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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

朝日新聞にまたしてもびっくり--極端な二重姿勢は、社内外から言論の力を奪い、無気力を蔓延させる

「自由な報道による権力の監視は、民主社会を支える礎の一つである」

 

「権力と国民のコミュニケーションが多様化する時代だからこそ、事実を見極め、政治に透明性を求めるメディアの責任は、ますます重みを増している」

 

 冒頭に引用したのは、2017年1月29日朝日新聞社説「米政権と報道 事実軽視の危うい政治」の最初と最後の文です。

 私の理解では、ジャーナリズムの基本は、事実への固執であり、その事実への固執を軸とした権力からの自立です。ジャーナリズムにとっての言論の自由とは、それが核であり、あるいはそれがすべてに近い、と考えています。

 ですから、冒頭の引用の内容はまさに正論であり、今の情勢の下では、力づけられるものとして称賛を表明したいところです。

 ところが、実際問題として、安倍政権に対して朝日新聞がとっている態度、行動はどのようなものでしょうか。それは、これと正反対の方向への紙面づくり、言論活動であると感じます。山崎氏は、次のように指摘しています。

社説でいくら立派なことを書いても、日々の紙面では「事実軽視の政権追従記事」を平然と載せ続けるようでは、外と内の二重基準がさらに無意識化するだけだろう。米国の政治状況を心配する前に、日本国内の政治状況の危機を直視して、かつての朝日新聞がやっていたように、権力監視を再開してはどうか。

 

 このことは、山崎氏や私のように外にいる人間ばかりでなく、社内でもかなりの人(もっといえばほとんどの人)が感じているのではないでしょうか。

 

 前回、朝日新聞デジタルヘッドラインの記事を批判しました。

 そして、その後新聞報道などでは、冬季アジア札幌大会の組織委員会が25日、大韓体育会(韓国オリンピック委員会)に対し、書籍を撤去する方針を公式に伝えた、とされています。

 そこでもう少し、ジャーナリズムの重要性という観点から、この記事に関して付加的な議論を行ないたいと思います。

 いかに①朝日新聞が、ジャーナリズムにふさわしくない後ろ向きの姿勢を示しているか、②朝日新聞のこの記事が、事実から逃げようとしているか、その結果、この問題を現在形で考えるための材料を提供していないものとなっているか、を指摘します。

 まず、第1の論点です。

 私が前回取り上げた日のデジタルヘッドラインは、メールのタイトルが

 

南京事件に否定的な本 中国でホテル批判

 

というもので、このメールを開き、さらにこの記事にあたる部分をクリックすると、この記事が出て、内容を読むことができるようになっています。

 ところが、この記事のタイトルは、

 

アパホテル南京事件否定の本 「 右翼ホテル」 中国報道

 

となっていました。 

 

 最初のタイトルを、メール・タイトルと呼び、次のタイトルを記事タイトルと呼ぶことにします。

 私は、前回のブローグで、メール・タイトルの「南京事件に否定的な本」は、意味不明だと批判しました。記事タイトルの「南京事件否定の本」ならば、これが「南京虐殺(という歴史的事実)否定の本」のことであると推察がつきます。しかし、南京事件に否定的な本」では、全く逆の意味--南京虐殺という歴史的な残虐行為を批判的に描いた本--であることもあり得るので、私は意味不明だと述べました。

 何故、記事タイトルが南京事件否定の本」なのに、メール・タイトルは、「南京事件に否定的な本」に変わってしまっているのでしょうか。

 字数でいうと、後者の方が2文字増えているので、字数短縮のためという理由は成り立ちません。

 大変微妙なこと、つまらないことのように見えますが、そこには、朝日新聞の姿勢を理解し、さらにジャーナリズムのあり方を考える上で、重要なことが反映されているように思います。

 おそらく、この記事の署名者達ではなく、いわゆるデスクにあたるような仕事をしている人(達)が、元の記事タイトルを、このようなメール・タイトルに変えているのでしょう。

 私は、前回、新聞のヘッドライン、見出しというものに、その新聞のセンスが縮約される言いましたが、改めてこのことを確認したいと思います。

 では、配信のためのメール・タイトルを作成した人は、何を考えてこうしたタイトルの変更を行ったのでしょうか。

 事実として、メール・タイトル作成者は、新しく「南京事件に否定的な本」という微妙な意味不明の言い回しを「発明」しました。記事タイトルから、「アパホテル」という固有名詞を削りました。それから、「右翼ホテル」というどぎつい表現も削りました。

 記事タイトルは全体として長すぎたので、短くするためにそうしたのでしょうか?私はすでに、南京事件に否定的な本」という表現が、長くなってかつ意味不明になっていると指摘しました。

 仮にタイトル全体としての長さだけが問題あったとするならば、例えば、

 

南京事件否定の本 中国でアパホテル批判

 

とすれば、自然であったし、長さも丁度同じになります。

  私は、メール・タイトルは、全体として事実を「なるべくわかりにくく」したもの、アパホテルのオーナーを含む南京虐殺否定論者からの攻撃を避けるために、「マイルド」な表現に変えた結果だと推察します。

 実際問題として、メール・タイトルを「工夫」したところで、記事を開けば記事タイトルが出てきて、アパホテルの名前も出てくるわけです。ですから、この「工夫」ははっきりと意識されたものというよりも、半ば無意識になされている可能性もあります。

 しかし、デスクにあるような立場の人(あるいは、メールタイトルを作成する立場の人)が、記事やそのタイトルの形で現場から上がってくる、事実自体が持つ緊張や重みを「マイルド化」して、意味不明のものにするというのは、やはり近年の朝日新聞の姿勢をかなりよく示していると思います。

 第2の論点に入ります。

 まず面白いことに、

 

アパホテル南京事件否定の本 「 右翼ホテル」 中国報道

 

という記事タイトルは、この記事の内容がアパホテルの擁護の姿勢を持っているにも関わらず、問題の所在を鮮明に示すものとなっています。つまり、アパホテル南京虐殺を否定する本があるので、それが「右翼ホテル」という批判を呼びおこすことになった、という簡単明瞭な事実を直截に示しています。

 3名の署名記者達は、意識的か無意識的かわかりませんが、問題の所在がそこにあることをいやでも感じざるを得なく、認めざるを得なく、それ故に、この記事のタイトルが、どうしてもこのようなものとなったのでしょう。

 問題の所在がここにあるということは、BBCニュースの同じ問題を扱ったタイトルからもわかります。それは次の通りです。

 

Japan hotelier's Nanjing massacre denial angers China

(日本のホテルオーナーの南京虐殺否定が中国を怒らせる)

 

 このタイトルは、朝日の記事タイトルとほぼ同じですね。

 BBCニュースの記事は、このタイトルに沿って、「ごく普通に」何故、これが大問題となるのか、今回どのようにこの問題が現れてきたのかを簡単に解説しています。

 ところが、朝日新聞の記事は、この問題の所在の重さに耐えかねるかの如く、一生懸命、言論の自由表現の自由、経営の自由、営業の自由という言い訳を対置してくれています。

 私が、ここで「言い訳を対置してくれています」と書いたのは、日本人のかなりの人の間にある感情--つまり、観光学の先生や記者達のいうところの「『騒ぎ』や『騒動』はもう勘弁してくれ」という気持ち--を「理屈」の形をとりながら、代弁していれているということです。

 しかし、にも拘らず、いざ記事にタイトルをつけるとなると、このニュースが発生してきた文脈、つまり過去から現在までの事実やその評価をめぐる議論の重みを自ずと反映するものにする他なかったのです。

 ジャーナリズムにとっての事実の核心的な重要性は、デマ(社会に対し、事実を捏造し、あるいはないものとしようとする言動)に対する徹底した批判が必要であることを導きます。

 デマが流れるのは、すでに言論の自由があること、それが守られていることを意味します。言論の自由が存在し、守られているからこそ、デマが作られ、流れることができるのです。

 そうした中で、私達(ジャーナリズム)がなすべきことは、デマが事実に反するものであることを明らかにして、徹底的に批判することです。

 それこそが、言論の自由を守る道です。

 逆に、デマを「言論の自由」の名の下に擁護することは、デマへの批判者を「言論の自由」への敵対者に作り上げることです。これは、常にデマの作成者がやってきたやり方です。

 デマへの批判を「言論の自由」の名の下に封じることこそ、言論の死、事実を探ることを使命とするジャーナリズムの死を意味するのではないですか。

 南京虐殺という歴史的事実は、虐殺された人の人数の不確定、不一致によって、ないものにすることはできません。それをなかったものとするのは、デマではないですか。

 3人の記者がデマであるかどうか断言する確信がなかったとしても、ジャーナリストとしてのセンスを持っていたなら、事実を大切にする方向に調査と記事内容が向かっていたでしょう。

 冬季アジア札幌大会の組織委員会の決定は、様々な経緯はあるでしょうが、本質的には事実の重み、その評価の議論の重みという文脈から理解されるものでしょう。

 朝日新聞は、どんどん読者の理解に貢献するための情報提供から遠ざかっているように見えます。そして、冒頭の社説とここで批判したアパホテル記事に見られた極端な二重姿勢は、社内外から言論の力を奪い、無気力を蔓延させるものとなっています。