hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシズム下の「日常」--民主主義の大切な問題をスルーする人

 ある日からファシズムになった、というような明確な線がひけるわけではありません。しかし、ファシズム下では、今までの民主主義ではあり得なかったこと、いけないとされていたことが、「日常」に起こり、行なわれるようになっていきます。

 そうしたファシズムの現象に警鐘を鳴らすと、それはおおげさだといって、「日常」現象として人々が受け入れることを促進しようとする人達がいます。「中立」を装いながら、「現状を民主主義として認定すること」に精を出している政治学者達もそうした人々です。

 そうした学者の主張の要点は、選挙という形式があれば民主主義だということです。一例をあげましょう。

 10月24日の東京新聞で、一橋大学中北浩爾(政治学)教授は次のように述べています。

 与党である自民、公明両党は三回の国政選挙で連続して勝利し、衆参両院で半数を超える議席がありますから、安保法制を成立させたわけです。選挙は民主主義の最も重要な手段ですので、一応、手続きを経て成立させたことを考えると、安倍政権のやり方を非民主主義的だ、というのは極端な言い方です。ましてやファシズムだというのは言い過ぎです。

と「解説」しています。学者らしいですね。手段、手続き、やり方、極端、まして、言い過ぎ、・・・言葉を煙幕のように張っています。

 そうして、素朴な疑問から逃げていますね。「選挙があれば民主主義なのか」というのが、正に今問われていることです。中北氏は、「そうだ」と答えているわけです。

 選挙と民主主義の関係について、今問われているのは、次の3つのレベルの問題です。

 第1は、選挙の制度、実施の実質における民主主義の問題です。これまで、衆議院参議院最高裁を含め、「違憲状態」判決が多く出されてきており、常態化しています。また選挙の際に、有権者の判断が適切になされ、成立する政権と有権者の間の約束が適切に維持されるような政党による言論活動があったか、そのために報道機関が適切に活動できたか、ということも重要です。2014年末の衆院選の与党による争点設定は「アベノミクス」の是非でした。NHKは、政権によって選ばれたふさわしくない人物が会長となり、不祥事を繰り返しながら、政権に有利という理由だけで(他に理由は思いつきません)その地位についたままが続いており、選挙報道や国会報道も、正常ではありません(9割以上の憲法学者違憲とするのを、あたかも対等の憲法学者が合憲としているかのような報道のしかたや、根拠もなく参院での戦争法案の「強行採決」を真っ先に既成事実化したことを想起)。

 第2は、民主主義=選挙という捉え方についてです。これは、古典的な問題であり、今日的な問題でもあります。立憲主義の議論と重なります。

 結論を述べてしまえば、民主主義には人権の尊重が含まれており、それを破る政権は、選挙を通じてできた政権でも、民主主義的な政権とはいえないのです。

 日本では、民主主義は選挙や多数決といった手続きのことだ、と信じている中北氏のような人が多数です。しかし民主主義には、個人や集団の人権の平等、尊重が目的や前提条件として含まれている、というのが現在の世界標準です。

 学校でクラスの一人に多数決で掃除させるのが民主的なわけがないように、仮に国会多数でも、沖縄辺古野への基地押し付けが民主主義でないことは明らかではないでしょうか。

 第3は、民主主義とファシズムは、共存しないのか?という、深刻な問題です。ナチスは、選挙を通じて多数となり政権を握り、さらに憲法を無力化して行き、さらに、多くの自国民、他国民の人権を踏みにじり、命を奪っていきました。それは形式だけを見るならば、多くが「合法的」でした。少なくとも、当時は「合法」とされたのです。

 仮に中北氏のように選挙で民主主義を定義するならば、ドイツ、ナチスの経験は、選挙で選ばれた民主主義の政府とファシズム共存することを示しています。中北氏が本気で日本政治の現在を考察しようとするならば、「選挙による多数の政権が決めたことだから」「ましてファシズムとはいえない」というようなレトリックでごまかすのではなく、正面から、日本においても「選挙による多数」(中北氏の言う「民主主義的な政府」)でもファシズム政権は成立しうるのか、あるいは成立し得ないのか、し得ないとすればなぜなのかを論ずるべきでしょう。

 ファシズム下の「日常」は、客観的には多くの人々の人権を侵し、人権を危険に晒しているので、社会は緊張に満ちたものとなり、抗議への潜在力が高まります。

 それをごまかし、目を逸らすための様々な言説やイベントが生産されます。それは、権力による圧力や誘導のせいもありますが、社会自体が真実から目を逸らしたいという気持ちになっていることもあります。

 しかし、ファシズムとの闘いの最も単純で基本的で、かつ最適解は、それがファシズムであるという事実から目を逸らさないことです。