hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

すばらしい映画「ペンタゴンペーパーズ」--三浦氏の議論批判番外編1

 LITERAが鋭い論評を続けています。その一つに、三浦氏のことを扱った「森友文書改ざん問題を彷彿と話題の映画『ペンタゴン・ペーパーズ』!三浦瑠麗はまたトンチンカンコメント」というものがあります。

 これに触発されて、今回は予定を変えることにします。

  三浦氏はこの映画について、次のようなコメントを行なっています。

 痛恨の判断ミスを隠すエリート。追及する正義のメディア。その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか。

 LITERA編集部は、「三浦先生、インタビューを受けたりコメントを出す前にちゃんと映画を観ているのだろうか。映画関係者もまともな映画で三浦先生にコメントを求めるのはそろそろ止めたほうがいいのではないか」と書いていますが、私も同感です。

 三浦氏のこの非常に短いコメントにも(いや、短いコメントだからこそますます)、氏の権力追従の価値観や真面目な人を惑わす詐術的なテクニークが如実に現れてしまっています。

 この映画を理解するためには、①「この映画の登場人物達によって展開されるストーリーのレベル」と②「ストーリー展開を枠づけると同時に支えている、背景的な社会的・政治的問題の構図」の双方をとらえる必要があるでしょう。

 映画作品に対するコメントとして、当然①のレベルのコメントが必須のように思いますが、氏の場合それはなく、②にあたる「問題の構図」のみが語られます。つまり、氏はこの映画の構図を、「A.痛恨の判断ミスを隠すエリート」「B.追及する正義のメディア」の対立のようにコメントします。

 私は、この氏による構図把握を読むと、ピタッ、と来ない感じ、斜めに引っ張られているような、氏の文章に惹起されるいつもの妙に感覚にとらわれます。

 この構図把握の不適さについては、後で議論しますが、しかし、氏によって続けられる「C.その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」の部分には、また別の意味で変な気分がしてきます。この変な気分の正体は何だろうか、と考えてみますと、2つの理由(原因)がわかってきます。

 第1は、私が氏の主張に賛成していないからですが、第2は、氏の主張の表現方法が詐術的でフェアでないからです。

 氏の主張が何であるか、考えてみましょう。

 C.は、反語的表現であるとしか読めませんから、三浦氏は、端的に「この映画は現在的な意味を持たない」と結論づけているわけです。氏のこの結論は、この映画にとって重要です。何故なら、氏のコメントは「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」と言っているに等しい、と私は判断するからです。

 「そんなことはどこにも書いていない」「そんなのはお前の勝手な判断だろう」と言われるかもしれません。そうです、書いていないけれど、実質的にそういう主張をしているところが、詐術的でフェアでない、と私は感ずるのです。

 ある作品についてのコメントとは、その作品の重要な要素についての評価を行なうものです。ですから、氏のコメントはまず、映画「ペンタゴンペーパーズ」がその重要な要素として「現在的な意味」を提起しようとしているものであることを、氏自身が認めていることを、実は含意しているのです。その上で、氏が「この作品に読み取った基本構図が、現在的な意味を持たない」、というのですから、氏は「この作品が意図した問題提起は失敗している」と言っているのです。ですからやはり、氏の主張は、「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」というものだと理解するのが順当です。

 では、何故氏は、そのように率直、直截に自らの主張を表現しないのでしょうか。そのような率直さがあれば、「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページの管理者は、「この映画は観るに値しない」と言っている氏のコメントを掲載しなかったでしょう。しかし、氏のように、「C.その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」と反語的表現を用いると、公式ホームページの管理者の判断は微妙になります。直感的には、氏のコメントを受け取った時に、妙な感じがあったと思いますが、私のように、時間をかけて論理的に、氏のコメントが「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」と言っているに等しい、とまで分析しないでしょう。そこで、まあいいだろう、ということで採用、掲載となったのではないでしょうか。

 私は、このように、読者(ホームページの管理者)に対し、その主張の本質的な理解(論理的に導かれる理解)と異なる理解をもたらしたり、思考停止をもたらしたりすることを通じて、本来の理解から導かれるべき判断・行動とは異なった判断・行動をもたらすように意識的にとられる表現方法を「詐術的」と呼びます。

 また、通常「詐術的」表現は、「そんなことは書かれていない」「私はそうとは書いていない」というような言い訳ができるようなものとなっています。しかし、私は論理的な文章を書くことが期待されている者に求められるフェアネス(公正さ)という点で、それはフェアでない、と考えます。

 以上、三浦氏の主張の表現方法が、詐術的でフェアネスが欠如していることを批判をしてきましたが、次回以降に、氏の主張そのもの――「この映画は失敗作だ」「この映画は観るに値しない」――に対する批判を行ないます。その作業は、「ペンタゴンペーパーズ」のすばらしさを多くの読者に味わって欲しいという願いを込めた、私自身のコメントをも述べながら、行なうことにしたいと思います。