人間的公務員「天皇」制のために(9)--横田耕一名誉教授の「実践的解答」
今回は、また横道に逸れて、今日の憲法学者の「実践的な解答」について、批判を述べたいと思います。
横田耕一(九州大学名誉教授)氏は、東京新聞(2016年08月18日)の「生前退位、こう考える」という欄で、天皇の今回の生前退位についての発言(「お言葉」)について、内容的に、①公的行為が歯止めなく広がる危険、②「象徴」が天皇の主体的な行為を意味しかねない危険、を指摘しています。
そして、今回のテレビでの「お言葉」発表ということに至った経緯について、宮内庁と政府を批判しています。
引用(A)
天皇陛下は生前退位という言葉を使わなかったものの、生前退位の希望を述べたことは自明です。憲法は天皇が「国政に関する権能を有しない」と定めています。テレビで一斉に放映され、退位の制度化に向けて政治が動きだすのは憲法上、望ましくありません。こうした状況をつく
った宮内庁の責任は大きいと言えます。本来は陛下の気持ちを付度して、宮内庁が内々で検討したり、内閣に伝えたりして話を進めるべきです。陛下は五年ほど前から、内部でお気持ちを漏らしていたと伝えられています。政府はもっと早い段階から、議論を始めるべきだったと結果的にも言えます。
さらに、今回の天皇の「お言葉」から離れた「客観的な議論」を呼びかけています。
引用(B)
国民主権の原則から言えば 、「陛下がこう言ったから 」という理由で議論するのではなく、陛下の事情とは別に、天皇制のあり方を客観的に考え、その中で生前退位の是非を検討すればよいと思います。その場合、「天皇の公務とは何か」から考え直す必要があるのではないでしょうか。
横田氏は、天皇制に関する憲法学の権威です。この記事はおそらくインタビュー的なものを基礎にした記事でしょうが、この問題についての、慎重によく練られた意見であると思います。
それだけに、憲法学の象徴天皇制把握の実践的意義について、私は疑問を感じます。
横田氏の主張は、第1に、天皇の主張内容が違憲的であること(上述の①②)、第2に、天皇の行動(テレビ発言)が違憲的であること(引用(A))、第3に、今後の議論は、天皇の公務についてを中心とし、その中に生前退位を位置づけるべきこと、とまとめることができます(引用(B))。
実践的課題という観点から、第2と第3の点を批判的に検討します。
まず第2点ですが、横田氏は、天皇がテレビでの発言の一斉報道(「新たなる『玉音放送』」)という形について批判し、その第1の責任者として、宮内庁を批判しています。
後では、宮内庁と政府を並べていますが、最初の批判対象は宮内庁です。そして、天皇自身は、批判の対象となっていません。
どうしてでしょうか?
それは、横田氏が、このテレビでの発言をセットした主体が、事実上宮内庁と推察しているからでしょう。
通常の憲法解釈からは、政府の監督責任が問われる事柄であり、政府が批判されるべきです。確かにその意味で、横田氏は、後から政府についても言及しています。
しかし、違憲的行動を支えている主体は、宮内庁であると捉えられているのです。
さらに注意深く読むと、そのさらに先では、このような違憲的事態に至った原因という点では、(宮内庁というより)政府にあると主張している様です。
天皇自身の責任については何故言及がないのでしょうか。
それは、天皇が希望するのは勝手であるが、それを受け入れるかどうか、どのような形で受け入れるかは、宮内庁や政府の責任である、と横田氏が考えていることによるものでしょう。つまり「国政に関する限り」、天皇は何をいおうと無視されるべき、木石、ロボットのような存在として扱われているのです。
横田氏の議論は、どうしてこのような違憲的事態が生じたのか、どうすべきであったのかについて、当然のことながら、自らの憲法論の観点に沿って論じたものとなっています。
しかしそれは、彼の見る違憲的事態が生じた現実をリアルに把握しようとしたものとはいえないと思います。
私(達)は、まだ証拠がないので推察しかできませんが、事実の大筋は次のようなものであったでしょう。
天皇が生前退位を望んだが、政府はそれを拒んできた。それ故、天皇が自分の意向実現のため、その意向のリークを許した。さらに、天皇自身が、意向実現のために国民に対するテレビ放送を希望した。
政府は、天皇の意向を封殺したいと思っていたし、それが可能であると思っていた。しかし、一度意向がリークされるや、政治的に、天皇の意向表明を阻むことは不可能となった。
宮内庁は、天皇の意向を「静かに」実現したかった。しかし、現在のような形で問題化される前に、天皇の意向を実現する対政府力はなかった。
私が氏の論建てと現実の乖離を指摘しているのは、次の理由によります。
つまり、彼の論建てからくる問題解決に対する実践的解答は、現実を憲法規範に近づけようとするというよりも、現実の経緯について、表層的な手続きを整えることによって、彼の憲法解釈規範を満たそうとするものになっているのではないか、ということです。
意地悪な言い方をすると、しばしば官僚や政治家が悪用する形式的な手続きのみを重視する手法、それと同じにものになっていないでしょうか。
何故なら、私から見ると横田氏は、こうした違憲的事態が生じないようにするためには、要するに、「宮内庁や政府がある段階までは『内々に』ことを進めろ」、あるいは、「現実はさておき、形としては、そういう形をとることが必要だ」と主張しているのですから。
次回、第3点(引用(B))について議論します。