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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編8)--現在から見たフーコーの限界

 本ブローグ4月3日の記事で、潜在的なエネルギーを持つものをコントロールすることに焦点を当てる「新しい工学」の潮流と、<自由>や<競争>でエネルギーを持つ人間のコントロールを志向する「新自由主義」の潮流は、対応関係にあることを指摘しました。

 長くなりがちなので、結論を先に書き、簡潔にその根拠を書くように努めます。

 ①フーコーは、1970年代末に、新自由主義が統治テクノロジーであることを明確にし、その思想的ルーツがドイツのオルド自由主義にあり、また、その現代的なものとしてアメリカの新自由主義があることを明らかにしました。

 ②ところが、この統治テクノロジーの使用者である国家の支配力が、このテクノロジーによって強化されるとは考えず、逆に、国家は「減退」しているといいます。

  まず、②の問題点について述べます。

 フーコーは、「国家の減退、国家化の減退、国家化し国家化される統治性の減退の兆しがある」と述べています(フーコー [2008]『生政治の誕生 : コレージュ・ド・フランス講義一九七八-七九年度 』筑摩書房、p.237)。

 えっ! せっかく、新自由主義が統治テクノロジーだと喝破しているのに、これではだいなしです。

 これでは、新自由主義者の言い分がそのまま実現していることになります。「小さい政府」ということですね。

 また①については、フーコー新自由主義が統治テクノロジーとして合理性を持つものであることを強調し、またそれを単にテクノロジーとしてとらえます。そして、それが持つ資本主義との関連やイデオロギー性、そうしたことからもたらされる矛盾や破綻の可能性を議論しません。

 このような把握では、新自由主義が非常にスマートな支配方法として、未来永劫私達を支配するものとなってしまいます--これもまた奇妙なことに、新自由主義者の言い分(合理性の主張)がそのまま受け止められた結果というような印象を受けます。そしてそれは、一部のまじめなフーコー信奉者に、現代社会に対する絶望感を与えているようです。

 それに対し、私は、このブローグで依拠してきた柄谷行人アンディ・グリーンが指摘しているように、新自由主義は、逆に国家を強化するものだと考えます。

 そして注意すべきは、この国家の強化は、資本主義の危機に対応したものでもあることです。

 つまり第一に、新自由主義の本質は、資本主義の危機に対応するために、弱肉強食の「野蛮な」原理を経済分野に適用し、さらにそれに止まらず、政治、社会の分野全体に適用しようとするものである、と把握します。

 第二に、新自由主義は、その手法として、「新しい社会工学」としての新自由主義的統治テクノロジーの手法と成果を利用して「効率的」な支配--すべての分野における弱肉強食の原理の貫徹--をもたらそうとします。このテクノロジーは、「自由」「競争」「自己責任」を積極的に「生産」し、力のある者(国家や資本)がそれを思う方向に、「効率的」にコントロールしようとするものです。

 第三に、この新自由主義的統治テクノロジーが、「自由」「競争」「自己責任」「効率」といったキーワードによってとらえられる外観を持つことは、それ自体重要な意味を持ちます。つまりそうした外観は、本質的に「野蛮な」弱肉強食の原理を覆い隠します。この主義が普遍性を持った合理的なものである、という外観がもたらされるのです。

 しかし実際のところ、この新自由主義的統治テクノロジーの使用が、「効率性」をどの程度実現しているかは、疑問の場合が少なくありません。

 新自由主義的統治テクノロジーは、国家や資本にとって好都合な、本質的に野蛮な政策を実行するための手段を提供すると同時に、そうした政策を合理性や効率性を持ったものと見せかける、という二重のイデオロギー性を持っています。

 ところで、何故、統治性、統治テクノロジーという視点から議論しているフーコーが、新自由主義に関して、「国家の減退」や新自由主義の合理性の強調というような見方をすることになったのでしょうか。

 大きく言うと2つの理由があります。第1は、フーコー自身の方法論的、視点の問題です。彼は統治性の議論を、国家や資本と結びつけて行うことを意図的に避けています。

 もちろんフーコーは、国家が統治テクノロジーを使用する主体になる場合についても議論しているのですが、彼にとってそれは権力主体の一つのケースに過ぎず、特別な意味・意義を持たせてはならないのです。

 しかし、近代世界にとって国家は権力の特別の結節点であって、他の権力とは異なる極めて特別な位置を持つものです。詳論はしませんが、これは国家の起源、国際的な近代国家体制の成立といったことから理解されます。

 近代国家が強大なものになり続けていることは、各国の軍事力・軍事費が基本的に増加し続けたことに見ることができます。この30年くらいの間、対GDP比で見ると減少している国が多いですが、絶対額の実質で見ると、ほとんどの国で増加傾向が見られます

  アメリカについては、さらに70年前からのデータが簡単に見られますが、同様のことがいえます。

 こうした現象の実態がどのようなものであるかについては、ギデンズの『国民国家と暴力(松尾精文, 小幡正敏訳)』而立書房[1999]が、情報の問題も含めて論じています。

 またフーコーの「国家の減退」というとらえ方の背後には、彼が国家と資本の結びつきの問題を見ようとしないこともあります。

 しかし、この結びつきは、絶対主義の時代に見られた歴史的な過去のものというだけではなく、ずっと重要性を持ち続けています。

 国家の論理と資本の論理は別のものですが、基本的にお互いを支え合わないと自分自身を維持していけないのです。双頭で体は一つの生き物です(柄谷行人の表現)。

 特に資本主義の危機にあたっては、国家はその対応策実施の中心舞台となります。規制緩和や民営化といった施策は、国家の弱体化を意味するのではなく、その危機に対応するための要衝としての役割を果たしていることを意味するのであって、国家の重要性の認識を高めるものです。

  多国籍企業が国家を超えた力を持つ、というような考えもあります。しかし例えば、アメリカを根拠地とする多国籍企業がアメリカ国家を超えた力を持つ、という理解が間違いであることは、現在、トランプ政権の登場とそれに対するアメリカ大企業の対応によって明らかになっていると思います。

 フーコーが「国家の減退」を主張したり、新自由主義の合理性を強調することになった大きな理由の2番目は、彼が新自由主義に着目した時期があまりに早すぎた、ということがあります。

 彼の新自由主義に関する講義は、1978年に始まり、1979年の4月に終わっています。

 イギリスのサッチャー政権は、1979年の5月に始まりますから、フーコーはまだ、新公共経営論(new public management)の実践を見ていないことになります。

 サッチャーや1981年に米大統領に就任したレーガン等の新自由主義的政策が、大資本や投資家達の利害をいかに代弁したかも見ていません(ハーヴェイ[2007]『新自由主義 その歴史的展開と現在』作品社、参照)。

 日本の小泉政権の下では、様々な経済審議会において直接の利害者が発言権を持ち、決定を推進するということが堂々と行われました。

 こうしたことは、「国家の減退」や新自由主義の「合理性」といった見方ではとらえられません。

 さらに、私達は現在のファシズム段階から新自由主義の本質について振り返ってみることが可能となっています。

 例えば、安倍政権の下では、小泉政権をはるかに超えた利権の私物化がこれまた堂々と行われていますが、これは、小泉政権が用意した政治、社会環境との連続性の観点からとらえられるべきものです。 

 機会を改めて論じますが、日本に限らず、新自由主義は現在の世界各国のファシズム体制に繋がるものであったのです。

 つまり今私達は、新自由主義が、テクノロジカルな外見、普遍的な合理性、効率性を担保するような外見によって、その野蛮な本質を覆い隠す、統治テクノロジーであったことがよりはっきり理解できるようになってきたと思います。

 現在の国際的なファシズム体制の出現は、資本主義の危機が深まった段階、新自由主義のテクノロジカルな外見、普遍的な合理性、効率性を担保するような外見を維持した対応ができなくなった段階に対応しています。

 野蛮な弱肉強食を隠すことができなくなって、それが表に現れつつあるのです。

 私がフーコーの分析の弱点を指摘するのは、今日の後知恵をもってあげつらおうとしてのものではありません。それはフーコーに学びながら、今日のファシズムの誕生を理解しようとする立場からのものです。