hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「連想」「共鳴」「豊穰」--フランス革命と私達

 前回、英訳日本国憲法にある the unity of the peopleの話をして、それがフランス革命と繋がるということに触れました。

 後でこれがあった方がいいと、気づいて、次のポスターを入れて修正しておきました。

 

f:id:hajimetenoblogid:20170517095907p:plain

 

 これは、フランス革命時(1793年)のポスターで、「分割不可能な共和国の統一unity・自由・平等・博愛よ、永遠なれ!」と呼びかけています。

 憲法、社会科学的な分析、歴史構造主義とかいう話は、それだけでは面白くないかもしれないですね。

 しかし、このポスターを見ると、フランス革命のこの時期に、何故冒頭に「共和国の統一性unityおよび分割不可能性indivisibility」と掲げられているのか、といった問題意識を持つことができますし、私がやってきた議論が、憲法そのものや憲法の理解とぴったりと繋がっているのがわかりますね。

 また、ポスターだけ見ても、それはそれで面白いでしょうが、歴史や社会科学の知識があると、なるほど、と感慨深いところがあるのではないでしょうか。

 理想的な憲法教育として、こういうポスターも合わせて行なわれれば、その時代で憲法に関わるような様々なことがらの持った意味が、理屈っぽい話ばかりより実感的に伝わってくるでしょう。

 しかしさらに豊かな教育は、こうしたことが、現在の社会の中でどのような意味を持つのかを実感していくようにすることです。

 デモや集会への参加は、それ自体が政治的な意味を持つのはもちろんですが、憲法や社会科学理解を実感的な支えを持って、促進してくれます。

 フランス革命やこのポスターから、憲法教育のことだけでなく、いろんな事が、頭に浮かんできました。

 今回、フランス革命のことを少し考えたり、文献を読んだりしながら、日本国憲法や世界の憲法がそれぞれ、社会における、そして世界における互いの「共鳴音」のような広がり、つながりを持っていると感じました。

 私は、メキシコの教育を勉強しているので、メキシコの憲法を読む機会があります。

 日本ではあまり知られていませんが、その1917年憲法は、世界で一番早くに、労働者の権利を規定し、社会権を規定してものとされていて、現在もそれが基本となったままの憲法です。

 その現在の第2条は、次のように規定しています。

La Nación Mexicana es única e indivisible.

メキシコ国民は、統一されていて、分割不可能である。

 これって、議論してきたフランス革命そのままじゃないですか。

 もう一つ、行きましょう。

 

1.(Mex) National sovereignty resides essentially and originally in the people

2.(Frn) The principle of all sovereignty lies essentially in the Nation.

3.(Jpn) sovereign power resides with the people

  

 1は、メキシコ憲法第39条、2は、フランス人権宣言第3条、3は、日本国憲法前文でした。

 これらの条文の作成過程で、直接的な影響関係があったかは疑問ですが、憲法や国家といったものが共通の枠組みの中におかれていることは明らかで、そうした枠組みがお互いに何らかの形での影響のし合いから形成されていることも疑いないでしょう。

 私の昔の音楽の先生は「デジタルより、アナログ録音の方がはるかに豊かな音だ」とおっしゃっていました。

 何故でしょうか。当時はあまり意識していませんでしたが、今は、こんな風に理解しています。

 --それは、デジタル録音は、雑音だけでなく、共鳴音をカットしてしまうからだ。

 共鳴音というのは、2つの弦があると、一つを鳴らすともう一つも鳴り出す、と言うやつです。

 まずは、同じ音の高さで共鳴しやすいのですが、互いに倍音(振動数が倍の音)同士でも共鳴現象が起きます。

 今、共鳴盤と呼ぶ、どのような音に対しても共鳴出来る装置を用意します。そうすると、一つの弦を鳴らしますと、共鳴盤は共鳴して、その弦の出した同じ高さの音だけでなく、すべての上下の倍音を出すことになります。

 もちろん、共鳴盤の出す音は、弦が鳴らした音を一番強く出すように共鳴し、最初の倍音は弱くなり、次の倍音はもっと弱くなり・・・、という風に共鳴していきますから、弦があるメロディを奏でれば、そのメロディがちゃんと聞こえます。

 ピアノやバイオリンには、共鳴板や共鳴箱(バイオリンの胴体)がついていますが、それは、弾かれたメロディの音を拡大するだけではなく、このような無限の共鳴音をも一緒に作り出しています。

 隣接する倍音同士は、基本的に親和的なハーモニーを作りますが、2つの音が離れてくると、非親和的な不協和な音となって来ます。

 しかし、この共鳴音全体が、ピアノやバイオリンの豊かな音を作り出しています。

 他方、例えば、電子ピアノは共鳴板がなく、純粋にメロディ音だけが電気的に拡大される仕組みとなっています。

 音に深さがなくて、特に低い音は、体を揺さぶるような共鳴板の振動感が得られませんので、もの足りない感じとなります。

  というようなことと同時に、フランス革命で思い出したのが、ディドロという哲学者のことです。

 彼は、『ダランベールの夢』という著書の中で、「どのようにして、人間の思考が、あることがらを念じて、今度はそれを対象とすることが可能になるのか?」という問題を立てています。

 そして、その答えを、唯物論的な立場から、人間の思考が、この共鳴現象のような仕組みでなされている、と論じています。

 つまり、一つのことを考えるとそれだけに留まらずに、関連する様々なことが同時に浮かんでくるようにできているのだ、と言うのです。

 今風に--つまりデジタルに--言うと、コンピューターのメモリのようなものですね。これがないと、計算(あるものに対する操作)が不可能で、一歩も前に進めなくなります。

 人間の記憶力が減退しますと、経験の深さがなくなっていきます。

 極端になってきますと、昨日のことも今朝のことも忘れるようになって、経験は非常に浅い、薄いものとなり、そうなってくると、次の一歩も踏み出せないようなことになります。

 歳をとって、立ち上がって隣の部屋まで行ったけど、あれっ、何をしにきたんだっけ、とわからなくなってしまうというのがありますね。それがメモリーが機能しなくなってきている、そういう状態です。

 しかし人間の記憶、思考で言うと、メモリーというよりも、やはりディドロのいう共鳴の方がぴったり来ますね。

 そこで、「共鳴力」というものを考えたらどうでしょうか。 

 「記憶力」と言うと、ただあることがらを覚えているかどうかに焦点をあてることになって、試験のことを思い浮かべたりします。

 しかし、ここではそういうものではなく、記憶力や思考力として、私達の経験に深さや幅を与えて豊かにしてくれるもの、したがってそういう形で生活を豊かにしてくれるもの、そういう能力を考えたいですね。

 単に記憶が持続するだけでなく、主要なことがらを強めて留めながら、さらにそれを基にして、関連する色んなことに関心が向いたり、それを考えたりする能力です。

 似たようなものとして、「共感」と言うのがあります。ただ「共感力」というと、感情のレベルのことで、論理とか何らかの感情の中身についての構造のようなものがないですね。それから、へたすると何でも共感しなくてはいけないかのような、倫理的な語感があります。

 これに対して、「共鳴力」は、外からやってきた思考や記憶を、「倍音」の単位のような役割を果たす多様な論理によって整理すると同時に、それらによって元の思考や記憶を大きく豊かなものにして返していく主体をイメージさせます。

 私達の運動、教育、生活、思想がそういうもの--共鳴体--になっていくといいですね。

 そうすると、先に見てきたような、世界の憲法にあるうれしい「共鳴音」を「共鳴音」として見つけることができて、お互いにもっと豊かにしながら、世界中に鳴り響かせていくことができるようになるでしょう。