hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 I (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(3))

 論文を書く経験を持つ方はご存じのことですが、書くということは自分で考えたことを表していくことです。しかしそれだけではなく、書きながら新たなことが見えてきたりします。

 今回も書きながら何回も憲法を見直したりしましたが、この憲法のすばらしさ、特に前文のすばらしさには改めて感激します。

 前に、この憲法のことを「歴史の贈り物」というタイトルで論じましたが、もうこれはまさに、「歴史が作り出した芸術作品」とも呼ぶべきものですね。

 世界中の人、市民運動をやっている人、社会科学者に読んでもらいたいです。

 日本でも、高校3年、大学生くらいに高い水準の授業やディスカッションを、法学者、弁護士、市民(憲法を専門にしていない人文・社会・自然科学の研究者も含め)と一緒に、日本市民として生きるための授業として5コマくらい集中的にやることが必要ではないでしょうか。受験科目としてではなく、その授業、ディスカッション自体の魅力で勝負する、という感じで。

 さて、第1条の象徴の問題です。

 

第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 

象徴天皇制に関わる結論的な論点を先に列挙します。

 

宮澤俊義の「1945年8月革命」説は誤りであり、「1947年5月無血革命」が正しい。

 

⑦象徴天皇は公務員であり、全体への奉仕者である。

 支配者が奉仕者に変わったのであるから、これを革命と呼ばず何と呼ぶか。

 

⑧共和制原理は、<A.権力源泉ピープル原理>と<B.平等人権原理>によって構成される。

 <A.権力源泉ピープル原理>とは、「国家権力の源泉は、ピープルのみにある」という国家形成のあり方とその効果についての原理のことである。そこでは、ピープルのみが国家--対内・対外的な権力(主権)や権力に付随する権威を有するもの--を形成することについての合意の主体である。国家形成や国家的権威をもたらす他の主体は存在しない。

 この原理に基づいて形成されるのが共和制国家であるが、通常、その以前にあった君主制国家の否定する国家として生まれる。したがって、共和制国家では、国家の性格の歴史的非連続性(新共和国の価値性と旧君主国家の反価値性)が強調される。

 <B.平等人権原理>とは、「誰もが人権を有し、かつその人権は平等である」という人権原理のことである。

 完全な共和制においては、全員がピープルとなり、ピープル以外存在しない。

 

憲法における日本の象徴天皇制は、

 <A.権力源泉ピープル原理>の面から見ると、ほぼこれを満たしている。やや文語的表現を用いると、「象徴天皇制は、<A.権力源泉ピープル原理>によって包まれ、浸透されている」。

 <B.平等人権原理>の面から見ると、天皇家族に対する特権の付与と人権の剥奪があり、反共和制的である。

 

⑩これに対し、ヨーロッパを中心に見られる民主主義的国王元首制は、

<A.権力源泉ピープル原理>の面から見ると、君主から生ずる権力、権威の要素を残しており、この原理を満たしていない。やや文語的表現を用いると、「<A.権力源泉ピープル原理>によっては説明できないアポリア--「君臨すれども統治せず」--から逃れられていない」。

 <B.平等人権原理>の面から見ると、国王家族に対する特権の付与と人権の剥奪があり、日本の象徴天皇制と同じく、反共和制的である。

 

 長くなるのを避けるようにして、まず⑨の議論の根拠を、条文上や現憲法のあり方から述べていくことにします。

 憲法は最高法規なのですから、まずは憲法自体、憲法の中自体に解釈の根拠を探すべきで、歴史的事情や外国の事例等は、憲法自体、憲法の中自体では憲法解釈が困難(規定の意味が不明)になった時に、解釈を進めるための参考として利用するのに止めるべきです。

 つまり、まずは近代憲法というのものについての基本的な理解を持ちながら、ロジカル、かつ、すなおに憲法を読むべきだということです。

 そのために、憲法第1条を、次のようにおき替えてみましょう。

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

 これを、憲法の基本的性格や憲法の規定に沿ってロジカル、かつ、すなおに理解します。

 <X>は、天皇ですが、ここでの問題の焦点であって、差し当たってそれは、一番謎に包まれているので、<X>としました。また、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleからとってきたものです。

 もちろん、これから説明するように、<X>の「正体」はきちんと憲法で規定されています。そのことを、詳しい説明は省きできるだけ結論だけを述べる形にしますが、きちんと議論していきます。

 まずまさに注目すべきは、<X>や<X>の地位(すなわち<X>の本質に関わる事柄)は、他のものに規定される形で表現されている、ということです。つまり、<S>、<P統合>、<Pの総意>が何か決まらないと、<X>の本質は決まらないのです。

 逆に、<S>、<P統合>、<Pの総意>が決まれば、<X>の本質が決まるのです。

 日本国憲法象徴天皇制が、このような基本構造を持っているということは、非常に重要なポイントです。

 では、<S>、<P統合>、<Pの総意>とは何でしょうか。特に限定のない国家一般、国民のまとまり、国民の意志を漠然と指しているのでしょうか。

 もしそうだとすると、私が直前に述べた「<S>、<P統合>、<Pの総意>が決まれば、<X>の本質が決まる」「日本国憲法象徴天皇制が、このような基本構造を持っているということは、非常に重要なポイント」というのは無意味になります。

 私はそうではないと考えます。<S>、<P統合>、<Pの総意>とは何か、という問題に対する答は、憲法の中や憲法というものの性格自体に探すべきであり、そして実際その答えは、憲法の中に、あるいは憲法というものの性格自体の中に、明確にあると考えます。

 まず<S>は、この<新憲法によって規定された新しい国家>のことです。それは、<明治憲法によって規定された大日本帝国という旧い国家>にとって代わるものです。断じて旧国家と新国家双方を含む国家一般ではありません。

 その根拠の第一は、近代憲法の基本的性格、立憲主義的性格にあります。それは、国民と国家の関係の規定することを基本的役割しています。新憲法は、その点で国民主権等、全く新しい国民と国家の関係、新しい国家像を提起、規定したものですから、この憲法が国家像として象徴化すべきは、当然この憲法が示す新しい国家像です。旧国家と新国家双方を含む国家一般を、国家像として象徴化することはあり得ません。

 第二の根拠は、この憲法の中では、統治機構としての日本国家のことを「日本国」あるいは「国」と呼んでいます。他の箇所で用いられている場合のそれらすべてが、この新しい原理によって造られる統治機構としての国家を指すことばとして用いられており、旧国家機構を指すもの、あるいはそれを含んだものとしての使い方は、全くないことです。

 第三の根拠は、<P統合>、<Pの総意>が何を指すのか、という問題への解答との整合性の問題です。

 そこで、<P統合>、<Pの総意>とは何かという問題を議論します。

 先に、<Pの総意>を扱うことにします。

 これは、<X>の地位は、<Pの総意>に基づく、という規定のところに現れてくる言葉です。

 そこで一つの解釈は、ここでいう<Pの総意>は、それ自体としては無意味なものであって、<X>の地位を憲法的レベルで根拠づけるためのテクニカル、アドホックな規定(いわばご都合主義的な、昭和天皇をこの地位につけるという目的が先にあってそれに合わせた)である、というものです。

 もしかしたら、この解釈は歴史的な事実に近いかもしれません。少なくとも、憲法制定当時の天皇側にとっては、この規定がただそのようなものとして受け止められていたかもしれません。

 しかし、最高法規--すなわち最も原理的な規範を示すもの--としての憲法解釈では、それは解釈放棄と同様と言えます。

 結論だけ述べる、と言いつつ、つい横道に逸れました。

 私は、<Pの総意>というのは、<X>の地位に関わる意志を指すが、この意志は、<より広い国民の新憲法制定意志に含まれたもの>である、と考えます。

 この広い意志を、<Pの新憲法制定意志>と呼ぶことにすれば、<Pの総意>は、前者に含まれたものであり、したがってそうした前者の性質によって限定された性格を持つものなのです。

 無規定の漠然とした意志でもないし、ご都合主義的、アドホックな規定として出てくる意志でもありません。

 その根拠は、第一に、憲法前文の内容とその構成のあり方です。

 第二の根拠は、<S>や<P統合>解釈との整合性です。

 これらの2つの根拠については、<P統合>の解釈と合わせて論じたいと思います。

 すでにかなり長くなっているので、それは次回に続けます。