hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(6)--ボブ・ディランも日本に来るとこうなる

 前回、ボブ・ディランスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチと並べて議論しました。そうすることによって、スウェーデン・アカデミーが評価しようとしているものが、よりはっきりすると思ったからです。

 私は、ロックやポピュラー音楽を知りませんので、ボブ・ディランの仕事の中身に関わって議論することができませんでした。ところが、ツウィートやブローグでこんなものを見つけました。

 まず、ツウィートです。

 

大瀧師匠は「アメリカンポップス伝」でアメリカのフォークソングの暗い歴史について語っています。50年のGoodnight Irene から58年のTom Dooley まで、ポップ1位にチャートされたフォークソングは一曲もありませんでした。それはなぜか。

 

マッカーシズムです。フーヴァーとマッカーシーがまず標的にしたのはハリウッド、次が音楽業界でした。50年にGoodnight Irene はじめヒットを連発したWeaversはその反体制的な姿勢を咎められてテレビラジオ出演禁止を言い渡され、デッカはカタログから全曲を削除しました。

 

マッカーシー没落までの数年間、アメリカのラジオからピート・シーガーやウディ・ガスリーの声が流れることはありませんでした。ボブ・ディランの登場は1962年。あれは体制批判を歌うことがただちに失職や投獄のリスクを意味していた時代をラジオの前で耐えて過ごした少年の歌声なんですね。

 

 今の日本では、投獄はありませんが、石田純一氏の都知事選に関わる発言は、事実上の失職の危機をもたらしました。

 

 それから、久保憲司という人がブローグでこういうことを書いています。

 (この記事は、「ロック、本当はこんなこと歌ってるんですよ」というタグをつけて、2016年06月23日 18時47分にアップされていますから、ノーベル文学賞受賞を機に、特別に執筆されたものではありません。)

 

なぜサム・クックが「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を書こうと思ったというと、ボブ・ディランが「風に吹かれて」を書いたからです。

 サム・クックはラジオで「風に吹かれて」を聞いて、“あ、この白人の少年は僕ら(黒人)のために歌ってくれている。僕らもこういう歌を歌わない”といけないと思って書いたのです。

 日本だと「風に吹かれて」は色々な解釈が出来る歌と言われていますが、海外では誰もそんなこと言わないです。これは公民権運動を代表する曲なのです。

 

 この「風に吹かれて」の歌詞を私なりに、部分的抜粋して訳しておきます。

人はどれだけ多くの道を歩まなければならないのか--人と呼ばれるようになる前に。

・・・・

どれだけ多くの砲弾が飛ばなけれならないのか--それが永久に禁止されるようになる前に。

友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。

 ・・・・・

 

人はどれだけの回数顔を背けるのか--見ないふりをしながら。

友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。 

  

 久保憲司氏は、この歌詞の冒頭の「人」は、「黒人」を指していて、それがいつになったら「人間扱いされるんだ」と言っていると指摘して、次のように書いています。

 

黒人はいつだって人間だと思うんですけど、この頃のアメリカの黒人は人間として認められていなかったのです。

それをボブ・ディランはお前らいったいいつになったらこの間違いに気づくんだと投げかけているのです。

 

「その答えは 風に吹かれている」--(「風に吹かれて」)

 

という名サビですけど。これを日本では風に舞うくらいだから、あやふやな答えだろと考える人が多いですけど、ボブ・ディランはそんなあやふやな気持ちで歌っていないです。ボブ・ディランが歌っていることは黒人が人間かどうかなんかという答えなんか風が教えてくれるくらい当たり前のことだろ、お前ら、分かってんのか、立ち上がれよ、黒人のためにという強い意志で歌っているんです。

 

 さらに「どれだけ多くの砲弾が飛ばなけれならないのか--それが永久に禁止されるようになる前に。友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。」の部分についても、こういっています。

 

「どれ位の砲弾が飛び交えば」禁止されるのか? うーん、、その答えは風に舞っているかもね。とか、そんな軽い話じゃないんです。黒人を解放するためにアメリカは二つに分かれて、50万人もの死者を出しているんです。こんな歴史があるのに、お前らまだ黒人は人間じゃないとか言ってんのか、ぶっ殺すぞみたいな感じなんです。

 

 私は、この「芸術は政治だ!」のシリーズを、「血のメーデー事件」をモチーフとした岡本太郎の絵画のことから始めました。そして、途中で「女性を扱った海外の映画が日本に来るとこうなる」という話を扱いました。

 ボブ・ディランについても、同じことがいえそうですね。

 久保憲司氏の解説によれば、それが日本に来ると、「多様な解釈」ができるというようなことになって、「その答えは風に舞っているかもね」というようなことになってしまう。でもそれは違う。本当は、「ロックは政治だ!」「文学は政治だ!」、ということですね。

 ただ、ちょっと私なりの注釈を2つ、つけておきます。

 まず第1に、この歌のタイトルやサビの部分の「風に吹かれて」「答は風に吹かれている」という訳についてです。

 

                          The answer is blowin’ in the wind.

 

というのが元の歌詞ですから、これは直訳として正しいものです。

 しかし、日本語訳だと、「答」は、風に吹かれて飛んでしまうような弱々しい存在のようなニュアンスになってしまいます。

 では、英語のニュアンス、ボブ・ディランの意図はどうでしょうか。

 英語のWikiには、Gray (2006)の The Bob Dylan Encyclopediaの p. 64からの引用として、ボブ・ディランのインタビュー発言が載っています。

 

この歌については、答が風の中でblowingしているということ以外オレがいえることはあまりないんだ。答は、本、映画、テレビのショーや議論の中にはないよ。それは風の中にあるんだ、そう、風の中でblowingしているんだよ。多くの分かったような顔をした連中は、ここに答があるとか言ってくるが、オレは信じないね。やっぱり、オレはそれは風の中にあって、まさに風に舞う紙切れみたいに落っこってくることになっているんだけど・・・だけど、丁度問題なのは、それが落ちてきた時にその答を誰も拾おうとしないのさ。だから、あまり多くの人がそれを見たり、知ったりすることはないのさ・・・それで、その答はまたどこかへ飛んで行ってしまう。だけどオレは言いたいが、不正を見て何が不正かを知っていて顔を背けるヤツは、最悪の犯罪者の中におくべき連中だぜ。

 

 これを見ると、ボブ・ディランの言う「答」は、弱々しいもの--風に吹かれてどこかへ行ってしまう、そして容易に消えてなくなるような--ではないことがわかります。

 それは、必ず私達の目の前に現れるものとされています。そういう意味では、「答」の存在は確実なのです。

 ただ問題は、私達の目の前に現れた時に、誰もそれを把握しようとする者がいないことなのです。 

 私の部分的抜粋の訳では、「答は風に吹かれている」と訳さずに、「答は風の中にある」と意訳したのは、この方が「答」の存在確実性が伝わると思ったからです。

 ところで、ボブ・ディラン自身も、「答」を知っている、とは主張していません。だから、「風の中にある」わけですね。

 しかし、重要なのは、

 「だけどオレは言いたいが、不正を見て何が不正かを知っていて顔を背けるヤツは、最悪の犯罪者の中におくべき連中だぜ。」

の部分ですね。

 つまり、彼は、「全部の答を知っているわけではないが、このことだけは知っている」と言っているわけです。

 「風に吹かれて」の歌詞の中で、比較的さりげなく真ん中のあたり(上述の抜粋訳では最後のあたり)に置かれている

 

 「人はどれだけの回数顔を背けるのか--見ないふりをしながら」

 

がこれに対応する部分ですね。

 これは確かにとてもキツいセリフです。以降の「人は・・・」という歌詞を聞く時、常にこの「顔を背けるのか」というセリフが頭の中で重なってきます。

  

 「答は風の中にある」

 

 この詩的な表現のサビで受け止めるのでなければ--日本人でなくても--ちょっと耐えられない気がしますね。

 第2の注釈は、芸術における解釈の多様性ということです。

 言うまでもなく、芸術の解釈は多様です。しかしそれは「何でもあり」、「何でも相対化される」ということではありません。

 多様な解釈は、互いに補完や対立等の関係を含めた、緊張的関係にあり、そうした中でそれぞれのあるべき影響力や価値が決まってきます。

 日本ではそうした緊張関係を失ったまま、勝手に多様な解釈があっていいかの雰囲気が多々あるように思います。

 よくヘイトスピーチをする人が批判されると、「言論の自由だろ」と返してきますが、これは言論活動の緊張関係、その中でのあるべき影響力、価値のあり方を知らない--知的レベルの低い--あまり欧米的な世界では見たことがない反応です。つまり、上記のような雰囲気の一例だと思います。

 芥川龍之介に、「羅生門」という作品があります。映画化もされていて、一つのことも見方によって多様な有様となる、ということを言っているものとされ、そうした発想を、「羅生門的アプローチ」と呼んだりします。

 うろ覚えですが--老婆が死体の髪の毛を抜いて商売していて、老婆をそれを、その死体の男が生前どんなに悪いことをしていたか、自分がそんな醜い商売もやらないと生きていけない、ということを説明して、自らの行為を合理化する話です。

 ただこの話の最後は、この話を聞かされた男がその話に納得しながら、「おれも、一文なしで、悪いが恨まないでくれ」といいながら、老婆を身ぐるみ剥いで去って行くはずです。

 さすがは、芥川ですね。ポストモダンの観念的なお遊びとはダンチの切れ味となっています。

 人々の生きている現実は一つなので、それぞれの見方、立場は、異なれば異なるほど互いに容易に相入れ難い緊張を生まざるを得ないのです。

 

 久保憲司氏の議論も、重要な提起をしている--現実を前置しそこに切り込んでいる--と思います。