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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

私立通信制高校--新自由主義と様々な日常

 学会発表の準備があって、少しブローグを休んでいました。

 学会で、知らなかった情報を得たので、関心を持つ人と共有するため、前回までのシリーズを今回は中断し、そのことを書きます。データは、酒井朗氏と内田康弘氏、それからWikiの「高等学校通信教育」の項目からです。このWikiの情報は、注もしっかりついていて、参考文献にアクセスしやすく、役立ちます。

 小泉政権の下で進められた新自由主義的政策は、教育の分野でも深刻な破壊をもたらしています。2003年に、構造改革特別区域法により、株式会社が学校を運営できるようにしました。その結果、2004年頃から通信制私立高校生の数が、急速に増大しました。

 その数は、2000年の7万4023人から2015年の11万3691人となっています。全高校生数の中での割合でいうと、2%から3%への増大です。人数でいうとかなりですが、割合にすると小さいので、この急速な増大があっても、話題になりにくく、その存在や傾向に気づきにくいでしょう。

 さらに、私立通信制高校は、サポート校と呼ばれる学校(これは法的には、学校教育法第1条に定められた学校とは別で、例えば、「先生」は教員免許を持ちません)と提携的な関係にあるがあることが多いようです。

 内田氏調査による48校のサポート校の年間授業料データによると、過半数が50万円から120万円の間にあります。このデータには、提携校(高校卒業資格を出す私立通信制高校)の授業料が含まれている場合と含まれていない場合があります。私立通信制高校の授業料とサポート校の授業料を合わせると、普通の私立高校よりも、20万円ほど高いそうです(私の聞き間違え、覚え違いがあるかもしれません。すべての数値の間違いは私の責任に帰します)。

 通信制の教育が主である学校の授業料としては、非常に高いと思います。

 他方、教育の中身はどうでしょうか。Wikiには、次のような記述があります。

 一部の広域通信制高校(学校所在以外の都道府県の生徒を受け入れる)において、サポート校に教育などのあらゆる業務を丸投げしているといった不適切な実態が指摘されている。
 構造改革特区法に基づく株式会社立の通信制高校の7割が、同法の禁ずる特区外での教育活動をしていた。文部科学省の担当者は、「脱法行為であるうえに教育の質も低く、高卒資格を売り物にしたビジネスになっている」と述べている(朝日新聞』 2012年8月19日付)。 

 現在の日本では、高校卒業資格は必須です。高校を途中退学してしまった生徒本人やその親は、必死になって、それを得る方法を求めます。そういう弱みにつけこむ商売--私は貧困ビジネスを連想しました--が「合法化」され、広がっている、というのが趨勢であると推定できます。 

 金儲けのチャンスを見いだした資本が、敏感に対応しているのでしょう。教育のために資本が用いられるのではなく、教育のための枠組みを破壊することによって、資本が「活き活き」とするのです。

 どのくらいの学校が、上記の引用で指摘されているような問題のある学校なのでしょうか?

 株式会社による運営は、2012年に20校でした(私の見ているデータでは、株式会社の下での生徒数はわかりません)。そうした組織が教育に参入した目的、動機が、利潤獲得にあることは当然ですから、上記のような問題と結びつきがちなことは容易に想像できます。

 学校数でいうと、株式会社と学校法人の全体を合わせた私立通信制高校全体の数は、2000年に44校であったものが、2012年には140校に増えています。普通の通信制でない学校ならば、学校施設や先生の雇用等、からいって、経営的に(公的な認可を得たり利潤を得るといったことから)大規模化しないやっていけませんから、そうすると、このような急速な増加はあり得ないでしょう。

 このことが示唆するのは、急増した学校法人の私立通信制学校においても、教育施設や擁する教員や職員の数や質が軽視されたまま設置されたことであり、そこでは利潤動機が優先的に働いている可能性が否定できないということだろうと思います。 

  もちろん、そこでもすばらしい教育を行なっている、あるいはそうした努力に努めている学校や先生もいるかもしれません。しかし、政策としてこうした方向を進めた来たことは、教育破壊として非難されるべきことと思います。

 私は、新自由主義(特区政策)によって株式会社が参入していることは何となく知ってはいたものの、こんな形で、とんでもないことを引き起こしているのだとわかってびっくりしました。

 この制度の下で勉強する生徒、勉強させる親、働く先生達、それに直接関わる多くの人々にとっては、これが普通の日常となっているわけです。

 改めて、政策、政治というものの重要さ、そして教育に関わる研究者の社会的責任というものを感じます。