hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

祝 「板門店会談・宣言」――非常識な日本のメディア・東京新聞社説批判1

 前回に続けて、日本のメディア批判を行ないます。この批判作業では、4月28日の東京新聞社説が主な対象となります。

 「板門店宣言」が4月27日発表されて以降、事態は急速に進展しており、米朝会談がシンガポールで6月12日に行なわれることが発表されています。

 私達は、これまでの動き、今後の動きをどのように理解したらいいのでしょうか?

 私は、「板門店会談・宣言」の意義をきちんと理解することが、この疑問に答える道だと思います。

 私は、前回、「本来、日本のメディアがなすべきことは、この「板門店宣言」を、第2次世界大戦後の世界史的な文脈に位置づけることによって、その現在的な意味を、より正確に深さを持ってとらえて(したがってそれが、日本の平和、東アジアの平和にとって持つ重要な意義をとえらて)報道することであり、そしてそれに対する歓迎の態度を明確に示すことです」と述べました。

 いや、「世界史的な文脈に位置づける」というような大仰なことを言わなくても、常識でわかることがあると思いますが、そのレベルにも達していません。

 数少ない、事実に基づくキチンとした常識的な議論の一つである田岡俊次氏(軍事ジャーナリスト)の論考北朝鮮「完全」非核化を求める強硬論が危険な理由」(Diamond Online、5月10日付け)は、その最初の節「戦争回避に動いた南北の指導者の外交手腕は評価されるべき」で次のように述べています。

 

・・・ 4月27日の板門店での南北首脳会談で和解に達したことに対し、日本の右派のメディア、論客たちは「韓国の文在寅大統領は北朝鮮に融和的だ。金正恩労働党委員長に操られている」と批判する。

 だが、もし米国が北朝鮮を攻撃し、朝鮮戦争が再発、核戦争になれば南北両方が存亡の危機に直面するところだったから双方の指導者が戦争を防ぐために必死に協力したのは当然だ。

 そのおかげで日本も少なくとも当面、戦火に巻き込まれることを避けられた。

 もちろん文在寅、金正恩両氏は共に自国の安全、存立のために努力したのであり、日本のために尽力したわけではないが、その2人の外交手腕は高く評価すべきだ。

 もしどちらかが強硬論一本槍の馬鹿だったら、日本も危ないところだった。

 

  氏の議論を否定できるでしょうか?私は、氏のいうとおりだと思います。

 氏がいうように、2人の外交手腕によって日本の危機も回避されたということを認めるなら――私はそれが常識的判断だと思います――2人による外交の成果としての「板門店会談・宣言」の成功・発表を、我が事として喜び、祝うのが極当然、自然のことでしょう。

 ところが、です。氏の議論は右派に対するものとしてなされていますが、これから見ていくように、「板門店会談・宣言」に批判的ないし冷淡なのは、右派だけに限定されません。

 日本のメディアは、驚くほど「板門店会談・宣言」に対して冷淡でした。この宣言が出された翌日の朝日新聞の社説では、

 

 文氏は今秋、平壌を訪問することが明記された。南北のトップ同士が意思疎通を深めることは望ましく、偶発事故の未然防止にもつながるだろう。

 一方で宣言の他の中身は、07年の前回に出た南北共同宣言から大きな進展はなかった。

 

と述べていますし、同じく毎日新聞の社説は、

 

 最大の課題だった北朝鮮の核・ミサイル問題よりも、南北の融和を優先させた印象は否めない。それでも、ようやく芽生えた非核化の流れを決して止めてはならない。 

 今回の会談は、6月までに行われる米朝首脳会談を前にした「橋渡し」との位置付けだった。金委員長には、北朝鮮の外交や軍の責任者が随行していた。核問題で思い切った決断がなされるとの期待感があった。

 しかし、発表された「板門店宣言」では「完全な非核化により、核のない朝鮮半島を実現するとの共通の目標を確認した」との表現にとどまった。会談後の共同発表で、金委員長は「我々の民族の新しい未来」などと南北関係改善を強調するだけで、核問題に触れなかった。

 

といった調子です。

 これから、詳しく見ていく、東京新聞の社説は一番まともといえるかもしれませんが、不思議なことに、明確に書かれるべきことが、暗黙的でわかりにくい形で書かれています。

 今求められているのは、しっかりした視点の提示、明確なメッセージの表明だというのに、です。

 まず、「社説」全文を下記にコピーしておきます。[A][B]・・・、 (dec1)・・・、(com1)・・・、等は、私がコメントするために付加したものです。

 

東京新聞【社説】

南北首脳会談 非核化宣言を行動へ

2018年4月28日

 

[A]

 十年半ぶりに開かれた南北首脳会談で、焦点となっていた核問題は、「完全な非核化」で双方が合意し、宣言文に盛り込まれた。次は実行に移す段階だ。

[B]

 昨年北朝鮮は、ミサイルの発射実験を十五回繰り返した。「水爆実験」と称する六回目の核実験まで強行した。

 米国との軍事衝突の危険性がささやかれ、不安が高まった。

◆想像できない接近

 ところが今年一月一日になって金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長が新年の辞を発表し、一転して韓国で開かれる平昌冬季五輪への協力を表明し、一気に動きだした。

 これほど南北の距離が縮まり、首脳会談、そして共同記者会見まで行われるとは、誰も想像できなかったに違いない。

 まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

 韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

[C]

 その上で、首脳会談後に発表された「板門店宣言」を見ると、不十分な点もある。

 会談の最大の焦点だった「非核化」については、「完全な非核化を通じ、核のない朝鮮半島を実現するという共通の目標を確認した」という表現になった。

 韓国は、これまで正恩氏が間接的に表明してきた「核放棄」の意思について、「完全な非核化」という表現で、宣言文に盛り込むことを目指していた。

 そして、六月初旬までの開催で調整中の、米朝首脳会談につなげる考えだった。

 北朝鮮側は、韓国側を含めた「朝鮮半島の非核化」を主張しており、将来的な在韓米軍の縮小、撤退を念頭に置いているようだ。

 正恩氏は共同記者会見で、「過去に結ばれた南北の宣言についての徹底した履行」を求めた。

◆非核化で食い違い

 これは一九九一年十二月に韓国との間で合意、発表した「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」を指すとみられる。そうなら、北朝鮮は自国だけの非核化を、拒否しているとも受け取れる。

 核問題について北朝鮮は今月二十日、朝鮮労働党中央委員会総会を開き、核実験や、大陸間弾道ミサイルICBM)発射実験の中止と、北東部・豊渓里(プンゲリ)核実験場の廃棄を決定した。

 この決定には、核放棄をうかがわせる表現がなく、逆に「核保有国宣言であり、核は放棄しない」と受け取る見方もある。

 宣言は、南北の食い違いを残したまま意見を折衷した。それでも正恩氏の非核化への意思を、文書化できたことは価値がある。

[D]

 合意文を土台に、北朝鮮はできるだけ早く、核施設の公開、査察の受け入れといった具体的行動に進むべきだ。実行がなく理念ばかりなら、米朝首脳会談は不調に終わってしまう。

[E]

 (dec1)さらに発表文には、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)について、区切りをつける「終戦宣言」が盛り込まれた。

 (com1)朝鮮戦争は休戦中であり、法的には戦争が継続している。

 (dec2)南北は「いかなる武力もお互いに使わない」とし、平和的な共存を宣言した。(com2)北朝鮮は体制の存続に安心感を抱き、核放棄へ踏みだしやすくなるだろう。

 (com3)朝鮮半島の緊張状態を根本的に解消するには、朝鮮戦争の正式な終結が欠かせない。

 (com4)今後、南北朝鮮、米中の関係国首脳が集まり、この宣言を再確認したうえで、休戦協定を平和協定へと早急に切り替えるべきだ。

 (dec3)この他、南北首脳会談の定例化に合意した。(com5)秋には文氏が、平壌ピョンヤン)を訪問するという。

 (com6)過去の南北首脳会談は、一時的な和解ムードの盛り上げには成功したが、韓国側の政権交代や、軍事的な摩擦によって、関係がたちまち冷却化した。

 (com7)その反省を生かしながら、今後も、密接な意思疎通を欠かさないでほしい。

[F]

 朝鮮戦争後に「国境」として設置されたのが「非武装地帯(DMZ)」だ。

 その中にある板門店(パンムンジョム)の軍事境界線を午前九時半、正恩氏が徒歩で越え、文氏と握手した。

 ◆壁がなくなる期待

 板門店は、朝鮮半島の希望と悲劇の縮図だった。鉄条網なしで南北が接触する場所として設けられ、多彩な交流が実現した。一方で、乱闘、銃撃、地雷の爆発が起き、多くの人命が失われている。

 二人はその後、高さ五センチ、幅五十センチのコンクリート製境界線をまたぎ、今度は北朝鮮側に立った。

 わずか十秒の出来事だったが、南北の壁が取り払われる予感を感じた人も多かったに違いない。世界は歴史の瞬間を目撃した。裏切らないでほしい。 

 

 ざっと読みくだして、どうでしょうか?私は何かスッキリしません。

 この東京新聞の「社説」は、随所で倒置法的な構成手法が用いられ、また、小見出しが置かれていますが、その前に、すでにその小見出しで扱われる事柄のイントロ的な書き出しがなされている等、非常に読みにくいものです。

 しかし、スッキリしない気分にさせるのは、そうした理由による読みにくさだけに起因するものではありません。

 スッキリしない気分にさせる要因はいくつかあると思います。第1の要因は、今起きている事態をとらえる視点、評価する基準を、<北朝鮮の非核化>ということのみに狭窄化させているからです。

 第2の要因は、日本あるいは新聞社としての主体的な姿勢、判断をできるかぎり避けようとする心理が働いていることです。

 これらの要因は、東京新聞社説以外にも共通するものです。

 そして東京新聞の場合、第3の要因として、先に述べた様に、明確に書かれるべき大切な部分が、常に暗黙的でわかりにくい形で書かれている――すでにわかっている人にだけわかるように書かれている――ことを挙げることができます。

 何故そんなことが起きているのでしょうか?東京新聞の場合、「板門店会談・宣言」の重要性の認識もあるけれど、他のメディアと同様、第1、第2の理由(視点、評価基準、心理)による制約が強く働いていることによって、「板門店会談・宣言」の重要性、その肯定的意義の認識を、すなおに表すことができなくなっているように思えます。

 まず、この東京新聞の「社説」が、韓国と北朝鮮の両首脳による「板門店会談・宣言」に対し、決して、明確な直接的な肯定的評価を与えようとしていないことを確認しましょう。

 [B]では、南北会談に至る経緯、両国首脳の会談開催に至る行動についての評価が述べられています。

 北朝鮮の核開発が進み、米国との軍事衝突の不安が高まったこと、南北首脳「板門店会談」によって、急な両国の接近があり、両国の対話が始まったこと、が述べられています。そして、「社説」は、「まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。」「韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。」と述べており、両国首脳の「努力」と「決断」を肯定的に評価しています。

 これは、先に見た田岡氏の「2人の外交手腕を評価する」と同じことを述べている、といるように見えます。

 しかし、田岡氏の議論と東京新聞の「社説」とは、ずいぶん違った印象を受けます。どこが違うのでしょうか?

 田岡氏は、米朝の軍事的緊張の高まりが日本を巻き込み甚大な被害をもたらし得るものであることを明確に語り、文氏と正恩氏の会談(非軍事的・非強硬的な対話的アプローチ)によって、この危機が回避されたことを明確に語っています。また、2人の外交的手腕の評価を讃えることと、その2人の手腕による成果としての「会談・宣言」を肯定的に評価することを、すなおに、一つのこととして理解できる書き方がなされています。

 ところが、「社説」では、「衝突の危険」がもたらす「不安」について書いてありますが、誰のどのような不安なのか書いてありません。また、「社説」では、両国の「接近」が書かれており、「接近」の事実として、会談がなされ、共同会見までなされた、ことを述べていますが、それら「接近」が軍事的圧力や制裁による強硬的アプローチに対するものとしての対話的アプローチであること、そうした対話的アプローチが「衝突の危険」を回避するものであったこと、したがってまた「不安」を解消させるものであったことが明記されていません。

 また、「一転して」「一気に動き出した」とか「想像できない」接近といった表層的な表現の付加は、接近の本質(対話的アプローチ)、接近の効果(軍事的衝突の回避)といった大切なことから、注意を逸らせる役割を果たしています。

 このような流れの中で、[B]の最後に、

 

 まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

・・・会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

 

とありますが、これらの2つの文は、あくまで「文大統領の努力」を「高く称賛」したもの、正恩氏の「決断」を「評価」したものであって、それらの「努力」「決断」の成果としての「板門店会談・宣言」を「高く称賛」するものにならないように配置されています。

 ちなみに、私が言いたいこと、私が本来のメディアが行なうべき明確な視点・明確なメッセージの提示という点で望ましい文章を、「社説」を修正する形で示せば、以下の様になるでしょう。

 

[B]’

 昨年北朝鮮は、ミサイルの発射実験を十五回繰り返した。「水爆実験」と称する六回目の核実験まで強行した。

 米国との軍事衝突の危険性がささやかれ、韓国、日本においてはもちろんのこと、国際的不安が高まった。

想像できない接近危機を回避した両首脳会談

 ところが今年一月一日になって金正恩(キムジョンウン)・朝鮮労働党委員長が新年の辞を発表し、一転して韓国で開かれる平昌冬季五輪への協力を表明し、対話解決に向かってものごとが一気に動きだした。

 これほど南北の距離が縮まり、南北首脳会談、そして共同記者会見まで行われるとは、誰も想像できなかったに違いないに至り、少なくとも両国の間では、対話解決の第一歩が明確に踏み出され、米朝間の軍事衝突の危機もまずは回避されたと考えていいだろう。

まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい。

 韓国側で会談に応じた正恩氏の決断も評価したい。

 

 私は、先に、原文の[B]の最後の2つの文は、<あくまで「文大統領の努力」を「高く称賛」したもの、正恩氏の「決断」を「評価」したものであって、それらの「努力」「決断」の成果としての「板門店会談・宣言」を「高く称賛」するものにならないように配置されている>と書きました。

 これは、私のうがった読み方ではありません。実際、この2つの文を踏まえて、[C]へと進んでいくと、私の読み方が適切なことが確認できます。

 最初に<まず北朝鮮を対話に導いた文在寅(ムンジェイン)・韓国大統領の粘り強い努力を高く称賛したい>という文に、<まず>という言葉があるのに注目できます。これは、<まず>文大統領の努力、<次に>正恩氏の決断、という意味かと思わせるのですが、[C]へと読み進むと、<その上で、首脳会談後に発表された「板門店宣言」を見ると、不十分な点もある>とあるので、<まず>は、<その上で>にかかっていることが分かります。

 つまり、ここは、<まずは、2人の努力と決断を称賛、評価するけれども、その上で、「板門店宣言」は、不十分である>と言っているのです。

 では、ここでの評価基準は何なのでしょうか?何故に不十分で、どうすれば十分なのでしょうか?

 この「社説」における「宣言」の価値を決める評価基準は、北朝鮮の非核化をどこまで「保証」したものになっているのか、ということにあります。

 このことは、先に読み進めていくと明らかになってきます。

 「社説」は<不十分な点もある>といっていました。ですから、<基調は良くできているが、部分的に不十分である>ということかと思うと、以降、[C]の終り近くまで、ずっと、不十分が何故生じたか、それは妥協故に生まれた、というふうに、不十分に関する説明となっています。つまり、基調は<不十分である>ということにあることが分かります。

 ただ、[C]の最後に来ると、「板門店宣言」は全く無価値なのではなく、「それでも正恩氏の非核化への意思を、文書化できたことは価値がある」と述べられています。ここに来て初めて、価値評価の基準が北朝鮮の非核化を「保証」することにあることが明らかになってきました。

 つまり、[C]は全体として、「宣言」文書は、その非核化「保証」の程度において不十分なものになってしまったけれど、ともかく北朝鮮の非核化の意志が文書化されたことには意義がある、ということを述べているわけです。

 私自身の「板門店会談・宣言」に対する評価基準、あるいは私がメディアに対し求める「板門店会談・宣言」についての評価基準は、田岡氏の主張と同様に、まずそれが現在の危機回避にどう貢献したか、ということであり、また今後の平和構築にいかに貢献し得るものか、ということにあります。

 そして、そういう基準から見て、「板門店会談・宣言」を高く評価したいと思います。

 ところが、東京新聞の「社説」は、文大統領と正恩氏の「努力」と「決断」を評価するけれども、明確に「板門店会談」を称賛せず、また「板門店宣言」を<北朝鮮の非核化>という基準からのみ評価し、したがってそれに積極的な肯定的評価を与えようとしないのです。

 私は、<北朝鮮の非核化>という視点からのみ「板門店会談・宣言」をとらえ、評価するのは理不尽であり、狭窄的であり、危険だと考えます。

 東京新聞の「社説」の[C]の部分は、「宣言」が両国の思惑の「折衷」であるが故に不十分である、という主張を行なっていました。もともと、「板門店宣言」の重要な価値の一つは、両国が対話的アプローチによって互いが妥協する点を見出して、軍事的危機を回避した点にあるのです。それなのに、日本あるいは日本のメディアが、北朝鮮の非核化がどのように達成されたか、保証されたかということのみを評価基準として、「宣言」について半ば否定的な評価を下すのは、韓国、北朝鮮両国にとって理不尽です。

 そしてもしこの狭窄的な視点に固執するなら、それは実質的に対話的アプローチ(交渉であり、双方の妥協が含まれる)を否定し、強硬的アプローチ(妥協を排した軍事的・制裁的なそれ)へと導く非常に危険なものになることは明らかです。

 ところが、日本のメディアの論調や姿勢を見ていますと、安倍政権と同様に、米国が北朝鮮と妥協を含む対話・交渉をすることを望まず、妥協なき完全なる<北朝鮮の非核化>の追求を望んでいるように見えます。

 先に引用した田岡氏の論考は、次のように結ばれています。

 

 北朝鮮の非核化が「完全で検証可能、不可逆的」なものになるなら満点だが、現実的に考えればそれは極めて困難だ。

 米朝首脳会談で「米国に届くICBMは配備しない。これ以上、核実験はしない」という核の「凍結」プラス抽象的な「非核化実現への決意表明」程度が落としどころになれば、北朝鮮が中距離核ミサイルを保有し続けることを米国が黙認する結果になる。

 それは「日本にとって最悪の事態」と外務省は言うが、本当の「最悪の事態」はボルトン氏らが主張した北朝鮮への先制攻撃で核戦争が起こり、日本が巻き添えを食うことだ。

 谷内正太郎国家安全保障局長は5月4日、ボルトン氏とホワイトハウスで会談し、「すべての核兵器弾道ミサイルの完全で恒久的な廃棄を実現する目標の共有を確認した」という。

 だがボルトン氏のような「ネオコン」で好戦的な強硬論者と意見が一致するのは、日本にとって危険が大きいと案じざるを得ない。

 

  日本のメディアは、この危険を自覚しているのでしょうか?

  

  次回も、東京新聞の「社説」への批判を続けます。