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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編5)--フーコーの自由主義論と新自由主義論B

 フーコーの権力による人々の意識の支配という問題意識(これは、グラムシをつぐものです)から言って、彼が新自由主義を支配のテクノロジーとして捉えていたことは、彼の1970年代末の講演を知った今となっては、当然のことといえます。

 しかし、支配のテクノロジーとしての新自由主義という考え方は、もっと早くから知られるべきであったし、現在でもより広い人々に知られるべきものです。

 何故、早くから知られなかったのか、現在でも広く知られていないのかについては、後で述べることにして、フーコーの考えを私なりに紹介します。

 フーコーのすばらしい点は、新自由主義を第一に、国家統治における自由主義の歴史的な位置という深さから捉えようとしていること、第二に、新自由主義の「新しさ」を浮き彫りにしていること、です。

 第一の点を説明します。歴史的に自由主義が現れてくる時代というのは、国家がいわゆる法的な支配だけではなく、経済学的な「法則」というものに関心を持ち、それに「従う=(無視できないものとして)」政策を持ちながら、統治するようになっていく時代ということです。それは、国家が統治対象としての「住民な」のあり方(健康といった身体的な面や自由といった意識的面)に関心を持つことでもあります。

 ここで、フーコーは、「住民」と呼ぶ代わりに、「人口」という独特な言い回しをしていて、さらに、これと関連して彼の関心は、「人口」の健康・保健とか「人口の再生産(=性)」とかに繋げられていきます。

 私は、フーコーの「人口」よりも、「住民」と呼んだ方が、わかりやすいと思ってそう書いているのですが、普通の日本語では「国民」と呼んだ方がいいかもしれません。では、何故「国民」とせずに、「住民」としているかについては、長くなるので、ここでは省略します。

 ところで、経済学的な「法則」というと個人の意志を超えるという意味で「不自由」なように聞こえますが、しかし、これは「自由」な市場が支配的なものとして登場してくることを意味しているのです。つまり、少なくとも経済的領域では、自由な個人というものが現れてきます。まさに、資本主義(国家)の誕生ですね。

 つまり、従来の国家的な支配の中で、市場的な自由が広がり始め、むしろ国家がそうした市場的な自由が内在的にもたらす規則性(=「法則」)を認めて、国家運営、国家統治をする必要が生まれてきた、ということです。

 このような統治は何らかの意味で、個人の自由というものを認めるものであり、さらにいえば、認めながらコントロールし、個人の自由を「利用」する統治でもあります。

 市場的(経済的)コントロールではありませんが、このような個人の自由を「利用」した統治の典型として、フーコーが早くから注目したのが、ベンサムパノプティコンでした。

 パノプティコンは、ベンサムが提案した、監視の目はあるがどこからそれがなされているかわからない刑務所のことですが、服役している者達には様々な「自由」が与えられ、「自発的」に刑務所の規則に従い、刑務所内での「生産労働」に励むことを、ベンサムは目指していました。

 フーコーは、パノプティコンを「自由主義的統治の定式そのもの」と呼んでいます(フーコー,ミシェル [2008]『生政治の誕生 : コレージュ・ド・フランス講義一九七八-七九年度 (慎改康之訳)』筑摩書房p.82)。

 フーコーは、このように自由を「利用」した統治の始まりを語るわけですが、では福祉国家をどのように説明するのでしょうか。

 彼はそれを、「より多くの管理と介入によって」「自由を生産し、自由を吹き込み、自由を増加させる事、より多くの自由を導入すること」を行おうとするメカニズムだというのです。

 私はそれはちょっと無理のある表現だと感じますが、しかし、着想が面白いし、言いたいことはわかりますね。

 つまり、ここから--福祉国家の管理と介入の「過剰」に対する反逆、本来の自由主義の再建の企図として--新自由主義という新しい統治方法が生まれてくる、というのがフーコーの図式です。

 すでに、第二の論点に入りつつあります。フーコーの議論を、第一の論点から見ると、新自由主義の新しさはあまりないことになりますが、フーコー自身は、新自由主義は単なる復古ではない、といって新しさを強調している箇所もあります。

 次回に、フーコーの第二の論点を追い、学ぶべき点と批判的に扱うべき点を論じたいと思います--「資本主義の危機・終焉」と繋げるために。