hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

すばらしい映画「ペンタゴンペーパーズ」--三浦氏の議論批判番外編2

 三浦氏は映画「ペンタゴンペーパーズ」を、次のようにコメントしていました。

 

痛恨の判断ミスを隠すエリート。追及する正義のメディア。その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか。

 

 前回は、これが意味することろ(氏の主張)は、「この映画の構図は、現在的意味を持たない」「この映画は観るに値しない」というものである、ということを明らかにしました。そして、まず、氏がこの主張を行なうために使った表現方法を、詐術的でフェアでないという批判を行ないました。

 今回は、氏の主張自体についての批判を行ないます。

 しかし、前回から始めたこの「三浦氏の議論批判番外編」シリーズの目的は、三浦氏の議論への批判と並んで、映画「ペンタゴンペーパーズ」を、上質のエンターテイメントとして多くの人に堪能してほしい、それに貢献したい、ということにありますので、そうした立場からの私なりの映画評を書きながら、氏への批判作業を進めていきたいと思います。

 さて、三浦氏によるこの映画の構図把握は、「国家」対「メディア」というようにまとめられると思いますが、私は、「α.国家」-「β.メディア」という把握は不十分で、さらにそれに「γ.国民」という要素を重要なものとして加えておく必要があると考えます。正確に言い直しますと、「α.国家」対「γ.国民」という基本構図がまずあり、さらにこの基本構図において重要な位置を占める「β.メディア」という構成要素の存在がある、と考えます。

 こうした構図把握を前提として、この作品のストーリー展開を味わうために、この作品の原題が、「The Post」であることをたびたび想い起こすことが役立つでしょう。 

 「The Post」とは、何でしょうか?

 もちろん、それは、新聞紙(あるいは新聞社)「The Washington Post」で、それを略記したものでもあります。この意味では固有名詞です。ストーリー展開との関連を言えば、そのストーリー展開の焦点がこの新聞社の人々の言動にあることを意味しています。

 しかし私は、この「The Post」には、それ以外の3つの意味を見出すことができると考えています。

 postという単語は、一般的な名詞である「地位(組織における位置)」を意味しており、さらにそこには、そうした「地位」に伴う「役割」というようなものも含意されています。(私は、この映画を日本語字幕で観たのですが、英語の会話ではpositionという単語も数回聞こえてきましたが、これも同じような意味で重要性を持って出てきたように思います。)

 では、ではこのような「地位」という意味での「The Post」は何を指しているのでしょうか?「The」という冠詞によってどのような限定を与えているのでしょうか?

 それは、第1に、「新聞The Washington Postの社主としての地位」です。第2に、「民主主義社会において重要な役割を果たすべくものとして存在するPress(新聞や言論)の地位(役割)」を指しています。そして最後に、第3の「民主主義社会における根本的な主体としての市民の地位(役割)」があります。

 ストーリー展開上では、これらのポストを担う、魅力的・個性的な登場人物(達)がいます。

 まずは、この作品の中で最も濃密な形で焦点化されているのが、キャサリン・グラハムです。彼女は、亡き夫から「The Washington Postの社主としての地位」を受け継いだ人物ですが、お飾り的な存在から、その社主としての自覚を持って行く過程が描かれます。これは、上記の第1の意味の「The Post」に対応します。

 と同時に、その過程においてさらに重要なクリティカルなポイントが現れます。彼女が「Press(新聞や言論)の地位」を自覚し、その責任(役割)の実践を決断する時です。つまり、彼女は、社内的なpostの担い手としての自覚から、さらに、言論を担う者としての社会的なpostにあるものとしての自覚へと成長(決断)していくわけです。この社会的なpostは、上記の第2の意味の「The Post」です。

 映画を観るとすぐ分かることですが、この第2の意味の「The Post」を担うのは彼女一人だけではありません。あるいは、仮に、この第2の意味の「The Post」を担う者を一人だけ挙げよ、ということになれば、ワシントンポスト編集主幹のpostにあるベン・ブラッドリーこそがその役にあるる者として選ばれるでしょう。

 しかしこのことは、この映画においてブラッドリーが一人「正義」を叫ぶような人物と登場する、ということではありません。そうではなく、彼やグラハム、そしてこの二人のやりとりに焦点を当てながら、さらにそれを取り巻くプレスに携わる人々の行動にもカメラは回り、国家による反逆罪という重い脅しに抗して、社会の中のプレスとしての役割(post)を共有するようになっていく過程が、緊迫感を持ちながら丁寧に描き出されるのです。

 それは、この映画のストーリーの中心部分をなしていますが、それはまた、プレスの「正義」が最初から確固とあるものとしてではではなく、人々の決断によって確かな姿を現してくる、というこの映画のメッセージでもあるでしょう。

 本当は、上記で述べたことを、作品に即してもう少し議論したいのですが、ネタばれになるとまずいので、「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページの説明を引用しておきましょう。

 ペンタゴン・ペーパーズに関するこの騒動は、ある新聞社が良心的な行動を取ったという単純な話には収まらない。それは、脅威にひるむことなく、多くの新聞社や記者たちが団結し真実を語ることで生まれた偉大な力についての物語である。

http://pentagonpapers-movie.jp/production_note/1.html

 

 本作ではペンタゴン・ペーパーズの掲載を巡る戦いにおける緊張感であふれているが、1人1人よりも団結した時の方がより力を発揮できるというパートナーシップについても丁寧に描かれている。ストーリーの中心にあるのは、性格が全く異なりながらも、お互いに刺激し合うことで最大の力を引き出していくキャサリン・グラハムとベン・ブラッドリーの存在だ。

http://pentagonpapers-movie.jp/production_note/3.html

 

 「ペンタゴンペーパーズ」の公式ホームページのコメントのページを見ると、誰もがこのメッセージを正面から受け止めています。誰もが、現在の問題、自分達の問題であると理解しているのです――三浦瑠璃氏を除いては。

 私は、前回、氏による「その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」というコメントについて、変な気分がしてくる、と書きました。そしてその理由(原因)として、「第1は、私が氏の主張に賛成していないから」「第2は、氏の主張の表現方法が詐術的でフェアでないから」と述べ、第2の理由(原因)について説明しました。

 今回のこれまでの私の議論で、この第1の「私が氏の主張と真逆の立場にある(氏以外のコメンテーターと同じ立場にある)」ことの説明は、すでになされていると考えます。

 ただ、何でそれが「変な気分になること」につながるかは、まだ説明が必要でしょう。単に、意見が反対であるだけで、「変な気分」にはならないからです。「変な気分」の原因は、この映画が現在的な意味を持つことがあまりにも明白、誰の目にとっても明白なことであるのに、もっともらしく「その構図は私たちの時代にまだ生きているだろうか」と否定を語ることが--詐術的でアンフェアな表現を利用したにしても--どうして可能なのだろうか、という私にとってとても理解しがたい事態がここにあることから来ています。

 最近の福田財務省次官のセクハラ犯罪をめぐって、録音音声という証拠が提出されているにも関わらず、「魔女狩りはやめろ」という次官擁護のツウィートをする三浦氏に、真実をよりどころに言論者は団結しよう、ということはもとより期待してはいけないことなのでしょう。

 

 次回、この映画がフェミニズムの文脈でどうとらえられるのか、といった論点も交えながら、キャサリン・グラハムのpostに少し立ち戻り、続いて、第3の意味の「The Post」について論じていきたいと思います。