hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

「象徴天皇=国家公務員」論

 前の2回のブローグで、一方に、明治期の人民の起草した憲法案に言及する皇室、他方に、人々の無力を肯定する左派映画監督山田洋次氏、という不思議な対照を見ました。しかし、日本の歴史を見る時、これは不思議というより、歴史的な必然、歴史的弁証法のしからしめるところ、として理解すべきように思います。

 こうした現実を前にして、日本の人々の平和主義、立憲主義国民主権等に対する感覚の問題を議論するための出発点として、まず憲法論として、象徴天皇制について、一つ提起しておきたいことがあります。このことを明らかにしておくことは、今後のこの問題の議論を進めていく上で必要、有用です。

 象徴天皇制は、憲法の第一条にあり、歴史的に見れば、完全に民主主義的な共和制と過去の天皇制との妥協という風に見れるでしょう。前者が圧倒的でしたが、後者も姿を残した、というものであり、私もそうした見方に賛成です。

 ただそこで、完全な民主主義を志向する人々は、象徴天皇制を限りなく無色透明、無力のものにしようとしてきました。あるいはそのようなものとして解釈すべきだと主張してきました。象徴というのは例えば、会社や組織のシンボルマークのようなもの、ただし意味あるいは歴史的意味はなるべくないもの、つけてはならないものというのです。何故なら、天皇制の歴史的意味は非民主主義的であるから、です。

 しかし最近は、少しトーンが異なるものも見受けます。例えば、樋口陽一氏は、その著書『いま、「憲法改正」をどう考えるか-「戦後日本」を「保守」することの意味-』(岩波書店)の中で、東日本大震災について、憲法が存在してきたことの意義として、

「象徴」(1条)としての天皇が皇后とともに被災者を励まし、救援に力を尽くす人々をねぎらう、その存在のたしかさ

を指摘しています(p.129)。そして、自民党の「憲法改正草案」のめざす「元首」化の方向がこれと対照的なことを述べながら、

「国民と皇室が新しい伝統を共につくりあげようとする歩みにブレーキをかけるのか」

 と批判しています(p.130)。憲法が現実を動かしてきた、という認識でしょう。

 私は、これをさらに一歩進めて、「象徴天皇=国家公務員」論を主張したいと思います。象徴天皇制は、これまで元首制とか君主制という枠組みと民主制との関係で論じられてきたようですが、私は完全な民主制の枠組みの中で論じます。

 憲法第一条は、次のように述べています。

天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

 原文の英語は公式とはされていませんが、私の論点をもっと明らかにするので、引用します。 

The Emperor shall be the symbol of the state and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

  今の日本語の憲法だと、天皇の地位は、日本国民の「総意」として確定したもののような印象を与えます。しかし、英語を読むと、「天皇の象徴天皇としての地位は、主権を有する日本のピープル(the people)の意志に由来している」といっており、確かに憲法制定時の意志を表すものですが、同時に、ピープルの意志というダイナミックなものが天皇の地位を正当化するという、原理を述べているものと読むことができます。

 さらに、考えてみますと、この条項は一般に、天皇という人格(人間)があって、それが自動的に象徴となる、という規定のように読まれているように思います。自動的に象徴となった後に、象徴としての地位に伴って様々な行動が制限されることになります。それが立憲元首制とか立憲君主制とつなげた議論となるわけです。

 しかしそうではなくて、象徴天皇たるべき者の資格を述べていると読むべきです。英語で読むとそのことがよりはっきりします。shall beというのは、法において「でなければならない」という含意で使われます。まず天皇が主語ですから、「天皇は、国家の象徴であり国民統合の象徴でなければならない」のであって、「国家の象徴と国民統合の象徴は、天皇でなければならない」と言っているわけではないことを確認できます。また非常に重要なことでおそらくあまり論じられていないように思いますが、「この地位(his position)」というのは、天皇という家系が意味する地位ではなく、象徴天皇としての地位であるということです。私の上の英語の訳文ではそのことを明記しておきました。天皇の家系に属する天皇は自動的に象徴天皇の地位につくわけではなく、天皇は自らを、「国家の象徴と国民統合の象徴」になるように行動(規制)しなければならず、あるいはピープルの意志に由来するように行動(規制)しなければならず、そうすることによって、初めて、象徴天皇の地位につくことになる、という意味です。つまり、象徴天皇の地位の資格要件の存在が示されています。

 人間としての天皇が自動的に象徴にならない、ここでは資格要件の存在が示されているとすると、では、象徴たる資格要件の中身とは何でしょうか。つまり、「国民統合」とか「国民の総意(ピープルの意志)」とは何か、という問題です。その答は、一条の前にある、まさしく前文に書かれた、憲法の原理=国民主権、人権尊重、平和主義にあります。この原理が国民の総意であり、国民統合はこの原理に基づくものです。それ以外あり得ません。

 このように考えると、この資格要件を満たさない天皇は、象徴天皇の資格を満たさないので、象徴天皇の地位につくことができません。憲法に象徴天皇罷免条項はありませんが、主権者たる私達は、当然、象徴天皇の資格を満たさないまま、その地位にあるような天皇を罷免する権利を持ちます。

 他方、人間たる天皇が、憲法原理に基づく象徴になりたくないとすれば、その自由を認めるべきでしょう。その場合、もちろん彼は天皇のままであり続けますが、憲法上の象徴天皇としての地位は失い、国家からの予算配分を受けることはできません。

 これが、私の「象徴天皇=国家公務員」論です。まだ説明したいことがいっぱいあります。最近の皇室からの護憲のメッセージは、この論からよりはっきりとした位置づけを持ちうるのではないでしょうか。また重要な一つの点は、この論は、天皇を人間として自由にする一歩であるということです。次回以降に、それらを議論します。