hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(4)

 

[うんざりの2--来年公開予定の映画「サフラジェット」が・・・]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 上記の左が元のポスターで、右が日本でのポスターです。

 タイトル  「Suffragette」→「未来を花束にして」

 宣伝コピー  「The time is now」→「百年後のあなたへ」

に変わっています。

 この映画の日本での公式サイトによると、婦人参政権論者がSuffragistと呼ばれ、その中で過激な活動も辞さない女性運動家がマスコミで「Suffragette」と呼ばれたということです。

 想像するに、「参政権suffrageを主張するうるさい小娘」といったニュアンスでしょうか。

 それから、英語の得意な人に教えてほしいのですが、この原題が単数形であるのは何を意味しているのか--ヒロインを指しているのか、あるいはやはり集合的な意味合いがあるのか、あるいはその双方か--どうでしょうか。

 (フランス語版では、複数形になっているとのことなので、それほど深く考えることではないのでしょうか。)

 いや、ともかく、英語のままでは確かに分かりにくいでしょうから、邦題を工夫して少しでも観客数を増やそうとするのは当然のことです。

 しかし、この邦題では全く別世界のような感じです。

 おまけに、日本版ポスターの左下には、本当に花束があしらってあります(上記ではほとんど隠れていますが)。

 これに関連して、「女性映画が日本に来るとこうなる」という上記のツウィッターのハッシュタグがあって、次々と実例が紹介、議論されています。

 日本に来ると社会性を持った映画は、何故別物に変わらせられようとするのでしょうか。

 それは、権力者達の強制や陰謀ということでは説明がつかないものであり、日本文化のあり方に関わることのように思います。

 数年前に、「ハンナ・アーレント」という映画が公開され、同時に、その20年以上前に同じ監督と女優のコンビによる「ローザ・ルクセンブルク」が上演されています。すぐれた女性の反ナチスの哲学者や革命家がテーマです。

 それから、14年前になりますが、「フリーダ」というタイトルで、メキシコの女性画家フリーダ・カルロの生涯を扱った作品があります。メキシコ革命の壁画運動に参加したディエゴ・リベラと2回結婚していて、ソ連から亡命してきたトロツキーを匿ったりします。

 これらの作品は、みんな女性の固有名詞がタイトルですね。つまり、間違いなく存在した一人の女性です。つまり、本当に実在した、独立した個人としての女性が、社会をどのように捉え、それと向かっていくのか、という角度から扱っているのです。

 (ここで、私が「独立した個人」とわざわざ「独立した」を加えたのは、他人に依存していない、という意味ではありません。「他人に依存する」としても、その前提として、個人というものが存在する、という意味で「個人」ということを強調するためです。日本では、しばしば、最初から個人というものが存在しなくなってしまうので、それを防ぐためです。)

 今回の作品のタイトルSuffragetteがそれを意識していない、ということはあり得ないことのように思います。 

 そして私はネイティブでないのでSuffragetteの語感、ニュアンスが、わからないのが残念ですが、それでもこんなふうに想像します。

 一方でそれは、複数形でなく単数形ですから、一人、つまりこの映画のヒロイン(運動家)を指します。(フランス語版のように複数であるとすると運動家達です。)

 とすると実話に基づくということですから、固有名詞をタイトルとすることもできるはずです。でも他方で、名前もあまり知られていない(ヒロインの無名性)ということを示唆するのが、このタイトルなのです。

 つまり、今回のSuffragetteというタイトルは、その時代や社会を、その瞬間に生きた独立した個人としての女性の視角を引き継ぎながら、ただし、それまでの作品とは異なって無名の運動家に焦点をあてたものだ、という無言のアピールも含まれているのではないでしょうか。

 私の想像は大きく外れているかもしれません。

 しかし、いきなりですが、「男女共同参画」なんて、糞食らえっ、と言いたいですね。出発点が、共同になっていて、その前の独立した個人、独立した女性個人がなく、それを意識させないために、つまり本来あるべき「男女平等」という言葉を避けるために、官僚がひねり出した言葉です。

 こうしたインチキな言葉が大きな顔をしている社会、文化では、 原題のSuffragetteが、「未来を花束にして」という情緒的なタイトルに変わってしまうのは、止むを得ないようにも思えます。