hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編1)

 今まで、このブローグの異なった箇所で、予告しながら延ばしてきた理論的な問題を、ここでまとめて議論します。

 今回のタイトルは「グローカル」となっていますが、焦点はインターナショナルな方にあります。

 資本主義の危機ということを論ずるに参考となる(なりそうな)文献として、

①水野和夫 [2014]『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社

②ヴォルフガング・シュトレーク [2016]『時間かせぎの資本主義―いつまで危機を先送りできるか』みすず書房

があります。

 ①はざっと読んだのですが、まだ②は読んでいません。 

 ②を読んでから、①ももう少しゆっくり読んでから、資本主義の危機を論じようと思っていましたが、現時点で考えをまとめておくことにします。

 私は、世界的な資本主義の危機は、3回あったと思います。

 1回目の危機の兆候は、1929年世界恐慌という世界的な規模の危機としてはっきりと認識されています。それに対応して、世界的な福祉国家体制が形成されました。それは、資本主義の生命力を示すもの、論者によっては、本来の資本主義の姿を示すもの、と見られてきました。

 2回目の危機の兆候は、1971年の金とドルの交換の停止が最初で、戦後の国際金融(ブレトンウッズ)体制の崩壊の第1歩が始まりました。その後福祉国家体制の崩壊が進み、新自由主義体制が形成されます。

 新自由主義の経済的本質は、たんに野蛮な資本主義のことです。先進国でも、労働者の実質賃金が低下し、労働時間が上昇する、ということが局所的、一時的ではなく、広く見られるようになりました。つまり福祉国家体制以前に戻ったわけです。

 また、新自由主義は、経済的な原理であるという誤解があります。これは、間違いで、国家による統治の様式、統治テクノロジーであり、それは権力のある者がより弱い者を支配するという、弱肉強食の原理のことです。その中に、先に述べた経済的野蛮な資本主義が位置づけられています。

 3回目の危機の兆候は、2008年に始まったリーマンショックです。それへの資本主義としての対応は、現在までの極右勢力の国際的な台頭によって特徴づけられます。「〇〇主義」というように表現される、まともな原理的(普遍的)なものはありません。

 あるいは、これをファシズムと呼ぶことができると思います。ファシズムの定義については、このブローグでも何回か解説してきましたが、それをさらに少し緩めて広い概念として理解することが自然のように思うようになりました。

 私は、このファシズムをソフトに表現したものが、「〇〇ファースト」というものと理解しています。しかし、現在の形成されつつある世界的な体制を、「〇〇ファースト」体制と呼んでは、この体制の危険性が表せません。この「〇〇ファースト」とという表現は、ファシスト的な彼ら自身が、自らを隠すために用いている隠れ蓑なのですから当然です。

 私は、現在の資本主義の危機に対応して形成されつつある国際的な体制を「国際ファシズム体制」と呼びたいと考えます。

 この点について説明が必要ですが、その前に、何故資本主義の危機なのかを議論しておきます。

 まず、マスコミを見ていますと、自由貿易保護主義かという論建てが横行していて、何と安倍首相が自由貿易のリーダーのような扱いがなされています。

 これは安倍政権の支持率が上げる一つの重要な要因となっていると思います。ですから、理論的な見方というものはとても大切です。

 資本主義の危機という観点から見た時、新自由主義体制と国際ファシズム体制は連続しています。

 その本質は、マルクスが指摘した利潤率の低下です。上記の水野氏の本は、利潤率の低下は利子率の低下という形で如実に現れているといい、そのことを歴史的な規模で議論しています。

 (これに対し、ピケティの『21世紀の資本論』は分配の問題を扱っていて、本質的な意味での資本主義の危機論にはなりません。)

 この利潤率低下という資本にとっての本質的な危機に対し、新自由主義が「救世主」として現れたのです。それは、それを様々な形で信奉する経済学者達によって美しいもの、合理的なものとして吹聴されました。競争で効率と活力が生まれる(再生する)というのです。

 これは、実は国家を柱とし市場を自由空間とする弱肉強食の主義です。利潤率の低下圧力が切迫しており、福祉国家体制が維持できないという経済的な現実の前では、国家官僚や資本家階級にとって合理的なものでした。

 私は上記のことを、「グローカルな連帯」と英国のEU離脱(4)--資本主義の危機でも論じています。

 それは同時に、弱肉強食の原理を美しい言葉と数学染みた式や記号で人々をけむに巻くものでした。

 新自由主義というイデオロギーの下に、人々を活力再生の夢に動員することが世界中で行なわれました。 

 この新自由主義の本質を捉えなおすことは、むしろ国際ファシズム体制の誕生とともに容易になったと思います。

 特に、新自由主義の国際版であったグローバリズムは、アメリカを中心とするブロック経済形成の運動であったことを、明確にする必要があります。

 実際そのようなものがあったのか、存在しうるのかといったことを別として、第2次世界大戦後に唱えられた自由貿易主義とは、2つの大戦の前に存在したブロック経済圏形成への反省として、文字通り世界すべての国の間の平和的な関係を作り出す基礎としての互恵的経済関係、互恵的自由貿易体制を形成しようとするものでした。

 しかし、そのような自由貿易主義と新自由主義は異なります。例えばTPPが典型ですが、それがアメリカの資本の都合を最優先にしたものであることは明らかであり、また、それに属さないものに対する排他性(ブロック性)を持つことも自明です。

 これをグローバリズムのようにマスコミは言いますが、それは要するにいわゆるグローバリズムがアメリカ中心のブロック形成の運動であることを意味しているだけです。

 もちろん、このブロックとは、たんに経済的な意味だけを持つのではなく、軍事的政治的なブロックでもあります。

 新自由主義が資本主義の危機への対応として有効性が維持できたのは、アメリカのリーダーシップの力が大きく、また各国における資本家階級のリーダーシップの力が大きかった間だけです。

 では、本質的に野蛮な資本主義であり、弱肉強食の新自由主義が何故有効性を維持できたのでしょうか。どのようにアメリカのリーダーシップや各国の資本家階級のリーダーシップの力が維持されたのでしょうか。

 この点を次回に論じ、資本主義の真正の危機、あるいは終焉の議論に続けます。