hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 VI (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(8))

 前回の続きです。

 日本国憲法における<国民><国家>という問題を、英訳と関わらせて理解しようとする時、議論していた方がよい問題として、<nation>という言葉の問題があります。

 nationという言葉は、国民と訳されたり、国家と訳されたりします。何故でしょうか。どちらが「正しい」のでしょうか。

 実は、この問題に入りだすのは泥沼に入ることだ、という気持ちもあり、訳の問題として軽く扱ってすませるつもりでした。

 多くの方がご存じのように、nationをめぐっては、日本だけでも一定水準の論文が1000以上、世界中では、10000を超える論文があると考えて良いくらいの大問題です。

  素人がわかったような口ぶりでブローグに書くようなことではない、と言えます。

 いや、逆に素人だからこそブローグで口を挟むことのできる重要テーマと考えることもできるでしょう。

 ともかく私は、最低限、軽くでも触れておかないと、英訳日本国憲法の話ができないと思って、nationというテーマを取り上げることにしたのです。

 ところが、いやな予感が的中して、私を待っていたのは泥沼でした。書き直したり、調べ直したり、この泥沼から這い上がるのには苦労しました。

 私を助けてくれたのは、以下のような歴史構造主義的アプローチです。

 私としては、ずいぶんとスッキリしたのですが、本当に這い上がりに成功したかどうかは、読者の判断に仰ぐところです。

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 先に、近代国家の時代になると、<the state>と<the people>は、「一対一対応」の関係になることを述べました。

 この「一対一対応」は、それまでの両者の関係からいうと、特別なもので、私はそれを近代国家における<the state>と<the people>の「固有統合性」と呼びたいと思います。

 つまり近代国家は、固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<geographical space>>によって統合されています。

 普通、この固有の<<geographical space>>は、国名によって示されるような地理的空間に対応しています。

 何故、「固有」というか、例えば日本国は、<<他ならぬ日本の人々>>が、それにふさわしい<<他ならぬ(ある日本人)統治者(達)>>によって<<他ならぬ日本という地理的空間>>において統合(統治)される、という関係を意味するからです。

 何かあたりまえのように見えますが、ヨーロッパの近代国家までの歴史を考えれば、これが重大な歴史的画期を示していることが、見えてくると思います。

 近代国家以前の<state>は、しばしば異なった言語や文化を持つ<the people>の複数を統治していました。

 確かに、近代国家以前から、<the people>とその生活空間としての<geographical space>は、固有な一体性の関係を持っていました。

 ただ近代国家以前では、そのような<the people>とその生活空間<geographical space>の固有一体性を持つセットは、<the state>から見れば、自らとの固有な一体性を持つものではなく、<the state>にとって、切り離し可能な財産のようなもの--私有財産とはかなり異なりますが--とされたのでした。

 つまり、そうしたセットは、<state>内の構成員間で、あるいは他の<state>との間で、交換、贈与、戦争による略奪の対象とされるものだったのです。

  日本の場合も同じです。つまり、日本の徳川将軍が、各藩の藩主に、彼の考えで分割した土地(それとセットの農民)を、一種の財産(封建的な権利であって、私有財産とは異なりますが)のようなものとして分け与えたのです。

 このようなセットが、<state>にとって、財産的なものとして機能したのは、<state>と<the people>の関係が固有性を持っていないからで、<the people>は、どの<state>の下にあっても、いうことをきく--容易に統治される--存在とされていたからです。

 あるいは、むしろ<state>の本質は、どのような<the people>=<geographical space>セットが与えられても、それを統治できる統治力(そのような意味で「権威」という概念が重要性を持った)にあった、と言うことができます。

 ですから、近代国家が、固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<geographical space>>によって統合されたものとして生まれたのは歴史的事件だったのです。

 そしてそれは、絶対主義国家によって始まりました。

 以上の歴史構造主義的アプローチ的な枠組みによりながら、私がしようとしていることは、<the nation> がこの近代国家形成の重要な概念--モデル的概念--として登場してくることを説明することです。

 私がモデル的概念と呼んでいるのは、それがこの固有統合を促進しようとする概念として用いられたということです。

 絶対主義国家に始まる近代国家の事実としての固有統合性は、徐々に形成され、確固たるものになっていきますが、それを意識させ、モデル的な形で把握させた重要な契機が、共和制的(在民主権)国家の成立を告げたフランス革命です。

 興味深いことに、フランス革命において、こうした固有統合のモデルとして選ばれた言葉は、新しく成立する共和的国家の創造主たるべき<<フランス人民>>に対応するものでしたが、それは、<<the people>>ではなくて、<<the nation>>が採用されたのでした。

 nationというのは、ある地域に生まれた人々のことをいうわけですから、peopleと基本的には同じものということができるでしょう。

 そして、両者とも冠詞のtheをつけた時に、ある一定の地域に住んでいること、生まれたことによってまとまった人々を意味します。

 したがって、フランス革命のような時代・文脈において、<<the people>>や、<<the nation>>が、<<the French people>>や、<<the French nation>>を意味するもの、ただ形容詞のFrenchを省略するものとして用いられることは、それも普通で、本来的には、両者はやはりほとんど同等のものといっても良いのではないか、と思います。

 ところが、フランス革命において、<<the nation>>が特別な意味、固有統合を促進するモデル的な意味を込めた言葉として登場するのです。

 有名なフランス人権宣言を、「グーグル翻訳」を使って英訳してみます。

 (「グーグル翻訳」って、すごい、便利ですね)

 まず、フランス人権宣言の冒頭を、英語にすると、

The represtentaives of the French people ...... have resolved......

と始まっています。

 ここでのpeopleに対応するフランス語原文の単語は、peupleです。

 ついでですが、これは、英訳日本国憲法前文の冒頭に、

 We, the japanese people ...., acting through...... representatives....,

...... resolved

 とあったのを想起させますね。

 これらのpeopleは、私がいう固有統合性を帯びていることは明らかで、いずれも<<the people>>と表せるものです。

 つまりフランス人権宣言でも、まずは、<<the people>>というタイプの表現が、私がこれまで議論してきたような重要な政治的意味合いを持って現れてきます。

 ところが、フランス人権宣言を先に進んで行きますと、その主権を規定している極めて重要な部分が出てきますが、そこは、英語で表現するとすると、次のようになっているのです。

 

 The principle of all sovereignty lies essentially in the Nation.

 

 英語のnationは、原語のフランス語でも同じくnationです。

 このthe Nationは、何なのでしょうか。

 the peopleと置き換えてみても、意味的には何の変わりもないように見えます。そうすれば、英訳日本国憲法による主権在民の表現の用法に一致します。

 ですから、何か、不必要な新しい言葉(概念)を持ち込んだようにも見えます。

 いいえ、人権宣言の制定者達によって--それは不必要どころか、主権という極めて大切なものの担い手として--まさに新しい特別なニュアンスを込めた言葉として採用されたに違いないでしょう。

 その証拠に、Nationと大文字のNが採用されています。この大文字には、モデル的な意味が込められています。

 スローガン的に

The Nation!

と呼びかければ、

我々、一つになったフランス生まれの人々よ!

というようなニュアンスではないでしょうか。

 しかし、ここでの問題は、同じことはthe peopleでもできるはずではないか?

 何故、the nationが選ばれたのか?ということです。

 試しに、the peopleについて同じことをやってみましょう。peopleを書くときに、大文字でthe Peopleと書くことにします。

 そして、あの人権宣言の主権在民を宣言しているところで、 

 The principle of all sovereignty lies essentially in the People.

とすると、十分に、特別感が同じように出てきます。

 あるいは、

The People!

と呼びかけて、

我々、一つになったフランスの人々よ!

というようなニュアンスを込めることは、ほとんど同じように可能だったと思われます。

 では何故、nationが選ばれたのでしょうか。

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 大事なところで途中になりますが、今日はちょっと疲れてきたことと、これから、国会議員会館前の総がかり実行委員会主催の集会に行く予定もあるので、明日に続けます。