「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(1)
何か、大上段にかぶった、上から目線の、かつ知った振りのタイトルになりました。
東京新聞の美術館訪問という記事で、岡本太郎の「青空」という作品が取り上げられていて、これが「血のメーデー事件」をテーマにした作品だと書いてありました。
本当は、「芸術は政治だ!」の話をしたいのですが、少し横道に逸れて、「血のメーデー事件」に触れておきます。
というのは、私は「血のメーデー事件」を含め、1949年、1950年代に起きた多くの様々な奇怪で血なまぐさい事件は、松本清張が『日本の黒い霧』で書いている様に、いずれも基本的に国家による犯罪(いわゆる権力犯罪)の可能性が濃厚だと考えています。
実際、政府(警察)によって犯人とされた人々は裁判によって無罪とされ、検察側の証人や証拠が裁判官によっても批判されている場合が多いのです。
この「血のメーデー事件」についても、一審で有罪とされた人々も、検察が主張した騒擾罪は、全員が高裁で無罪となりました。
ところが、Wikipediaを見ますと、当時の政府の見解のみがそのまま事実のように書いてあります。
Wikipediaの記述には、時々この種類のものがあるので注意が必要です。歴史修正主義が広がり、空気の様でかつ根強い反共主義が再生産されるわけですね。
そこでちょっと探したのですが、本格的な研究を紹介しているサイトがありませんでした。上述のリンク先、あるいは以下のリンク先は、研究者ではないが、こうした事件に関心を持つ人が調べて書いたもののようです。私は、まずはこれが普通の事件の説明だといえると思います。
私は、今日、国会前集会等に参加して、おそらく当時のメーデー参加者の気持ちはこんなではなかったか、とわかるところがあります。少し歴史背景を並べます。
1950年
6月以降、レッドパージ
(マッカーサーによる超法規的な共産党国会議員、中央委員の追放、共産党員その支持者の新聞社や公務員その他の職業からの追放、逮捕命令)
都内でのデモ・集会の禁止
1951年 マッカーサーによる皇居前広場でのメーデー禁止命令
1952年 サンフランシスコ講和条約、安保条約発効
政府、これを上訴(したがって、この時点では判決無効に)
つまり、1952年のメーデーの時には、
①サンフランシスコ講和条約や安保条約に反対する運動があり、にも関わらずそれが成立したが、これらの条約に対する反対や抗議の持続、
②サンフランシスコ講和条約の発効によって、日本は(沖縄を除き)主権を回復したはずで、憲法の支配が始まったはずである。にもかかわらず、
②の1) 皇居前広場でのメーデーは、1946年より1950年まで続けられてきました。場所自体が、天皇主権から国民主権への変化を示す場所だったといえます。その上、裁判で使用禁止は違憲という判決まであったのに、そこが使えないという状態です。それに対する抗議の気持ち、
②の2) サンフランシスコ講和条約の発効によって、軍国主義者達に対する公職追放は解除されるが、共産党に対する思想差別による弾圧、国会議員を含めた追放措置について、実質的な名誉回復は、損害回復は放置され、差別は維持されたままでした(これは現在も維持されています)。それにに対する抗議、
こうした正当な感情が渦巻いていたのだろうと想像します。それが皇居前広場に向かう激しい抗議行動の背景にあったのでしょう。
そしてそれは、政府が主張する計画的な共謀による騒擾というものとは異なるものであることが、裁判でも明らかになったわけです。
ネットで、科学史を専門とされている黒岩俊郎名誉教授のメーデー事件被告としての体験記録を見つけました。
米軍支配が終わり、まさに憲法が最高法規となった時、その時の集会の自由や権利を主張しようとした人達の気持ちはどんなだったでしょうか。
私は、当日金属の顕微鏡写真をとろうと思い、借用願いを大学に出した。 然し何らかの都合でかりられず、東大構内を歩いていると、高橋昇氏(当時東大冶金科助手)が、赤旗をもって立っている。さそわれるがままに、私も東大助手らとメーデーに参加したのである。然し起訴状には「かねて皇居前を占拠しようとしていたデモ隊は……云々」とある。この事については、それ迄はメーデーの会場を皇居前の広場でもっていた。所が国が、その年から皇居前をつかわせないといい始めた。それについて裁判になり、「皇居前をメーデー会場に使わせないのは違憲である」と判決された。国側は、直ちに、この判決を不服とし上告していたようだが、一般の人達は、「国が違憲と判決した」事が、頭にあり、堂々と皇居前広場に入っていった。
(私と科学史技術史と専修大学など― 私と体験・戦後史 ―)p.3
去年の戦争法反対闘争の時のピークの時に、私達は数回、国会前の道路に広がることができました。ところが10万人以上集まった写真が新聞の一面を飾って以来、警察は装甲車(正確な名称かは自信がありません)をすきまなく並べ、私達が道路に広がることを完全にできないようにしました。
「国会前の空間は、私達のものだろう」「あそこにいることは私達の権利だろう」--私の気持ちは、64年前の黒岩名誉教授と同じです。
また彼は、次の様に続けています。
17 年たって、 下った判決は被告の半分は無罪、 半分 (ある時間以降) は有罪、(然しこれも、第二審で無罪となる)、私の場合は、第一審で、無罪、判決文には、「人間は理由もなくなぐられると憤激の情をもよおすのは当然だ……」と記されていた。被告黒岩の立場にたてば、……あるものが数名の警官に袋だたきをされている。それを助けようとして、近くに落ちていた青竹(しばらく血だらけになったシャツとともに保存していたが……)をもって助けにいった。逆に私が、公務執行妨害罪及び騒擾助勢罪として逮捕投獄されたものである。要するに判決は両方(被告側と警察側)のメンツを、見事にたて、誤想防衛(正当防衛ではない)であったとしている。
(私と科学史技術史と専修大学など― 私と体験・戦後史 ―)p.4
幸にして、去年の運動は主催者達や私達の理性によって、暴力的な事態が展開することはありませんでした。 しかし、こんなことが目の前で起きた時どの程度理性的であることができるでしょうか。
(沖縄の高江における非暴力の抵抗闘争が、強い意思のもとになされていることに、心から敬服します)。