hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 II (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(4))

 前回からの続きです。

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

 <X>は、天皇、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleからとってきたものです。

 

 前回、次の2点を論じました。

 

 ・<S>は、日本国家一般ではなく、<新憲法によって規定された新しい国家>を指すこと

 ・<Pの総意>は、漠然と国民の意志を指すのではなく、<国民の新憲法制定意志に含まれたもの>であること

 

 今回は、

 

・<P統合>は、漠然と国民のまとまりを示すのではなく、<国民の新憲法制定意志の下でのまとまり>を指すこと

 

の議論から始めます。

 この<P統合>についての説明は、どうしても、近代憲法の基本構造、主権在民の基本的理解がないと、日本国憲法の言葉からだけではできない部分ですね。

 私は、憲法を、普通の日本人が普通の日本語として理解するということを大切にしたいと思います。

 が、この言葉<P統合>日本国憲法の中で、重要な部分でいきなり出てきて、そしてこの一回だけで終り、という言葉です。

 なので、この概念についてのヒントを、憲法自体の中にある言葉から探そうとしてもできません。

 ところで、またまた少し横道に逸れますが、前回に持ってくれば良かったと思い出した本、塚田 薫・長峯 信彦による「日本国憲法を口語訳してみたら」というのがあります。

 すてきな本、すてきな試みで私も推薦します。

 ただ、今ここのブローグでやっているように厳密に論点を迫ろうとする上では、むしろ申し訳ないですが、反面教師的なものとして取り上げさせていただくこととなります。

 (この本については、このブローグで、かなり前に憲法前文の理解について同じ主旨で批判的に取り上げたことがあります。)

 

1条 天皇は、日本のシンボルだよ。これは国民がまとまってるってことを示すためのアイコンってうかそんな感じ。

 

---塚田 薫, 長峯 信彦「日本国憲法を口語訳してみたら」

 

 これは、日本語の語感にたよってそのまま訳してみたという結果で、私が最初に否定している解釈の典型になっていますね。

 (いや、私はこういう試みを否定しているのではなく、私が議論しているようなことを踏まえた上で、わかりやすく、親しみやすく本質に迫る一つのアプローチとして展開していくことは、むしろ積極的に推薦したいと思います。)

 この口語解釈だと、<S>は、統治機構としての国家であること、さらにこの国家が新憲法によって規定された国家であることが全然わかりませんね。

 <P統合>も、国民が漠然とまとまっているってことになっていて、新憲法制定意志の下でのまとまりという限定は全く出てきません。

 「主権の存する<Pの総意>に基づく」の部分に至っては、影も形もありません。こんなの、いわなくてもあたりまえじゃん、というわけでしょう。

 うーん。こういう議論の仕方も魅力的ですね。

 私も負けないように、議論を魅力的にわかりやすく述べるように努力します。

 

 そこで横道に逸れたついでに、最初に述べた<P統合>の説明を続けるのを中止して、先に議論の全体像を見れるようにしておきます。

 

・<P>とは、<新憲法制定意志によって結びついた国民>を指す。

・<P統合>は、<<P>のメンバー間の上記意志による強い結びつき>を指す。

・<Pの総意>は、<<P>のメンバー全員の意志>を指す。

 

 

 これは、日本国憲法の言葉使いに忠実に解釈した形ですが、これをヨーロッパ等の憲法や近代憲法の概念に沿って、さらに、日本国憲法の英訳に戻って参照しつつ、日本国憲法の本質をわかりやすく表現して解釈しなおすと、次のようになります。

 

・<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

・<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。

 <統合>という言葉は、上記の一体性を強調する言葉である。

・<Pの総意>は、<Pの意志>と置き換えて良い。 すなわち、<国民の憲法制定意志>そのものを指す。

 

 すると、

 

第1条 <X>は、<新憲法によって規定された新しい国家>の象徴であり<新憲法制定意志によって一体性を持った国民>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<国民の憲法制定意志>に基づく。

となります。 

 こうすると、日本国憲法が持つ憲法としての基本的性格とこの条項自体の内的な構造との間にある論理的整合性がすっきりとしてきます。

 ここで、<国家><国民>という表現が出てきますが、ここではそれぞれが日本国家、日本国民を意味するのですが、そうであるためには、新憲法制定意志の存在が根源的な重要性を持っています。新憲法制定意志が存在するから、日本国民が存在し、日本国家が存在するのです。

 つまり、論理的にすべてに先行する重要な概念は<憲法制定意志>です。

 すると、憲法第1条において、<X>は、新憲法あるいはそれに先行する<憲法制定意志>によってがんじがらめになっていて、もうその外に出ることはできない構造になっていることがわかります。

 先に引用した「口語憲法」は、全く対照的にこういうがんじがらめ構造をなくして、「象徴天皇制=軽いシンボルマーク、アイコン」論でいくやり方ですね。

 いやそうじゃなくて、がんじがらめになっているから、無力化されていて、つまり結果としては軽いシンボルマークのようなものなんだよ、というのが従来の共和制主義派の主張でしょう。

 私も従来そうした解釈をなるほど、と思い納得していましたが、今は疑問に思います。

 何といっても、国家や国民のシンボルというのは政治的な重みを持ちます。政治学において、シンボルは国家や集団の重要な手段とされます。

 ですから、シンボルだから軽いという発想は間違っています。

 憲法の構成上も、あのすばらしい前文に続く冒頭の第1条の持つ意味は、より考えていい問題だと思います。

 ところで、私が述べてきた「<X>(=象徴天皇制)がんじがらめ論」は、「別に新論ではなくて、むしろ憲法解釈の常識のようなことだ」「問題は、だとしても、何故天皇が象徴なんだ、ということなんだ」といわれるかもしれません。

 確かに「何故天皇が象徴なのか」は大問題で、私もその問題に憲法記念日の前にたどり着きたいと思っています。

 しかしそのためにも、まずは「<X>(象徴天皇制)がんじがらめ論」を私なりに、根拠づける作業を続けます--重要だと考えますので--もしかしたら退屈かもしれませんが。

 そこで<P統合>の説明に戻ります。

 また今回は長くなっているので、次回に続けます。