hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 IV (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(6))

 東京防災公園の憲法集会に参加してきました。山田火砂子監督のスピーチを始めとして、危機感にあふれていました。

 2年前のみなとみらいでの憲法集会では、大江健三郎がたいへんな危機感を持ったスピーチを行なっていたことを思い出します。

 私自身は、2013年末の秘密保護法をきっかけとして、危機感を抱き、ひんぱんな集会参加やこうしたブローグを始めました。

 あれから3年半経ちました。危機感は深まっていますが、であるからこそ、短気をおこしてはいけないと思っています。

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 私は4月28日のブローグで、日本国憲法の解釈は、近代憲法についての基本的理解を持った上で、ロジカル、すなおに読むことが大切である、歴史的な事情や海外の事例に頼るのは、参考程度で良い、と述べました。

 私のこの日本国憲法の解釈の方法について、ここまで書いてきて、改めて述べておくべきと感じた点が2つあります。

 第1点は、「すなおに読む」ということが何なのか、ということであり、第2点は、英訳日本国憲法の位置づけ(英訳日本国憲法理解の重要性)の問題です。両者は関連しています。

 前回まで書いてみて、「近代憲法についての基本的理解」や「ロジカル」なところは、そのとおりかもしれないが、どこが「すなおに読む」ということになっているのか、自問せざるを得なくなりました。

 例えば、前回、「日本国民統合」を「日本国民統合体」と置き換えても良い、と書きましたが、これは「すなおに読み方」というのではなく、「強引な読み方」--我田引水--だと言われてもしかたがないところがある、と気になりました。

 数学っぽい表現をして、一見厳密に議論しているようでも、実はインチキだ、という厳しい批判もあり得ますね。

 また、私は日本国憲法理解において、英訳日本国憲法の理解を助けとする、ということを重要な点において行なっています。

 となると、①公式的には憲法そのものではない英訳日本国憲法が重要なものとして出てきて、②英語ネーティブでない日本人に対し、それを読んで理解することを求める、という2重の意味で、憲法を「すなおに読む」ということから離れているのではないか、といわれてもしかたがないかもしれません。

 むしろ「口語日本国憲法」のようなアプローチこそが、すなおな読み方だろう、という声があって当然ですね。

 そこで、私が「すなおに読む」ということで言いたかったことは何だったのか、私にとって「すなおに読む」とはどういうことなのか、ということを考えてみました。

 結論をいうと、それは、「書き手への信頼と読み手への信頼の緊張的な相互作用としての<読むという作業>」のことです。

 「書き手への信頼」というのは、書いてある内容が正しいとか書き手の人格が正しいということではなく、「その文書の中に書き手の言いたいことがきちんと書かれている、という前提を持つ」(そうして、その文書に対する)ということです。これは、あたりまえのことのように思いますが、ポストモダンの人達は基本的に全く逆の考え方に立っています。

 次に、「読み手への信頼」とは、「基本的な知識は必要ですがそれがあれば、高度な専門知識がなくても、その書き手の言いたいことが理解できる、という前提を持つ」(そうして、その文書に対する)ということです。

 これらの信頼の根底には、「一人一人の人間の思考というものは、一方で個人的・独立的なものあると同時に、他方で、それが共有しようとする知と大きな論理的な流れによって、可能性としても事実としても、互いに結びつけられているのだ」という哲学的な確信があります。

 そうしますと、私のやり方で憲法を読む場合でも、まずは日常用語的な感覚で読むこと--「口語日本国憲法」のような--は否定されないのです。というか、普通はそういう読み方しかありません。

 ただわからない箇所も出てきますが、そこは保留しながら最後まで、あるいは適当と思うところまで読みます。

 何回も読み直したり、解説書を読んだりしますが、それでもすっきりしなければ、わからない時に、書き手が正しい(読み手としての私の頭が悪い)とか書き手が悪い(あるいは、読むということ自体が本来的に読み手の「自由」「恣意的」な読み込みを本質的な要素として持つ)、とか決めつけず、どっちも正しい(どちらも独立的な主体であるが、相互理解が可能である)と考えます--こうすると上記で述べた、書き手と読み手の間に良い意味での緊張関係が生じます。 

 大事そうに見えるが、どうしてもわからない部分は、こだわったままに、つまりこの緊張関係を維持したままにしておきます。

 こだわりながら、考えたり、調べたり、あるいは全く別のことをしたり、休んだりしていると、突然、「あうそうか」とストンと胸に落ちるような正解が浮かんできて、書き手と読み手(私)の緊張関係が氷解します。

 これが、私のいう「すなおに読む」ということです。

 このような意味で、日本国憲法を読む場合に、私は、そこにその作成者の意図がきちんと書かれている、という前提に立ちます。

 そして以上の意味で「すなおに読む」ということを行なう過程で、英訳日本国憲法を理解することの重要性が出てきます。

 私がずっとわからない、とこだわっていたところが、英訳日本国憲法の理解によって、まさに氷解するのです。

 そういうわけで、英訳日本国憲法を取り上げ、その理解の重要性を述べることは、私にとっては、「すなおに読む」ということの重要部分をなしているのです。

 私は、このブローグで以前、そうした立場から憲法前文の英訳を取り上げて論じたことがあります。

  ところが、英訳日本国憲法を取り上げることについては、2つの懸念が存在するように思います。

 第1の懸念は、石原慎太郎のような極右勢力が主張する「憲法押しつけ論」に根拠を与えてしまうのではないか、ということです。

 日本国憲法において、重要部分でわかりにくいことがあるのは、ありていに言ってしまえば、「訳が悪い(訳がむずかしかった)」ということにもあるといえると思います。

 そのことを以て、石原慎太郎は、しばしば憲法を「翻訳調のおかしな日本語でできている」と政治的に攻撃しています。

 このような攻撃は、もともと、憲法の内容をまともに議論する気がなくて言っているのですから、それに対し私達は、日本国憲法が「立派・格調あると同時にわかりやすい日本語で書かれている」ということを、はっきりと自信を持って対することが必要です。

 実際、細部や厳密な議論は別として、その根本的なところは、わかりやすい日本語で書かれています。

 ちょっと、とっつきにくい、というのも正直なところかもしれませんが、そういう場合には、これまでに触れた「口語日本国憲法」を一度読んで、それから正式の日本国憲法を読み直せば、「立派・格調あると同時にわかりやすい日本語で書かれている」ということがよくわかると思います。

 第2の懸念は、最高規範としての憲法の解釈を行なう、という作業において、英訳日本国憲法を持ち込むことがもたらす混乱です。

 先程、「訳が悪い(訳がむずかしかった)」という表現をしました。しかし、これはへんな言い方で、原文は日本語の日本国憲法であって、訳文の方が、英語の英訳日本国憲法です。

 ところがあんまり、英訳日本国憲法の「正しい理解」にこだわっていると、いつの間にか、英訳日本国憲法があたかも公式的な最高規範であるかの錯覚に陥ってしまわないか、という問題です。

 おそらく、そうした混乱を避ける意味でしょう。普通の解説書には、英訳日本国憲法の話は出てこないようです。

 確かに中途半端な形で(その位置づけが明確でない形で)、英訳日本国憲法が取り上げられると、そうした混乱が生ずるでしょう。また、そうした混乱が、先に触れた石原慎太郎のような政治的攻撃に結びついて利用される可能性も否定できません。

 しかし、英訳日本国憲法は、GHQ日本国憲法の原案の書き手として関わった人々の意図や言葉づかいが、ほぼ再現されていると考えられるものであり、彼らのいいたかったこと(立法者意志)が何であったのか、ということを理解する上で、その理解は必要不可欠な作業です。

 そして、それが日本国憲法の理解・解釈を深めるものとなること--私の述べた「すなおな読み方」の一部をなすこと--は明らかだと思います。

 私が、歴史的事情に頼るのは参考に止めろ、と言っているのは、歴史的事情を理解することの重要性を否定する意味ではなく、あくまで日本国憲法そのもの、その文章そのものが最高規範性を有しているという意味、そのことを忘れてはならないという意味です。

 

 ところで、今日の新聞(東京2017.05.04)で、1946年の議会における憲法第9条の第一項の戦争放棄の条項の条項の審議において、原案がただ「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と述べられていたのに対し、その頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」を加えることになったことが解説されていました。

 それは、社会党議員が「ただ戦争をしない、軍備を皆棄てるということはちょっと泣き言のような消極的な印象を与えるから、まず平和を愛好するのだと宣言する」ために、「日本国は平和を愛好し、国際信義を重んずることを国是とし」という文を加えることを提案したことがきっかけとなった、ということです。

 私は、先に「日本国憲法は歴史的芸術のようなものだ」と述べました。

 この第9条の原案にこうした修正が加えられていく経緯は、まさに憲法が持つその芸術性を体現していると思います--本質と細部の不可欠・見事な統合性が感じられるのです。

 そしてこうした芸術性は、上記で述べたような英訳日本国憲法を参照することに関わる懸念を吹き飛ばしてくれると思います。