hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(5)--ノーベル賞は何を評価するのか?

 昨日の朝刊に、ノーベル文学賞の発表がありました。そこで今回は、ノーベル賞受賞者を決定するスウェーデン・アカデミーは、何を評価するのか、という観点から議論します。

 次回以降に、私達の日本の文化は何を評価するのか、ということにつなげていきます。

 今年のノーベル文学賞は、ボブ・ディランに、昨年はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチという作家に与えられました。

 ボブ・ディランは、プロテスト・ソング等のシンガー・ソング・ライターであり、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは、ソ連の下での戦争や原発事故の人々の詳細で数多くの体験談を採取し、消失しようとしていた声に社会的・歴史的な表現を与えた「編集者」「ノンフィクション・ライター」です。

 日本の新聞は、「近年、文学の枠が広がった」といい、「純文学でないポピュラーなものも受賞する可能性が出てきた」「村上春樹は純文学でないとみなされてきた。しかし、これで来年以降の受賞可能性が出てきた」という言い方をしています。

 どうでしょうか。ノーベルは、文学賞を次のものに与えるように遺言しています。

the person who shall have produced in the field of literature the most outstanding work in an ideal direction

文学の分野で、理念的な方向において、最も傑出した作品を生み出した者

 では、スウェーデン・アカデミーは何を以て「理念的方向において」「飛び抜けてすぐれている」と捉えたのでしょうか? 

 ここには、2つのキーワードがあります。

 第1は、idealです。上では「理念(的)」と訳しましたが、「観念(的)」「理想(的)」と言う訳が適切な場合もあります。観念、理念といったものは、現世的な既成の権力や権威に対置される次元・世界であり、従来も文学が特有のパワーを持ち得る特別な次元・世界と考えられてきました。

 第2は、outstandingです。それは、「飛び抜けて優れている」ということですが、字義どおりに直訳すると、「目立つ」「際立つ」「突出」する、ということです。この意味において最も評価されるのは、「新しさ」「創造性」「オリジナリティ」です。当然これも、既成の権威に対抗する要素を含んでいます。

 ただ、従来の文学賞では、「文学の分野で」という時、確かに文学の領域が狭く限定されていました。文学とはかくかくたるもの、という常識が確立されていて、その中での新しさ、オリジナリティが評価されていたのです。そしてその常識は、当然文学の世界における権威のあり方と関係します。

 そうした従来の枠組みに従えば、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの仕事は、「ノンフィクション・ライター」のそれということになります。そこに「文学的価値」は、認められていませんでした。

 ところが、スウェーデン・アカデミーは、彼女へのノーベル文学賞授与の理由を、次のように述べています。

我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して

 この理由の表現自体が、とても簡潔で文学的ですばらしいですね。

 「記念碑」的で「多声的叙述」は、彼女が開発した新しい文学の方法、世界を指しています。

 「苦難と勇気」はダイナミズムを感じさせますが、この2つの要素は無理やり結びつけられているのではなく、それらが、「記念碑」的に「多声的」に語られていることによって、そのダイナミズムは静かだけれどけして止むことない響きをもたらします。

 そしてもちろん、語られるものが「我々の時代」の「苦難と勇気」であることが重要です。今の我々の苦難と勇気という現実の世界と文学の世界が結びつけられます。

 アカデミーは、彼女の仕事を、文学の常識に抗しながら現実に向かい、しかし文学の広さと深さを拡大するオリジナルな文学的挑戦を行なってきたものとして評価した、といっていいと思います。

 では、今年の場合はどうでしょうか。

 ロック歌手と見なされてきたボブディランの授与理由は、次のようです。

偉大な米国の歌の伝統の中で、新たな詩的表現を創造してきたことに対して

 ここでも、ボブ・ディランの仕事を「新たな詩的表現」の「創造」として評価しています。

 他方、「偉大な米国の歌の伝統の中で」という表現は、彼の仕事をを米国の歌の伝統に結びつけています。それだけでなく、それは、ヨーロッパの古代の詩、歌、劇が一体化した世界を連想させることを期待したものでしょう。

 スウェーデン・アカデミーのサイトに入ると、今年のノーベル文学賞発表後に、アカデミーのサラ・ダニウス事務局長(permament secretary)への記者達によるインタビューのu-tubeがあります。

 まず、「新しい詩的表現」の「創造」ということに関してはどのように説明しているのでしょうか。

 ボブ・ディランは、英語圏の伝統の中で偉大な詩人であり、たえず自分自身を「再発明」し、新しいアイデンティティを創造することによって自身の「再発明」を行なって来ました。

 これだけ聞いていると、何が新しいのか、新しいことの中身はわかりません。 

 他方、ダニウス事務局長は、次のように伝統を非常に強調しています。

 ボブディランは、英語圏の伝統の中で偉大な詩人であり、伝統を体で表している。

 そして、「アカデミーは、ノーベル文学賞の地平を広げたのか?」という質問に対しても、こう答えています。

 そう見えるかもしれません。しかし、本当はそうではないのです。

 ずっと昔、2500年ほど前を振り返ると、ホメロスやサッフォーが見いだされます。彼らは、詩を、音楽と一緒にあるいは劇の中で演じられるものとして書いていたのです。これは、ボブ・ディランも同様です。

 ボブ・ディランの場合は、その人も仕事もよく知られており、それを文学として認めるためには、普通の人々との常識との距離が大きすぎたのでしょう。アカデミーは、自らの選定を合理化することに必死で、数千年昔の伝統に位置づけることによって、その合理化を果たし、世間を納得させようとしているように見えます。

 つまり、ここでむしろ「新しい」のは、アカデミー自身の文学の基準です。そうした「新しさ」=「ノーベル文学賞の地平の拡大」をアカデミー自身は否定していますが、2500年前に基準を戻そうとすること自体が「新しい」ことといえるでしょう。

  それにしても、アカデミーは、ボブ・ディランに、どのような新しい文学的方向性、可能性を見いだしたのでしょうか。

 それを、伝統的な詩と音楽や劇が一体化する形式に関連づけて評価するというのは何を意味するのでしょうか。

 私には、アカデミーが表立っては語らないけれど、ここでもスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの場合と同様に、文学が現代社会の現実に向かうことの意義についてのメッセージがあるように思います。

 そうした挑戦は、自ずから従来の文学の枠組みを超えた形をとり得ること、それは文学にエネルギーを与え、文学を豊かなものとすること、また、それが私達が求める文学なのだ、というメッセージです。

 私のこうした見方が正しいとすれば、村上春樹の仕事が、以上で見てきたような意味において「新しさ」があるのか、あるとみなされるのか、ということが、彼の受賞を決定することになります。