

 そして、まず、象徴天皇制をめぐる憲法論のキモ(重要な論争点)は、「世襲」と「象徴」にあることを述べたいと思います。

 私は、憲法天皇主権から国民主権への革命的な転換を、「一方的に宣言」しているものだ、と言いました。

 しかしそれは、憲法の一方的宣言の中で、憲法が、天皇主権を少しでも維持したいと考える勢力のことを、全く考えていないということではありません。

 もし、そうした勢力の存在や主張を全く無視していたのならば、共和制が採用されていたでしょう。

 つまり、憲法における象徴天皇制は、共和制支持勢力と天皇主権を少しでも維持しようとする勢力の妥協を反映したものでもあります。

 妥協といっても、憲法は明確に国民主権を謳っているのですから、基本的には、共和制勢力の革命的勝利であることは間違いありません。

 ただ、この妥協は、憲法成立の当時という時点でいえば、共和制支持勢力と、当時の天皇昭和天皇)を始めとする天皇制勢力との「約束」という意味を持つことにも留意する必要があります。

 ここで「天皇制勢力」と呼ぶものは、すでに主権は失ったが、何らかの利権を少しでも多く維持し、あるいは新たに獲得しようとする勢力や、将来的にまた戦前の天皇制的なものの復活を目指す勢力を指します。

 つまり、憲法が成立した時の基本的な構図は、一方に、完全な共和制を理想とする共和制支持勢力があり、他方に上記で述べたような天皇制勢力があり、両者が敵対的な関係として存在し、その妥協(約束)として、象徴天皇制ができた、というものです。

 憲法学者や私達一般国民が、このような構図の下で、憲法を理解(解釈)することは、ある意味では当然です。

 憲法解釈というものは、歴史的文脈を抜きにしてできるものではないからです。

 従来の憲法解釈は、基本的にこの構図に従うものといえるでしょう。

 確かにこのように考えれば、共和制を基本としながら、象徴天皇制があるために生じている、現憲法の中にある矛盾(万人が平等でなく、生まれによる差別があり、天皇基本的人権を十全に享受できない)を、「理解」「受け入れて」「どうにか運用」することが可能となります。

 私は、 前々回に、天皇世襲制は、自動的に天皇になることを意味するのではなく、天皇になる必要条件の一つである、ということを論証してきました。

 しかし、実はこれは、平成天皇への代替わりによって可能となった新しい解釈です。

 そこで、私は、天皇有資格者が、「いやだ、天皇になりたくない」と言い出したらどうする?という問題を出しましたが、ここで述べたような歴史的な図式(戦後直後の2つの勢力の対立関係の構図)では、そういうことは起き得ないことなのです。

 憲法成立時を考えてみれば、昭和天皇側はできるかぎり従来の特権、利権を維持(國体護持)しようとしていたのであって、憲法天皇に関する条項は、昭和天皇側との妥協(約束)という意味を持っていました。

 従って、憲法作成や憲法解釈において、昭和天皇が「天皇になりたくない」といいだすことを、想定する必要は全くなかったわけです。

 また、共和制支持勢力と天皇制勢力の対抗と前者の基本的勝利とする妥協、という結果として、後者に対し、何らかの特権、利権の維持を認める替わりに、基本的に勝利者の側である共和勢力側が、天皇の政治的なパワーを剥奪する(天皇の選挙権の否認を始めとする、政治的行為の禁止)こと、それによって、天皇(制)が戦前に果たした歴史的誤りを再び繰り返さないようにすることとしたことは、非常に「自然」なものであったといえます。

 このような妥協を前提とした状態の中では、共和制支持勢力と天皇制勢力の対立という構図は、生き続けたものとなります。 

 とはいえ、憲法が妥協(約束)を反映しているという意味は、対立的な関係が持続しているとしても、その時点では、どうあるべきか、どう行動すべきかについて、双方の一致を見たということです。 

 この対立構図の中での象徴天皇制は、互いに、一致点を無下に引っくり返すようなこと(約束破り)を避けながらも、共和勢力側からはただシンボルマークのようなもの、ほとんど不必要なものとなることが追求され、他方、天皇制勢力側からは、できる限り、戦前の天皇制をモデルにした外観や権威を持ち続けることが目指されます。

 では、どのような一致があったのでしょうか。憲法の第1章の全体(第1条から8条まで)がその一致を表しているわけですが、ここでの論点において、重要なキモは、憲法第2条の「世襲」と第1条の「象徴」です。

 今回は、特に世襲について議論します。

 「世襲」は、血筋が特別な意味を持つことを示すものです。これは、平等主義の共和主義に反するものであり、共和主義側の譲歩であることは明らかです。とはいえ、これは一致点なので、憲法を変えない限り、動かすことはできません。

 天皇制勢力(國体護持勢力)にとっては、これは極めて重要な条項でした。

 まずこれは、昭和天皇天皇としての存在そのものを正当化するものです。

 一見するとそれは、次世代のことを規定しているように見えます。しかし、旧来の解釈(特に天皇制支持派の解釈)では、そうではありません。

 それは、過去、現在、未来のシステムを、そしてそれを統べる天皇を正当化するものです。

 しかしそれはなによりもまず、新憲法が成立しようとする時点において、昭和天皇天皇としての存在の継続に対して意味が与えられている規定です。

 すなわち、昭和天皇は、第2次世界大戦の敗北における責任者であり、さらにまたそのような位置にあったものとして当然戦争犯罪者として追及されてしかるべき位置にありました。

 この世襲規定の旧来の解釈によれば、事実としてそのような位置にあることと関わりなく、どのような事実をも超え、この血統位置にある者は、天皇という特別な地位にあることを意味しているのです。

 昭和天皇が、新憲法では象徴天皇としてですが、天皇としての地位にあり続けることは、この世襲規定によって完全に擁護されることになります。

 また両勢力の妥協であるということは、昭和天皇が、天皇になるのはいやだ」と言い出す可能性がないばかりでなく、「天皇の役割を果たす能力に欠ける」という可能性、さらに天皇憲法擁護義務を拒否する可能性も、最初から排除されていることを意味します。

 つまり、血筋によって「自動的に」天皇になる、それは私が前回に「血統万能天皇制」と呼んだものです。それは、旧来の勢力構図を前提とした旧来の憲法解釈では、「自然」なものです。

 天皇になるための必要条件として、血統条件以外に、意志と能力、憲法擁護義務への忠誠を考える必要がなかったわけです。

 そして、一度この「血統万能天皇制」が採用されれば、この「世襲条項」が、未来へもそのまま同じように「血統万能天皇制」として適用されるものと観念されたのも「自然」なことといえましょう。 

 しかし、平成天皇への代替わり、平成天皇の実践は、「血統万能天皇制」を変える可能性、必要性を明らかにするものとなりました。

 第一に、平成天皇は、就任時に、憲法擁護の宣誓を行ないました。

 私は、本来昭和天皇も、新憲法の成立時に、それを行なうべきだったと考えますが、ありませんでした。

 ともかく、この平成天皇の行為は、多くの人々に、新しい天皇の姿勢・あり方を印象づけるものとなりましたし、憲法の下での公務員と並ぶ天皇憲法擁護義務の存在を目に見えるものとして、改めて意識させるものとなりました。

 「万能」なのは、天皇ではなくて、憲法そのもの(=主権を持つ国民)なのだ、という単純な「真理」を目に見せてくれたのです。

 憲法学では、このことを、「(象徴)天皇制の廃止は、憲法改正の限界には入らない」という難しい言い方をするようです。

 私は、「天皇がいなくなっても、不都合なく、実質的に今の憲法のままで(形式的にいえば、天皇に関する条項を削除するだけで)、ただちに共和制に移行できる」ということを書きましたが、同じことですね。

 さらに第二に、今回の天皇の生前退位をめぐる「お言葉」は、天皇の地位(役割)にあるための「能力」さらに「意志」の問題も、非常にはっきりと提起するものとなっています。

 高齢などの理由によって、体力的にも無理が出てきても、そして本人の意思に反して働けというのは、私が「奴隷的天皇制」と呼んだものです。

 このことも、従来の憲法解釈が含んでいる問題であることが、「お言葉」によって、明らかになったのです。

 世の中のこと、社会、政治といったものは、理屈より実践が先立つものであり、実践によって、旧来の理論が挑戦を受け、新しい理論ができてくるものです。

 とはいえ、むしろ私のような素人に言わせてもらえば、天皇が「お言葉」のような形で提起している問題に対し、憲法学がほとんど準備をしていないように見えることは、あまりに既存の理論体系に縛られすぎている結果ではないか、と憂えざるを得ません。

 もし、共和制対天皇制の2つの勢力の対抗という基本構図が大きく変化したとすれば、旧来の解釈は変わる可能性、変わらなければならない必然を持つでしょう。

 私は、現天皇の就任時の憲法擁護の宣誓に始まる今日までの実践は、旧来の構図における天皇制支持勢力のリーダーとしてのものとは異なると考えます。

 それは、妥協はあるが対立が維持されたままという旧来の2つの勢力という構図自体を変えようとするものです。

 つまり現天皇による実践は、天皇自身が、憲法の基本原理・価値(それは明らかに共和主義的なものです)や象徴天皇制という新しい制度そのものを、積極的に新しい価値として受け入れようとしたものであるといえます。

 私の新しい解釈(世襲=必要条件論)は、こうした新しい事態、天皇の新しい実践(憲法の基本原理の擁護、支持)に対応して、「世襲」の条項を、できる限り、共和主義的な発想や人権尊重の規定に則して、解釈し直したものです。

 次回には、同じく、世代交代によって生じてきた、「象徴」条項に関わる憲法解釈の重要な変更の可能性と必要性について議論したいと思います。

 もっと議論が難しく、複雑になります。しかしやはり非常に重要な問題です。

*1:もしかしたら、すでに誰かが唱えていて、新しくないかもしれません。また、おそらく、「人間的公務員『天皇』制」論は、戦前の「天皇機関」説に似た骨格を持っているだろうと思います。いずれの点についても、私は専門家でなく、私の議論の目的は、そういう方向での厳格さを求めることにはなく、現在の政治的課題を明確化する方向で議論を活発にすることにあります。