hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「気分はもう戦前?」--三浦瑠麗氏の議論批判III--「どっちもどっち論」から核武装論へ

 前回の「三浦瑠麗氏の議論批判II」のサブタイトルに、「--民主主義・平和運動の成果の『盗人達』」というサブタイトルを加えました。

 これはどういう意味だろう、と疑問を持った方もいらっしゃるでしょう。

 民主主義・平和運動の成果の「盗人達」とは、世界の人々の民主主義・平和のための努力の成果を、自分の都合の良い時には、あたかも自分の手柄・所有物のように振る舞い、実際にはそれを悪用しながら、打ち壊していく連中のことです。

 三浦氏の共謀罪法をめぐる論法は、日本国憲法を根幹とする法体系・制度、民主主義・平和運動の成果としての民主主義的環境の存在を「根拠」として利用することによって、共謀罪法が治安維持法との類似性を持つということ--共謀罪法の推進者すら認める--を否定するものでした。

 日本国憲法等の法体系・制度は、世界の民主主義・平和のための努力の成果を引き継ぐものです。

 ですから、三浦氏の論法は、まさに「民主主義・平和運動の成果の『盗人』」と呼ぶべきものといえましょう。

 共謀罪に限らず、氏の議論の基本的な論法・思想は、この「盗人」的なものと言わざるを得ません。

 私が、前回のブローグをアップしたのが8月19日です。そこで私は、三浦氏に質問したいとして、

 アメリカのシャーロッツヴィルにおいて、KKK等の白人至上主義の運動がそれを批判する一人の市民を殺すという事態、さらにそれをトランプ大統領が擁護するという事態が生じています。

 三浦氏の基準では、アメリカは「成熟した」民主政治の社会に分類されるように思いますが、そこで、「容認されるはずがない」ことが起きているのではないですか? 

 と書きました。

 三浦氏は、自身の8月22日のブローグで「シャーロッツビルの悲劇」という記事をアップしています。

 私は、三浦氏が私のブローグを読んでいるとは思いません。

 しかし、「容認されるはずがない」ことが起きているということについて、自分自身の意識の中で無視することができなかったのでしょう。

 では、三浦氏はそのブローグで、シャーロッツビルの事件をどのようにとらえているのでしょうか。 

 この記事についての内容に則しての批判は機会を改めるとして、私は、そこでも三浦氏の論法は「盗人」的であると思います。

 三浦氏は、アメリカの人民が人種差別をなくすために闘って得てきた成果を最大限に利用しながら、逆に、人々が持とうとするトランプ(政権)の危険性・有害性の認識、警戒心を最小限のものにしようとしているのです。

 何故三浦氏は、このような「盗人」的な議論の仕方をするのでしょうか?

 その理由を端的に言うと、氏が「ニホン、スゴイ」教の信者の一人だからだと思います。

 このことは、次回に、三浦氏の議論をただ氏の議論の問題としてでなく、それを、ファシズム状況全体の中、ファシズムを支える諸勢力とそのイデオロギーという中に位置づけてとらえる作業を行なう事によって、明らかにしていく予定です。

 今回は、東京新聞2017/08/12で示された三浦氏の議論に対する批判シリーズの続きとして、その憲法論の部分に限って、批判を加えます。

 三浦氏は次のように言っています。

 「戦前回帰?」の議論は元をたどれば改憲論議。現在の憲法改正を巡る議論は、護憲派改憲派ともに不十分な点が多い。

 まず護憲派。悲惨な敗戦と、あまりに大きな犠牲を払った総力戦への反省に立脚する平和主義は、一国だけのものですか、と問いたい。日本が戦争をしないことにしか関心がない考え方は、世界に向かって普遍的に説明できるものではありません。志が低い。矮小化された平和主義が、すでに国民の過半数の支持を得られなくなっている。それが今の状況でしょう。

 改憲派は、一九四七年に連合国軍総司令部(GHQ)に押しつけられた憲法を否定し、少しでも変えることに固執していますが、こちらも小さい。安倍晋三首相は五月、憲法九条に三項を加える「自衛隊の明文化」を提案しました。連立相手の公明党への配慮だと思います。でも、それでは本質的な矛盾は解決しない。私は「戦力不保持」を定めた二項を削除すべきだと考えています。

 改憲の議論を見ても、国家観、歴史観を持ち、理念を掲げられる日本人が育たなくなっていることが分かる。残念なことです。

 台湾の李登輝・元総統を見てください。困難な状況下で骨太の政治理念を養い、民主化を主導した名指導者ですが、彼を育てたのは戦間期第一次世界大戦と第二次大戦の間)の日本であり、戦後の日本ではないのです。(聞き手・中野祐紀)

  三浦氏の憲法論の議論は、東京新聞の側で設定した「今の社会に、戦前のかおりがしないか」(「戦前回帰?」)という問題への氏による「否」回答を「補強する」という性格を持っています。

 ただ、ここでも相変わらず、氏の議論の仕方は、設定された問題をまじめに議論するのではなく、勝手に設定を変えた上で、いわば言い放題をしているという体のものです。

 三浦氏は、「『戦前回帰?』の議論は元をたどれば改憲論議。」というのですが、そうであるならば、安倍政権の中枢、それを支える人々の改憲論が、「戦前回帰」の性格を持っているかどうかを論ずるのが、三浦氏に課せられた仕事でしょう。

 ところがそれをせずに、求められてもいない自分の改憲論を、妙に上から目線で開陳しています。

 安倍首相を始めとして、その閣僚において、彼らの政治的価値観が「戦前回帰」の性格を持っていることは、彼らの圧倒的多数が、「神道政治連盟」や「日本会議」という「戦前回帰」を目指す運動体の参加者であることから明らかです。

 f:id:hajimetenoblogid:20170904211127p:plain

f:id:hajimetenoblogid:20170904211428p:plain

  2016年8月8日

 

 例えば、ジャーナリストの武冨薫氏は、 

 神道政治連盟(神政連)は全国約8万社の神社を傘下に置く包括宗教法人神社本庁」を母体とする団体。同連盟のウェブサイトには、〈誇りの持てる新憲法の制定〉、〈靖国の英霊に対する国家儀礼の確立〉などの取り組みが掲げられ、天皇男系維持、女性宮家創設反対、東京裁判の否定、夫婦別姓反対などの主張を展開している。思想的に安倍政権と親和性が高い。

  それもそのはずで、安倍首相は若手議員時代から神政連に賛同する議員団体・神道議連の事務局長などを歴任し、現在は自ら会長を務めている。毎年、都内のホテルで開かれる総会にもほとんど出席してきた。まさに首相が手塩にかけて拡大してきた議連であり、いまや自民党を中心に301人の国会議員が参加する政界の一大勢力となっている。

 と書いています。

 この事実は、一般のマスメディアではきちんと報道されてこなかったために、必ずしも国民一般に認識されていない、しかし重要なことです。

 政治研究者や政治評論家が、この事実を無視したり、ことさらこの事実の影響力を小さいものと言い立てるとしたら、(仮にそう言い立てる人が「権威」があったり、メディア受けしている人であっても)素朴にまゆつばものとしてとらえて、その人の議論を冷静、批判的に検討する必要があるでしょう。

 三浦氏は、護憲派は「志が低く」、改憲派も(志が)「小さい」、「ともに不十分」と言います。

 つまり、「どっちもどっちだ」と言っているのです。そして、「私は『戦力不保持』を定めた二項を削除すべきだと考えています」と宣言します。

 三浦氏は、憲法から「戦力不保持」を削除した上で、さらに別の論文で、核攻撃能力を持つべきだと主張しています。

 三浦氏は、憲法をめぐる重要な対立点について、「どっちもどっちだ」として、自分の主張(--核武装論--)を、それらを「超えた」高見に立つもののように提示します。

 私は、氏の政治的主張の是非は別として、その論建てのいい加減さに、研究者としての不誠実を感じます。

 ここでも、三浦氏は、「存在しない敵をつくりあげてそれを論破する」に準ずる、研究者にふさわしくない議論のやり方を採用しています。

 つまり、改憲派の志を勝手に「小さい」ものとした上で、自分の「大きな志」を語ります。

 しかしそれは、全く事実と異なります。改憲派の先鋭的な主張(小池百合子稲田朋美)が核武装論であることは、政治の常識でしょう。

 また自民党政府が、1960年代後半以降、佐藤栄作首相の下で核武装の潜在能力を維持する政策にこだわり実行、維持してきたことは明らかですが、さらにその前の(安倍首相の祖父である)岸信介首相も、核武装の願望を強く持っていました

 つまり、現在の安倍首相の憲法9条に、第3項を加えるという提案は、志が「小さい」からはではなく、三浦氏と同じく、9条第2項の削除や核武装を願望しているものの、ただ、それを実現するための現実的なステップとして、まずは第3項を加える道を選んだに過ぎません。

 何故、三浦氏はこのように非論理的、自分勝手な議論をするのでしょうか。

 それもまた、先に述べた「盗人」的な「作法」と同じく、氏が「ニホン、スゴイ」教の信者だからです。 言い方を換えると、三浦氏自身が「気分はもう戦前」という舞台で一翼(右翼)を担う登場人物、役者の一人だからです。

 次回は、「戦前回帰」の本質が「国家主義」であることを明らかにし、「国家主義」、ファシズム、三浦氏の「ニホン、スゴイ」教の関連を論じます。