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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編7)--ポパーのピースミール工学とフーコー

 今回は、フーコーによる新自由主義を統治テクノロジーとしてとらえるという視点を、ポパーのピースミール工学という論点と関わらせて議論します。

 私の見落としでなければ、フーコー自身がポパーに触れた箇所はないようです。しかし、フーコー新自由主義の議論を社会思想の中に正しく位置づけるには、それを工学、社会工学の流れに位置づけて理解する必要があります。

 フーコー思想は、フランス現代思想という枠組みで紹介され、それは構造主義ポストモダンというような流れの中で語られるのが普通です。

 専門研究者の研究はどんどん専門化して大きな流れ、重要な背景が見えなくなっています。すでにフランス現代思想という枠組み自体が、専門化した狭いものになっているように感じます。

 しかし私は、フーコーの統治テクノロジーという発想に、社会工学的な発想・アプローチ、その発展というものが直接的、間接的に影響を与えていたことは疑いのないことだと思います。

 私がそういうのは、文献的な証拠をすぐに示せるからではなく、フーコーのような人物が同時代的な社会思潮を知悉していない事はあり得ないと考えるからです。

 また、構造主義者達やフーコーの方法論は、当時の科学論をめぐる議論を意識したものであったことは知られています--ただし、このことも今日ではあまり触れられませんが。ポパーは科学論において重要な論者の一人でしたから、フーコーポパーを読んでいるのは当然で、その中には、ポパーの社会論も含まれていたと考えるのは自然です。

 私の今回の議論の結論的な構図を言いますと、①情報理論に体現される「新しい工学」の発展、そうした流れの中で、②社会工学の最新形態としての新自由主義、ということになります。

 フーコーの議論も、そうした構図を踏まえると理解しやすく、フーコーの貢献を--「フーコー的バイアス」から逃れて--改めて確認できます。

 まず、「新しい工学」というのは私の表現で、この100年くらいの間に、工学的な世界の中で、広い意味での情報の重要性が自覚化されてきて、それに対応した様々な理論や機械(特にコンピューター)の発展を支えたような工学的潮流を指します。

 工学のような理系の世界では、常に新しいものが古いものに置き換わるのが通常ですから、ある時点で「新しい」などと言ってもすぐ古くなってしまうので、わざわざ「新しい」などと言いません。

 そこでは、新しいものが古いものに完全に置き換わるので、古いものを完全に忘れてしまっていいのです。場合によっては、むしろ完全に忘れてしまった方が、新しいものがうまく機能すること、その理解を早め、容易にすることもあるくらいです。

 ただ私が「新しい工学」という言い方をしているのは、歴史的な視野からの特徴付けが必要だからで、この100年くらいの間の工学における質的な発展を自覚化、シェーマ化したいからです。

 それは、コントロールという分野それ自体、情報という分野それ自体の重要性の自覚の問題です。

 ものを動かすには、エネルギーがいります。しかし、コントロールという作業は、その部分はほとんどエネルギーを使いません。

 例えば、スイッチを入れて電灯をつけるとします。電灯は、電気エネルギーによって明るくなりますが、スイッチを入れるのは人間です。もちろん、人間がスイッチを入れる作業(電灯をつけたり消したりするコントロール作業)も、物理的なエネルギーを要しますが、電灯が要する電気エネルギーと比較すればわずかです。

 もし、スイッチを入れるという作業が面倒なものあったり、エネルギーもかなり要するものであったとしたら、そもそも「スイッチ」という概念から遠くなってしまいます。

 上記の例から、今、コントロール(統御)という概念を次のように定義します。

 

コントロール(統御)とは、潜在的なエネルギーを持つものを、思うように動かすことである 

 

 ここで、「潜在的なエネルギーを持つもの」の代わりに、「『自由な』人間」と置き換えれば、私が何を言いたいのかわかっていただけるでしょう。つまり、

 

新自由主義の統治テクノロジーとは、「自由な人間」を思うように動かすコントロール(統御)技術のことである

 

 人間活動のエネルギーは、「自由」があり、「競争」があるほど高くなるとします。

 すると、この「新しい工学」の視点からは、「自由」や「競争」を押さえ込むことが目標となるのではなく、むしろ、それらを「解放」「奨励」した上で、それをコントロール(統御)することが目標となります。

 工学の分野でのこうした視点の出発は、杉田元宜 [1977](『工学的発想のすすめ』(国民文庫)大月書店)によりますと、例えば次のような面白いものがあります(59ページ)。

 巨大な船舶が荒波で揺れるのを防ぐのに、スペリー方式という巨大ジャイロを用いた上での力づくで対抗する方式--古い工学的方法--から、元良方式では、(1)ジャイロから得られる揺れの方向という情報、(2)荒波の中での船の進行に伴う水力学的なエネルギー、の2つの組み合わせを利用した、船腹のひれの角度のコントロール--新しい工学的方法--へと代わったといいます。

 この元良方式は、1920年の発明です。

 杉田は、もっと古く単純な例として、帆船を挙げています。帆船は、風がないと動きませんが、風さえあれば、風と逆方向へも航行できます。

 ただ帆船は工学の成果ではないので、新しい工学ということはできません。

 また元良方式は、工学の成果という意味で、新しい工学と呼ぶことができますが、コントロール(統御)の分野の独自の重要性が、それが発明された時点では、方法的な意味ではまだ自覚化されていなかったことが、杉田によって指摘されています。

 情報理論サイバネティクス、コンピューターやIT技術の発展を伴いながら、コントロール(統御)の分野の独自の重要性が自覚化されていくのは、この100年間くらいの間の過程なのです。

 杉田が勧めている「工学的発想」とは、こうしたコントロール(統御)の自覚化の潮流に共通する新しい工学の発想のことです。

 すでに、この「新しい工学」の発想が、新自由主義の統治テクノロジーに対応していることを述べましたが、急いで、社会テクノロジー、フーコーの統治テクノロジーとの関連を述べます。ポパーの議論がここで出てきます。

 工学の根本的な精神は実践にあり、その使命と使命の実現方法は、明らかにされた目的に対し、その実現のための「機械」を創り出すこと、その機械の制作過程を具体的に提示することです。

 社会に対しても、統治という観点からこうした工学的精神や工学的使命・方法を適用する動きは、やはり、この100年間くらいのことです。

 近代国家の統治テクノロジーという意味では、それは、近代国家の誕生以来それは存在しますし、社会科学のかなりの部分が、そうした統治テクノロジーとして発展してきました。

 このことは、フーコーの問題意識そのものでしょう。

 しかし、自然科学をモデルとして、あるいは自然科学に基礎を持つ工学をモデルとして、統治方法を提出しようとする態度は、やはりこの100年くらいの間に始まったといっていいと思います。

 社会(科学)の分野で、工学的な発想に基づくものとして重要なものが、社会計画(経済計画)です。ソ連の1928年に始まる第一次5カ年計画が有名で、二次、三次、・・と続いた経済計画は、成功したものととらえられ、第二次世界大戦後は、発展途上国、資本主義国でも、計画がはやります。

 その特徴、前提、あるいは仮定は、中央の集権的な当局が作った計画に、下部組織が忠実にしたがって(したがわせて)全体が動いていく、というものです。

 マンハイムは、1935年に出版した『変革期における人間と社会』で、計画の重要性を論じています。

 他方、計画ではありませんが、重要な社会工学的政策として、ケインズ主義的な経済政策を見逃すことはできません。

 しかし、社会工学的なものが社会科学における重要テーマとして現れてくるのは、第2次世界大戦後であり、それは福祉国家の出現、形成と対応しています。

 それが、先に述べた社会主義的な中央集権的な計画に反対する、カール・ポパーのピースミール工学です。

 ピースミール工学を提唱した『歴史主義の貧困:社会科学の方法と実践』は、1957年の出版です。

 先に結論を言うと、ピースミール工学は、福祉国家の統治テクノロジーの思想、イデオロギーです。

 ピースミール工学は、社会科学全般の工学化を予告し、促進しました。そして、予告は実現したのです。今日のアメリカを中心とする社会科学は、多くが工学化しました。

 しかし私は、ポパーのピースミール工学の主張がなかったとしても、遅かれ早かれ、社会科学の工学化は進んだろうと考えます。何故なら、それは福祉国家が要請するものであったからです。またポパーのピースミール工学の主張がなかったとした場合は、「別のポパー」が現れた可能性もあります。

 あるいは別の言い方をすれば、ポパーの議論は、すでにその時に存在した社会科学の工学化の動向を直観し、それを意識化して表現したものであったといえるでしょう。

 少し横道に逸れますが、ただ不思議なことに、ポパーのピースミール工学の議論の中には、ケインズ主義的な経済政策に関する言及がありません。

 私が想像するに、それには2つの理由があるように思います。第1は、ポパーにとって彼の科学観、工学観からして、ケインズ的政策についての真偽をいいがたく、その意味で評価し得なかったこと、第2に、ピースミール工学は、中央集権的な計画による「革命」的な道に対抗する、漸次的な社会改良の理論なのですが、ケインズ主義的な政策は、社会改良(を維持し続けることが可能な)理論なのか明確でないこと、です。この第2の論点は、第1の論点に含まれている、ということもできます。

 ポパーは、社会科学の中では、経済学だけが科学の水準に達していると言いますが、それは数理経済学を指しているようです。ケインズの『一般理論』を私は読んでいませんが、それは非常に難解で、普通は解説書を読まなければ理解できないと言われています。しかもその内容は、むしろ数式を使った方が理解が容易になるはずなのに、それが使われていないというのです。

 もしかしたら、ポパーのように深い教養を携えた人物にとっても、数式的な表現があるかないかということと議論の明晰さとは等価物のようにとらえられており、その点でケインズは明晰さを求めるピースミール工学の範疇に認めることができなかったのかもしれません。

 しかし、今日的な眼、あるいは私の眼から見ると、ケインズ主義もピースミール工学の一つです。

 さて、ポパーのピースミール工学ですが、これは、漸次的工学と訳されたりしています。確かに、彼のいうピースミール工学という言葉には、そういうニュアンスも含まれていますが、まず、それは、積み木細工のように、部分部分をばらばらのもの(ピースミール)にして扱う、というニュアンスを込めたものです。

 ポパーの議論を少し敷衍して説明します。彼は、集権的に全体を扱う計画は、強制性、集権性を強めざるを得なくなり、不可避的に民主主義に反するものとなるというのです。したがって彼は、集権的に実行する(強制する)社会全体に関わる設計図を作成すること、それにしたがった行動(政策)を否定します。

 彼はまた、ピースミールの集合が関連し合って、全体を構成していることを認めますが、そうした全体の関連性を正確にとらえることは不可能であり、特にその時間的変化(歴史的変化)を予測したりコントロールすることは不可能であると考えます。

 それゆえ、先に述べたように、社会全体をかえていくための設計図というものを作るのは不可能であり、それを作り、無理矢理、実行しようとすると、その実行主体である集権体制は、不可避的に強権的な体制になっていく、ということになります。

 しかしポパーは、社会を把握したり、あるいは社会を動かすために工学的な手法、彼のいうピースミール工学を、むしろ積極的に推奨します。

 しかもそれは大規模なものであってもよい、というのです--それが失敗の可能性を認め、その場合は修正しながら--つまり漸次的に--進むということを明確にするなら。

 彼が考えている失敗の可能性、計画が予定通り進まない一つの原因として、「人間的要因」のもたらす不確定性があります。

 ここで彼は特に議論していないのですが、おそらくこの「人間的要因」とは、政治的価値としての個人の自由を含みつつ、また、広く人間的な要素全般も意味しているものと思われます。

 ところで、私は先に、「新しい工学」がこの100年の間に発展してきたとしたうえで、新自由主義の統治テクノロジーが、それに対応したものであることを示しました。

 では何故、ポパーのように、頭脳明晰で工学的な学問を高く評価していた人物が、「新しい工学」の動向を反映した議論展開をしなかったのでしょうか。 

 彼のように民主主義的な価値を唱えて、ソ連の集権主義に反対した理論家が、何故個人の自由を基礎にした「新しい工学」に対応する、いわば「新しい社会工学」を展開しなかったのでしょうか。

 その答えは、すでに述べたように、ポパーのピースミール工学は福祉国家が必要としたもの、福祉国家の思想、イデオロギーだったからです。

 福祉国家が必要としたのは、まず国家による介入を正当化し、導いてくれるものでした。

 ポパーにとって、個人の自由の尊重を前提としながら、科学的、工学的な態度を貫徹させるならば、国家による介入も、積極的に認められるものです。

 しかし、このような立場からは、個人の自由をも工学的観点から利用する、コントロール(統御)するといった新自由主義の統治テクノロジー(「新しい社会工学)は出てきません。

 この新自由主義の統治テクノロジー(「新しい社会工学)は、まさに、新自由主義国家の時代の思想、イデオロギーとして現れるのです。

 フーコー新自由主義論は、こうした工学、社会工学の発展と同時に新自由主義国家の誕生という、2つの文脈に位置づけるとより深く、かつ、わかりやすく理解できると思います。

 かなり長くなってしまいましたが、次回、もう少し工学的な視点の意義に触れた上で、フーコーの問題点を述べることにします。