hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(3)

 このブローグとしては、やや唐突に岡本太郎が出てきましたが、何故これを扱ったか?・・・シリーズもので、終わらせていないものがいくつもあるというのに--そのことも忘れているわけではありません。

 何故の答をいうと、このところ目に入ったものでうんざりするようなことが立て続けにあったからです。まとめていえば、「日本文化」の問題というようなことです。

 

[うんざりの1--「最強」の東電--権力、金力、浪花節

 東電は、とっくに破産しているはずなのに、権力に守られ、税金が投入され、これだけでもすごい話ですが、こんな人--東京電力福島復興本社の石崎芳行代表--のことが新聞に載っていました(東京2016/09/19)。

 

 石崎は今後も肩書に関係なく、ずっと福島に寄り添っていこうと決めている。背景には 、事故の前年まで福島第二原発の所長を務め「原発は安全」と言い続けていたことへの罪悪感がある。

 「福島の皆さんは組織としての東電というものを絶対に許さないと思うんです。でも、そこで働くわれわれが一生懸命にやっていくとで『組織は許さないけど、あんたは少し信じてやろうか』となればいいと思っています」

 そう言う石崎に「あれほどの事故を起こしてもなお原発は、必要と思うか」と尋ねてみた。「絶対必要です」即答だった。どんな場所でも、どんな相手からでも、尋ねられればそう答えるという。

 「ただし」と石崎は付け加えた。「単に技術的に詳しいとか、安全だからできますという感覚でいたら、原子力を扱う資格はありません。日本を思う気持ちとか、人の気持ちをおもんばかれないといけないと思うんです。それは事故前に足りなかったことでもあります」

  これは、「全電源喪失の記憶--証言--1F汚染」というシリーズの番外編⑤ですが、権力、金力に加え、こういう人がさらに東電にいるならば、東電は「最強」です。

 上記はインタビュー記事であり、石崎氏の考えのすべて、あるいは、いったことの論旨すべてを載せたものかどうかはわからないとはいえ、ここには原発被害の補償や原発の今後を決めるべき論理や倫理に代わるものとして、「浪花節」が流れていることは否めないと思います。

 ここには、本来並べられるべきでない2つの事柄--「原発の安全性」と「日本や人を思う気持ち」-が並べられています。

 事故前には、後者が足りなかったと「反省」して、これから、後者に気をつけるというのです。

 話が原発のことから、「情」の問題に移っています。

 そうではなく、足りなかったのは、もちろん「原発の安全性」です。それがあれば、原発事故は起きなかったのであり、「日本や人を思う気持ち」なんか、特に必要なかったのです。

 傲慢な人物に比べれば、石崎氏のやり方は、被害者にとってずっとましかもしれません。

 日本人はこういうのに、すごく「弱い」ですね(例えばメキシコだったら、こういうやり方はあまり有効だとは思えません)。

 でも、これでは原発をめぐる今後の判断、決定はこれまでと同様に全然安全なものになっていきません。

 それでも原発は絶対必要で、「情」に訴えて、人の気持ちを慮りながら、日本のために動かそう--というわけです。

 やっぱり、こういうのに「弱い」のは非常にまずいことです。次回以降に、他のうんざりの例を続けますが、そうしたものを日本文化の問題として捉えて、そうした日本文化の問題に対抗する要素として考えたのが、岡本太郎のことだったのです。