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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

2017年の始めに思う(1)--反安倍ファシズム政権の運動を、「野党共闘」と呼ぶのはやめよう

 また、少し忙しさでブローグをお休みしていました。忙しいといっても、個人的な事情で、ファシズム下の日常というのはこういうものと妙に納得します。

 目の前のファシズム政権に反対して、私達ができることは、①選挙で反ファシズム勢力に投票すること、②デモ等、反ファシズムの宣伝、活動に参加すること、③前記の①②に資すると同時に、反ファシズム勢力の連帯と拡大のためにも、反ファシズムの意思表示すること、です。

 ということで、十分な用意はできていないのですが、新年最初のブローグを書きます。

 世界中で、第2次世界大戦前の似た状況が出てきていますが、希望は、例えば日本の場合でいえば、特に、2015年末の戦争法案反対運動に続く、市民運動と野党共闘の運動が存在することです。そうした動きは、第2次世界大戦前にはなかったものといえると思います。

 しかし、そうした新しい希望の存在を認めた上で、私は2つのことを率直に述べたいと思います。

 今日はその第1です。

 それは、「野党共闘」という「旗」のまずさ、うさん臭さ、です。私は反ファシズム勢力の統一戦線の必要性を主張してきました。そして、理想的ではないとはいえ、現在の「野党共闘」が、統一戦線の具体化したものであることを認めます。その意味で、「野党共闘」(の候補者)を支持してきました。

 しかし、反ファシズム勢力の共闘組織であるならば、例えば、「立憲主義のためのフォーラム」「平和を求める樹々」「民主主義のための共同」等、なんのために共闘するかの目的を表した組織名を掲げたものにしなければならないのは、当然ではないでしょうか。

 一日も早く、「野党共闘」に代わる表現を運動の側が常用し、自然とマスコミもそれを使うような状況にする必要があると思います。

 何故、こうした当然のことがなく、「野党共闘」という手段が先行した表現が採用されたのでしょうか。

 私の想像では、まず市民運動の側で、①共産党が従来の「独自」路線をやめて、(当時の)民主党等との共闘を受け入れてほしい、②特定の政党名(民主党にせよ、共産党にせよ)をいうよりは、「野党共闘」という呼び方のほうが、日本の政治風土では、市民や選挙民への支持の呼びかけをしやすい、という事情があり、その結果、やり方(手段としての共闘)を単純明快に示した、「野党共闘」という「戦略」構想が共産党に対して提示されることがあったのではないかと思います。

 そして、共産党はそれを受け入れたのだろうと思います。

 私は、市民運動がそうした「戦略」に至った事情は、以上のように想像、(しかたがないと)納得できるのですが、共産党の対応は非常にまずかったし、政治のプロであるはずの政治組織としては、何でこうなったのか理解できません。

 「野党共闘」は、2015年末の戦争法が強行採決される直前あたりから、集会のコールでも叫ばれるようになっていました。

 そして、戦争法が強行採決された直後、共産党は、「国民連合政府」の提起という形で、市民運動が主張する民主党等との共闘を受け入れる方針を明確化しました。

 私は、この共産党「国民連合政府」の提案はすばらしいもの、私が主張する統一戦線の具体化への一歩と考えて、このブローグでも支持を表明しました。

 「国民連合政府」提案は、要するに、憲法違反の戦争法を廃止する、その目的のためにあらゆる勢力が手を結ぼう、ということです。

 重要なことですが、この「国民連合政府」提案と、「野党共闘」とは、イコールではありません。

 しかし、共産党はすぐに「野党共闘」しか言わなくなりました。

 そして、国民に対する共産党の重要な一つのセールスポイントとして、(仮に相手がまじめに戦争法廃止を闘わないような人物でも応援することを含め)「誠実に野党共闘を進める」ことを押し出すようになったように思います。

 これは、大きな政治的失敗だと思います--共産党にとっても、反ファシズム勢力全体にとっても。

 本来、共産党は、共闘をめぐってはイニシアチブを維持し続けることができる立場にありました。また、「戦争法廃止」という共闘の条件を明示的に掲げることは、自らのアイデンティティをはっきりさせる重要な意味があったはずです。

 そして、そうした共闘の条件が明示されることは、一般社会から見ても、反ファシズム運動としてのアイデンティティが認識されることでもあります。

 たとえ共産党にとって結果として大幅な譲歩を行うことがあったとしても、明確な目的、基準が社会に見える形で掲げられた上での共闘と、最初から「野党共闘」ありきの議論では、全く違います。

 おそらく共産党指導部は、「野党共闘」ありき、ということはない、きちんと一致点を明確にした上で、共闘を進めてきたし、これからも進めていく、と主張するのでしょう。

 しかし、その主張を端的に示すポスターを見ても、「野党共闘」の文字が踊っています。

 一度掲げた以上、「野党共闘」をセールスポイントとする他ない、という袋小路に陥っているように思います。

 しかし、「世間」からみると、「野党共闘」はただ議席が欲しい者達の野合であり、自民党公明党以上に、うさん臭いのです。そして事実、民主党民進党)の候補者の多くはそういう人々といわざるを得ないのです。

 運動の内部で、野党共闘の理由が、反ファシズム、反安倍だ、それは自明だ、といっても、それは勝手な思い込みで、世間はそうはとってくれません。

 有権者の間での民進党の支持率は驚くほど低いですが、私は大雑把に言って、それはそもそも政治的な主張を持った集団(アイデンティティを持った組織)と見做されていず、議席が欲しいだけの集団と見做されているからだと思います(私はその見方は少なからずあたっていると思います)。その延長が「野党共闘」になりかねないのです。

 反安倍政権、反ファシズム運動は、その性格・主張を明確した「旗」(名前)を掲げる必要があると思います。

 次回に、第2の論点を述べます。