hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

祝 韓国・北朝鮮共同宣言(板門店宣言)成立・公表――日本のメディア批判

「韓国・北朝鮮共同宣言(板門店宣言)」を心から歓迎、お祝いします。

 

 「ペンタゴンペーパーズ」でメディアの役割について書いていたところで、日本の新聞を見ていてがまんできなくなりました。

 

 私自身のこのテーマに関する基本的立場は、「世に倦む日々」氏がツイッターやブローグで書いてきていることに、賛同するものです。氏による国際関係理解、その中でこの宣言の位置づけ、等については、是非、氏のツイッター・ブローグをご覧ください。

 

 本来、日本のメディアがなすべきことは、この「板門店宣言」を、第2次世界大戦後の世界史的な文脈に位置づけることによって、その現在的な意味を、より正確に深さを持ってとらえて(したがってそれが、日本の平和、東アジアの平和にとって持つ重要な意義をとえらて)報道することであり、そしてそれに対する歓迎の態度を明確に示すことです。それが、新聞の第1面に、すべての読者(中学生くらいの年齢以上)に分かりやすく、読みやすく、配置、書かれていなければなりません。その上で、他面も用いて、詳報や詳しい解説が加えられてしかるべきでしょう。

 しかし、例えば、東京新聞を見てみましょう。28日および29日の朝刊では、多くの面をこの問題に費やしていますが、この大事なことが一切書かれていません。

 それどころか、この日本の平和に直結するすばらしい国際的事件に対して、猜疑心を振りまいています。

 2018/04/28朝刊では、<「完全な非核化」明記>という見出しの下に、<具体化「米朝」持ち越し>いう見出しが添えられ、ページを改めると、大きく<会談 正恩氏ペース>とあり、<非核化 道は示さず><拉致問題の記述なし>と続きます。<北、今回は本気の可能性>と専門家によるコメントもありますが、それも含めて、基調は警戒心の維持にあります。

 一連の経緯を考えますと、極めて重要性を持つ、米国による明確かつ公的な肯定的評価に対してもまた、<米、期待と警戒交錯、声明「歴史的」と評価><非核化まで「最大の圧力」>と警戒や圧力が忘れずに並べられます。<正恩氏、実利と融和使い分け、駆け引き 巧妙な印象>と大見出しのページもあります。

 <中国「祝賀と歓迎」><「前向きなニュース」ロシアも評価>(さらに翌日2018/04/29朝刊では、<南北会議「歓迎」議長が声明発表。ASEAN首脳会議>)という記事がありますが、それらは小さすぎますし、その意味づけが読者にわかるようにはなっていません。先程の米国の肯定的評価と合わせれば、明らかにもう後退はあり得ない、ということであり、そのことを明確に読者に伝えるべきなのです。

 この日の朝刊において、この件を扱った最後のページでは、<正恩氏「民族の団結」繰り返す>という見出しの記事が含まれています。これは、「民族の団結」という言葉が日本や国際舞台において敵役とされている正恩氏の口から出されていることを強調するものであって、それによって、韓国・北朝鮮の融和や統一に対する敵愾心や警戒心を喚起し、板門店宣言に対する否定的気分や猜疑心をもたらそうとするものです。

 翌日、29日の朝刊を見ますと、先にも書きましたように、もう後退はあり得ない、ということを記者達もうすうすと感じ、認めざるを得ない、形勢になってきています。<北も「完全な非核化」報道、米朝会談へ本気度示す>という見出しの記事があります。<本気度>という言葉づかいは、微妙に、北朝鮮の報道がパフォーマンスであるような印象を与えるもの、それが本当に<本気>であるかどうかについて、記事を書いた記者自身が明確な評価を避けようとしたものです。私は、これは<本気度>ではなく、文字通り<本気>を表すものと書くべきだと思います。いずれにせよ、もう後退はあり得ない、ということは明らかになりつつあるのです。

 ところが、相変わらずそれをはっきりと書かずに、「核心」というこの新聞常設の解説用のページでは、<「非核化」思惑が交錯><日米、期限示さない北牽制><中ロ、北の「後ろ楯」対話主導狙う>と勝手に論点を「交錯」させて、読者にもやもやとした気分を強いています。           

 小さい記事ですが、<ノーベル平和賞予想 南北首脳が1番人気>とあります。それは、「『板門店宣言』を通じて、平和への道が大きく前進する」「それを歓迎する」という世界の多数派の常識を反映したものであり、この記事の掲載を決めたデスクは、この常識を、ささやかな形ながら、自分の気持ちに従って認めざるを得なかったのでしょう。

 今回は、最後に、東京新聞の「筆洗」(28日)の批判を行なって締めておきます。

 メディアの役割をメディア自身がどのように自覚、実践しているか、ということを見るための一つの重要なメルクマールとして、メディア自身の主張を表明している社説やそのメディア自身の記者が書くコラムのようなものに注目することができるでしょう。「筆洗」は、後者といえます。

 私が冒頭で述べた、世界史的な位置づけ、日本やアジアにとっての意義の明確化、歓迎の態度のはっきりとした表明、といったジャーナリズムのあるべき基準から見ると、28日の東京新聞の社説も「筆洗」も、完全に失格です。

 まず、「筆洗」を見ましょう。

2018年4⽉28⽇

 ⽌まった時計というものがある。・・・⼀九五三年に休戦協定が結ばれてから六⼗年以上、板⾨店も時が⽌まったような空間ではなかったか。軍事境界線は南北各⼆キロに地雷が多数埋まった恐怖の世界でもある。・・・軍事境界線の縁⽯を北朝鮮の⾦正恩朝鮮労働党委員⻑は、簡単に越えた▼うれしそうに、韓国の⽂在寅⼤統領と⼿をつないで⾏き来するのを⾒て、針が動き始めたように思えた。・・・<本当の和解とは、ただ過去を忘れ去ることではない>。ネルソン・マンデラ⽒の⾔葉だ。両⾸脳は笑顔を浮かべ続けたが、真の和解も、⻑く困難な道だろう▼そして、⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う。

 

  私は、「筆洗」の筆者の平和を願う気持ちがよく表れた名文だ、という気にはとてもなりません。「他人事」感に満ち々た「論評」で、「切実感の欠如」が全体を支配しています。とても、Jアラートが鳴り響き、学校の子供達が避難訓練を強制させられた国のそれとは思えません。

 この文章では、「時計」や時の停止・始動によって、戦争の危機状態の維持から平和への流れの転換が象徴的に表現されているのですが、この文章がもたらす「他人事」感や「切実感の欠如」は、この転換をもたらす主体が明確化されていないこと、そして、日本や「筆洗」の筆者もまたこの転換に関わる主体であることも明確化されていないことからきています。

 つまり、この文章では、あたかも一時停止していた動画が、何らかの理由でまた動き始めたので、登場人物が動き出した、そして、「筆洗」の筆者をただそれを見ているというような印象を与える書き方がなされています。

 最後の文は、「⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う」と述べていますが、この文もまた、同様に、停止した拉致問題に関わる動画が、何らかのきっかけで、再生を始めて欲しい、と、「切」なる願望の表明をしているだけです。我が事としての本当の切実感があるならば、録画された登場人物ではなく、現実の主体が、時を動かしていくことを明確にした表現が必然的になされたでしょう。

 もしかしたら、あるいは、「筆洗」の筆者は暗黙的に、「⾦正恩と⽂在寅が歴史の主体として、時を動かし、時計を動かしたのだ」と言っている、というのも可能かもしれません。そうすると、「そして、⽌まった拉致問題の時も、先に進むことを切に願う」という文も、「拉致問題解決のしかるべき主体が、解決の過程へ時を動かさなければならない」と暗黙的に主張している、ということになるでしょう。

 しかし、今、メディアに求められているのは、「暗黙的」な何か微細な読取を要求する文章ではなく、明確なメッセージだと思います。

 例えば、この文章の大部分を維持しながらも、最後の部分を次のようにすれば、明確なメッセージということができたでしょう。

・・・両⾸脳は笑顔を浮かべ続けたが、真の和解も、⻑く困難な道だろう。しかし、二人は「板門店宣言」によって「時計」の針を動かした。▼筆者は、『板門店宣言』を心から歓迎する。そして、⽌まった拉致問題の時も、しかるべき首脳達の対話を通じて、先に進めることを切に願う。

 こうすれば、目の前で動いている事態における主体の存在、「筆洗」氏の主体的関わりが明らかになります。

 ところで、読者の皆さんは、この歴史における「主体」の欠如は、あの三浦瑠璃氏に特徴的なものであったことに、すでに気づかれているでしょう。残念ながら、ここにも三浦氏の亡霊が現れたようです。

 

 次回に、同じく28日の東京新聞の社説を取り上げ、批判します。