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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 III (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(5))

 

 明日は、有明の防災公園での憲法集会に参加するつもりです。

 それまでに、<X>が何故<天皇>なのか、という大問題に辿り着くことは残念ながら、できそうもなくなりました。

 今日は、それでもできる限り先に進めるように努力します。

 

 今回は、<P統合>(=<国民統合>)の説明から始めます。

 

 前回までに、私の解釈に沿って、憲法の構造を可視化しやすく言い換えると、最終的に次のようになることを述べてきました。

 

第1条 <X>は、<新憲法によって規定された新しい国家>の象徴であり<新憲法制定意志によって一体性を持った国民>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<国民の憲法制定意志>に基づく。

 

 この構造をとらえるために、数学っぽい表現をしてきました。つまり、

 

第1条 <X>は、<S>の象徴であり<P統合>の象徴である。

<X>の地位は、主権の存する<Pの総意>に基づく。

 

(<X>は、天皇、<S>は日本国、<P統合>は日本国民統合、<Pの総意>は日本国民の総意を表します。<S>はstateから、<P>はpeopleの頭文字。)

 さらに、最初の表現を得るための各部分の置き換えは以下の通りでした。

 

・<S>とは、<新憲法によって規定された新しい国家>を指す。

・<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

・<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。

 <統合>という言葉は、上記の一体性を強調する言葉である。

・<Pの総意>は、<Pの意志>と置き換えて良い。 すなわち、<国民の憲法制定意志>そのものを指す。

 

 数学っぽい表現をしたのは、憲法の構造をとらえるためでした。そして、結果として得られた冒頭の形での表現が、この憲法の構造をよく示しているわけですが、実は実際に、この結果を得るための過程において、単純かつ厳密に分析的なアプローチを行うために、数学的な考え方を利用しています。 

 <P統合>の説明を始めます。

 上記で、

<P統合>は単に<P>と置き換えて良い。 

と述べてありますが、同じでないものを勝手に置き換えていいのでしょうか?

 もちろん、いけません。

 では、どうすれば<P統合>を<P>と置き換えることを正当化できるのでしょうか。私は、その論理の道筋は、いくつかあると思います。 

 私は、共和制的な憲法の基本構造や英訳日本憲法の語感にたよることが許されるなら--そして私はそれが許されると考えるのですが--、論理的に単純明快な解釈として、 

<P統合>とは<P統合体>のことである。 

と理解したいと思います。

 そして、さらに

・<P統合体>とは、<P>のことである。何故なら、

・<P>には、もともと、それが「新憲法制定意志」の作用によって生み出された一体性を持った共同体であることが含意されている。

・この含意を明示化した表現として、<P統合体>という言い方が可能である。

・それは、<Pという統合体>という意味と同様である。

・つまり、それは<P>のことである。

 というふうに、主張したいと考えます。 

 上記を、さらにやや詳しく説明します。

 まず、<P>とは何か、が問題です。上記では、 

<P>とは、<新憲法制定意志によって一体性を有する国民>を指す。

 となっていました。

  今、漠然とまとまっている国民を小文字を使って<p>と表します。すると、

<P>とは、<<新憲法制定意志>によって<p>を一体化したもの>を指す。

 となります。

  さらに、 

<新憲法制定意志>を、<W>と書くことにします。

Wは、英語のwillから来ています。

 すると、 

<P>とは、<<W>によって一体化した<p>>を指す。

 となります。

  こうした書き方だと、憲法の中での<国民>が<新憲法制定意志>によって限定されたものであること--漠然と<p>を指すものでないこと--が明確になりますね。

 ただ、それでも<P>には<p>が持っていた性質が残っています。

 しかし、共和制的な憲法における本質的な重要な性質は、<P>の中にある<W>にあります。

 このことは、まずは何となくわかると思います。

 天皇の意志によって臣民とされた大日本帝国憲法下の人々を

<P'>とは、<<W'>によって一体化した<p>>を指す。

 (ここで、<P'>は<大日本帝国憲法下の人々>、<W'>を<天皇の欽定憲法制定意志>を表します。)

 ついでに、

<S'>とは、<<C'>によって規定された<s>>を指す。

 (ここで、<S'>は<大日本帝国>を、<s>は<国家一般>を、<C'>は<大日本帝国憲法>を表します。)

 そうすると、これでも、何となく<W>や<W'>の部分の本質的重要性や<C>や<C'>の部分に、本質的な重要性がわかると思います。

 ここで、本質的重要性と言っているのは、大文字示された<W>や<W'>、あるいは<C>や<C'>が示すこと以外の<p>や<s>の性質が漠然と入り込むのを防ぐ機能を持つような重要性です。

 共和制的な憲法において、<W>の部分や<C>の部分が、このような本質的な重要性を持っていることの理由をきちんと述べると、それは2つあります。

 第1の理由は、そこでは、<W>と<W'>の非連続性、<C>や<C'>の非連続性の明確化が原理的に要請される、本質的な部分となっていることです。

 第2の理由は、第1の理由と密接に関連しますが、共和制的な憲法においては、憲法の解釈は、原則的に、<W>や<C>にのみに基づくものであって、それ以外の<p>の歴史的・地理的・文化的・言語的、等の固有性に基づく解釈は原則的に禁じられているからです。<s>についても、同様で、<s>が本来的に超越的な権威を持った存在とするような観念は拒否されています。

 上記の第2の理由は、規定以外の要素を勝手に持ち込んだ解釈を禁ずる、法律一般が持つ性質と似ていますが、それよりはるかに厳格なものです。

 言い換えると、「<p>という共同体は、<W>や<C>を持つようになると、法的には、<W>や<C>のみによって規定される一体性を持つ共同体である<P>へと変わる」のです。

 説明的要素を省いて、命題ふうに書きますと、

<p>は、<W>や<C>のみによって規定される一体性を持つ<P>へと変わる

となります。

 このようでないと、憲法を規定する意味がなくなってしまうことは、わかっていただけるのではないでしょうか。 

 このことは、立憲主義において、しばしば言われる、「憲法は国家をしばるもの」という問題とも関連します。

 上記で述べた2つの理由は、理論的原理的な前提で、後でまた議論しますが、今はこれを認めて議論を進めます。

 他方、理論のレベルでは、 

<C>は<W>のみによって規定される

 はずです。

 そうすると、先に書いた命題は、理論的に、

<p>は、<W>のみによって規定される一体性を持つ<P>へと変わる

となります。これは、

<P>は、<W>のみによって規定される 

 ということと同等です。もはや、<p>という概念は、いらなくなってしまうのです--<W>の中で、<p>が明示的に言及されていたり、<p>の不可欠性が明確にされていない限り

 

 これまでの説明で、

<P>とは、<<W>によって一体化した<p>>を指す。

 という命題において、何故<一体化>というような表現を用いてきたか、またここで本質的重要性を持つのは、<W>であり、<p>ではない、ということが明らかにされました。

 また<W>の本質的重要性は、<C>にも関わるので、ほとんどすべてに関わる極めて重要なものであることも、わかってきたと思います。

 

 (ここで、もろに数学的表現を使うとどうなるかを、書いていきますが、興味のある方だけ読んでください。そうでない読者は、()内はとばしてください。

 ここでさらに、<<W>によって、<何か>を一体化するということを、

        <W>*<何か>

 と書くことにすると、

<P>=<W>*<p>=f<W>

となります。

 ここで、fは関数を表します。

 <W>*も、<p>の関数の役割を果たしているとみなせます。ところが、こうして得られる<P>は、結局<p>には依存せず、<W>だけの関数だ、というのです。

 

 ここまでの説明で、<P>と<W>の関係について詳しく論じてきました。

 それによって、<P統合(体)>とは<P>のことである、それは「<P>というものが<W>によって作り出された、新たな共同体である」ということを意識化した表現である、ということの根拠を明らかにしてきたつもりです。

 

 あまり抽象的な話ばかりを続けると退屈かもしれませんので、ここで、この極めて重要なものとされた<W>すなわち<新憲法制定意志>が日本国憲法のどこに書いてあるか、という話の方に行きます。

 それは、まさに憲法前文の部分ですね。憲法前文だけなのか、というと実はそうではないのですが、まず憲法前文が、<新憲法制定意志>を生き生きと示したものであることはいうまでもありません。

 そこでは、「われわれ」を主語とした上で、「決意」という直接「意」を用いた表現が2回出てきますが、それ以外も強い意志を表す、力強い表現で満ちあふれています--動詞の部分だけを見ても、「宣言し」「確定する」「信ずる」「誓う」等、です。

 この前文の示す国民の<新憲法制定意志>が、天皇<欽定憲法制定意志>と全く非連続的なものであることは、主語が「われわれ」であるという形式やその内容から明白ですが、この非連続性を、特に明示的に語っている部分があります。

 それは、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」する、という部分です。

 私は、以前、憲法においてあらわれる「歴史的当事者性」というものについて述べたことがあります。

 前文全体が、この「歴史的当事者性」を帯びていますが、特に上記引用部分には国民が歴史的な当事者として得た経験が語られ、それが「再び」起きないようにする、という新しい(戦前と非連続的な)政府をつくる決意、あるいはそのための新しい(戦前と非連続的な)憲法をつくる決意が示されています。

 

 以上、<P統合>の説明を通じて、同時に、憲法第1条全体を、整合的に理解するために重要な要素について、かなりの部分を説明することができました。

 ただ、<新憲法制定意志>とは何であるかについては、より議論する必要があります。それによって、<国民の総意>を<新憲法制定意志>のことである、としたことの理由が明らかになるでしょう。

 <X>が、究極的には、 <新憲法制定意志>によってがんじがらめになっている、という議論は、後一回くらいで、終りにして、何故<X>が天皇なのか、という大問題に挑戦したいと思います。