hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 VII (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(9))

 訳の問題と関わって、the Nationという言葉が、フランス革命において、スローガン的な言い方、特殊な意味合いを持って登場したことを、何故だろう?という問題提起をしました。

 その解答は、近代国家--固有の<<the state>>と固有の<<the people>>と固有の<<the geographical space>>の統合体--の固有統合性の存在を前提とし、その固有統合性を、どのように表現するか、という問題の中にあります。

 まず、このような歴史構造主義的アプローチの枠組みを設定すると、重要な問題として、このような固有統合体を明示的に表す言葉を、私達が社会科学の分野においてすら持っていないことに気づかされます。

 私は、そのようなものとして、<<近代国家固有統合体>>という言葉を用いることとし、それを記号的に<<the stat・the peo・the geo>>と表すことにします。

 私達は普通、国家あるいは近代国家という時に、<<the state>>の部分を限定的に指している時と、このような統合体としての全体を指している時との双方があり、そのどちらであるかは、文脈によって、ほとんど困難なく使い分けています。

 しかし、厳密・分析的な用語として、<<近代国家固有統合体>>というものを設定すると、先に設定した問題とその答えが整理されてくるのです。

 まず、ちょっとしたコメントですが、この概念を設定すると、冒頭4行目の「その解答は、近代国家--・・・・」と書いた部分は、厳密には、「その解答は、近代国家固有統合体--・・・・」と書くべきであったことがわかります。(この種の分析的な用語設定によって、常に生ずることですね。)

 さて、フランス人権宣言の中で、冒頭ではthe peopleが主語として登場していながら、先に進むと、極めて重要な条項である第3条において、sovereigntyの所有者(主)としては、the Nationが登場しました。

 これらsovereigntyとthe Nationは、先の固有統合体の枠組みの中で何を意味しているのでしょうか。そして、この第3条は、全体として何を意味しているのでしょうか。

 この枠組みの中での図式化された結論を先に書いておきます。

 一般に、近代国家の時代の近代国家固有統合体では、次が成立します。

  <<sovereignty>>=<<the stat>>

       <<the nation>>   =<<the peo・the geo>>

    <<sovereignty>>+<<the nation>>=<<the stat・the peo・the geo>>

 何か、当たり前のことをもっともらしく、記号化しただけのように見えますね。でも、説明を聞くと少し違ってくると思いますので待ってください。

 ここでもう一つ記号的表現として、大文字を利用します。

 そうしますと、絶対主義君主国家固有統合体と共和主義的国家固有統合体は、それぞれ、つぎのように表現できます。

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

       =Absolute Monarcy<<the stat・the peo・the geo>>

 <<sovereignty>>+<<the Nation>>

        =Republic <<the stat・the peo・the geo>>

 こうすると、ますます問題が整理されてきますが、あまりにきれに整理されすぎて、歴史のような複雑な問題を扱うのに、何かインチキ臭い匂いがしてきます。

 そこで、インチキついでに、少し俗で、もしかしたら性差別的だとかいわれるかもしれない説明を最初にさせてください。ひとえに、わかりやすさのためと思ってください。

 まず、<<sovereignty>>+<<the nation>>は、それぞれが「運命の意図(糸)」で結ばれるべきことを想定した二つの要素の結婚の様なものです。この結婚によってできているのが、近代国家固有統合体です。

 ここで、<<sovereignty>>を男性、<<the nation>>を女性として、比喩的説明を続けることとします。

 ここで蛇足的で、どうでもいいこととも言えますが、俗な説明なりにその一貫性を保つために付け加えておきますと、前者を男性としてイメージするのは、君主が男性であることが多く、まずはそれが統治のイメージに繋がってきたことからです。

 他方、後者が何故女性なのか。フランス革命の中でも「自由の女神」がnationのシンボルとされたこと(自由の女神」は、さらに15世紀のフランスとイギリスの戦闘においてフランス救国の英雄女性とされたジャンヌ・ダルクをシンボライズしたと言われます)、そしてそれが、さらに共和主義的な諸国全体の中にまで広がった、ということがあります。

 ここで、男性主導の結婚と女性主導の結婚を、それぞれ次のように表現します。

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

 <<sovereignty>>+<<the Nation>>

 つまり、それぞれが、絶対主義君主国家固有統合体、共和主義的国家固有統合体を表しています。

 これらにおいて、大文字化によって、どのようなことが改めて含意させられているかは次の通りです。

 まず、記号的に表現すると、

 <<Sovereignty>>=Absolute Monarcy <<the stat>>

    <<the Nation>>   =Republic <<the peo・the geo>>

です。

 

 <<sovereignty>>はもともと<<the nation>>との固有統合を前提としたものであり、その意味で、<<sovereignty>>は<<the nation>>をも含意してます。しかし、この大文字化は何を意味しているのでしょうか。

 それは<<Sovereignty>>には、上記の小文字の<<sovereignty>>に加え、さらに、<<sovereignty>>の固有の所有者としての固有の絶対君主の存在を含意しています。それが、上記の記号表現でも示されています。

 ここでの方法論的にいうと、大文字化には、関心の焦点を、一般的なものから、具体化された、歴史的により限定された場合に絞っていることが意味されています。

 それは、必ずしも歴史に登場する当事者としての主体の関心・意識と一致していませんが、密接な関連を持ちます。

 実際、<<Sovereignty>>は、絶対主義君主国家がほとんどを占めた時代においては、それは、大文字で示されることも少なくなかった、近代国家固有統合体を表すものであり、かつ、それは絶対主義君主によって最終的にシンボライズされたのです。

 普通日本語で訳されると、sovereigntyは主権と訳されます。ある土地とその住民に対する最上級の統治権というような意味で、またこの訳には、その主権を持つものが近代国家のようなものである、ということが何となく含意されています。

 こうした問題を考えるたびにいつも思うのですが、こうした訳語というものを作り出した人達のすばらしい原語概念の把握能力とそのためのたいへんな勉強ぶり、そして適切な訳語捻出の工夫には、どうしてこんなことが可能であったのだろうとたいへん感心させられてしまいます。

 ただここでsovereigntyという英語に注目すると、固有の絶対君主が固有の土地とその上の住民に対する固有の最上級の統治者として現れてきた歴史が含意されていることがより明確です。

 いうまでもなくreignという動詞は、君主が統治することを意味します。しかし、sovereignty--最上級の統治権--という概念は、近代国家固有統合体の誕生・成長とともに必要なものとなりました。

  近代国家固有統合体としての絶対主義君主国家の形成とは、絶対君主が、その統治対象としての領土・領民におよぶ権力を独占していく過程を意味するものでした。すなわちそれは、絶対君主が、その外部にあっては、その上方にあったローマカトリック教会の権力を排除し、その内部にあっては、横や下方にあった国内の教会勢力や封建諸侯・様々な自治団体等の並行的権力や独立性を持っていた中間的権力を無効化・奪取していく過程です。

 sovereigntyという概念は、そのような権力を表現・正当化し、またそれが発揮される過程を通じてより強固となった概念です。

 以上の説明で、sovereigntyが、国内的に集権的で、対外的には排他的な統治権力--つまり<the state>と<the people>との一対一対応の関係を保証する権力--であることがわかると思います。

 しかし、ここでまず重要なのは、sovereigntyというのは、単に、「何らかの<the people>と<the geographical space>のセットに対する排他的な支配権」--つまり、歴史的な結果として得られた、上記で述べた一対一対応という形式的・外面的な関係のみに着目した概念--を意味するのでなく、このような歴史的な過程を含意していること--つまり常に、すでに近代国家固有統合体の固有統合性を含意する<<sovereignty>> でなければならない、<<  >>を外したsovereigntyは存在しない--ということです。

 それは、武力を含めた力による統合過程を含んでいますが、短期的な統治力・支配力ではなく、歴史的な過程を含めた安定的なものであり、理念的には未来にも投影される恒久的なものです。

 つまりこの歴史的過程において、固有の<<sovereignty>>が「固有の<<the people>>と<<the geographical space>>の固有なセット」を作り出します。そこでは、この固有なセット同士での間の境界が重要な意味を持ち、長期的に動かしがたい安定的なものでなければなりません。

 このような境界を示す、あるいはそれに関わるのが、国境と国籍基準です。

 これらの境界によって区切られた、「固有の<<the people>>と<<the geographical space>>のセットは、固有の<<sovereignty>>に対応することによって、長期的に安定的な、時間的同一性(アイデンティティ)を持つ存在としての近代国家固有統合体となるのです。

 このような<<sovereignty>>概念の必要性、必然性は、以上のような近代国家固有統合体形成のいわば内的な特性だけから来ているわけではありません。

 実は、詳論は避けますが、近代国家固有統合体形成には、それと同時に誕生してきた国際システムとしての「近代国家固有統合体国際システム」という、いわば環境的な要因が重要な要素として働いています。

 この近代国家固有統合体国際システム」は、そのシステムに参加するメンバーとしての君主が<<sovereignty>>所有者であること、メンバー相互が他者をそれぞれの<<sovereignty>>所有者として認め合うことを本質的な要件としていました。

 つまり、<<sovereignty>>という概念は、①ヨーロッパの国際的な相互認知の必要という近代国家固有統合体にとっての環境的条件と②対外的に排他的で国内的に集権的な権力の必要という近代国家固有統合体とにとっての主体的条件、という2つの歴史的必要条件に対応したものであって、それは、近代国家固有統合体と当初より深く結びついた概念です。

 例えば、尖閣諸島の主権が中国に属するか日本に属するのか、という時、それが単なる地理的空間の支配権の--たんに統治の現状だけで決定されたり、一時的な力による支配だけで決定される--問題としてではなく、まずは「その地理空間がどのような歴史的経緯で、どの主権に属するのが、『そもそも、本来的に』適切と判断されてきたのか、一定期間以上統治してきたのはどの国か」というような問題設定がされるのは、主権概念に以上のような近代国家固有統合体の形成のあり方が投影されたもの、そうした歴史的な経緯を含めて理解されるべきものとされているからです。

 「運命の意図(糸)」による結婚の話から、かなり離れて長話となりました。

 この長話で言いたかったことは、まずは、小文字のsovereigntyは、その生まれからしてすでに、<<sovereignty>>として、<<  >>を身につけていたということです。

 私は、ここで結婚の話に戻って、この近代国家固有統合体の最初の形態である絶対主義君主国家固有統合体の<<sovereignty>>は、さらに最初から大文字の

 <<Sovereignty>>=Absolute Monarcy <<the stat>>

という性格を持っていたこと、比喩的に言えばマッチョの男性・・と書きかけたのですが、--これは冗談で、たまに冗談をいうと滑ります--すでに、定義として書いておいた、君主その人を含意していた、ということを付け加える必要があります。

 以上で、私が先に、

 <<Sovereignty>>+<<the nation>>

が、君主主導の結婚を意味している、と比喩的に述べたことの中身がわかっていただけたと思います。

 「運命の意図(糸)」で結ばれた、という比喩はどうでしょうか。このことについては、<<the nation>>主導の結婚の場合と合わせて、論じることにします。

 

 こうした議論をあまりするつもりはなかったのですが、書きながら、日本国憲法象徴天皇制の議論をきちんとやる上では、むしろ、こうした議論が必要、あるいは有用であるだろう、と考えるに至りました。

 次回に続けます。