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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

(続)「象徴天皇=国家公務員」論--憲法原理と「国民の総意」

 前回のブローグで、「象徴天皇=国家公務員」論を述べました。これは、国民という主権者(雇用主)が、象徴天皇という職を行なう者を雇用する、ということです。

 すると、いくつか疑問が出てきます。その職務は何なのか、そのような職務は必要なのか、何故、家系としての天皇だけがその候補者となるのか、ということです。

 職務として、憲法において明示されているのは、次の2つの条文です。ここで「天皇」といっているのは、もちろん、象徴天皇制度の天皇のことですから、「天皇の職務」の説明と理解できます。

 

第6条

天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
天皇は、内閣の指名に基いて、最高裁判所の長たる裁判官を任命する。

 

第7条

天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
1 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
2 国会を召集すること。
3 衆議院を解散すること。
4 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の委任状を認証すること。
6 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7 栄典を授与すること。
8 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
9 外国の大使及び公使を接受すること。
10 儀式を行ふこと。

  これを見ると、象徴天皇は、民主主義的な国家権力(行政、立法、司法)よりも上にあって、あるいは、何か次元の違う世界にあって、そこから民主主義的な権力に、もっとパワー(もしくはフォース、権威)を与える何者かという存在のように受けとれます。

 米国の大統領が、選挙によって選ばれ、議会での就任の宣誓を、聖書に手を置いて行なうことはよく知られています。世俗的な権力を宗教的な権威(との約束)によって、より堅固で正統性の高いものにする、という形は、民主主義国でもあるわけです。メキシコの先住民の村でも、村長の交代時に、支配するスペイン人権力者あるいは自分達の神々に扮した、上級の権力者からの授権を模したパフォーマンスが行なわれます。

 このような意味においては、象徴天皇は、国家権力の淵源の象徴というものになっています。第一条にあった「国家の象徴」がそれですね。

 また明記されていないが、実際的に人々が彼(この地位)の重要な職務と感じているのが、鎮魂、慰霊、大きな災難の慰撫、人々の安寧への思いの表明、といったようなものだと思われます。これは、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」で言っている、共同体に属するという感覚によって得られる人々の安心感、満足感を与える仕事です。世俗的な意味での国民統合=共同体の創出は、憲法に明記された国民主権、平和主義、人権尊重によってなされているわけですから、その意味での象徴は、例えば憲法そのものや憲法をシンボル化したものがもっともふさわしいでしょう。しかし、ここでも、超世俗的なのものが、現存の世俗的な共同体の絆を強化するというような形で機能している例が、しばしば見られます。アンダーソンは、そのことを言っているわけですね。

 ではこのような職務は必要なのでしょうか?私は必要がないと思いますが、それはともかく、憲法論として議論を続けましょう。家系としての天皇だけが象徴天皇の候補者となるのは、憲法によって次のように明記されています。

 第2条

皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。

  これは、象徴天皇候補者資格を定めているものですが、さらに、それに止まらず、象徴天皇制の下では、皇室内の家族関係に国会が介入することを決めた条項となっています。

 以上、職務内容と候補者資格を見ました。これは、憲法の原理(国民主権、平和主義、人権尊重)と両立するでしょうか。明らかにしないですね。

 矛盾していても同じ憲法にある以上、それらを整合的に解釈しようとすれば、最初からこの憲法立憲君主制というような角度からも見ていかざるを得ないでしょう。そしてそのような立場からは、この職務内容や候補者資格の規定も、国民の総意に基づくものとされます。というか、むしろ、実質的に国民の総意の中身を示すものとされるのです。その上で、民主主義的な要素の圧倒、支配を担保するものとして、次のような条項が存在する、というわけです。

第3条
天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。

第4条
天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
天皇は、法律の定めるところにより、その国事に関する行為を委任することができる。

  しかし、私の「象徴天皇=国家公務員」論は違います。この憲法をできる限り、憲法の前文や象徴天皇に関わる条項以外で示された民主主義的な原理を徹底的に追求し、それがこの憲法である、と宣言します。そして、憲法の中にある矛盾を隠蔽するのではなく、矛盾を際立てさせながら、かつ、憲法を生かすような解釈を目指します。

 そのためには、第一条を徹底的に憲法原理の下にあるものと解釈します。私は、前に次のように述べました。

人間としての天皇が自動的に象徴にならない、ここでは資格要件の存在が示されているとすると、では、象徴たる資格要件の中身とは何でしょうか。つまり、「国民統合」とか「国民の総意(ピープルの意志)」とは何か、という問題です。その答は、一条の前にある、まさしく前文に書かれた、憲法の原理=国民主権、人権尊重、平和主義にあります。この原理が国民の総意であり、国民統合はこの原理に基づくものです。それ以外あり得ません。

 ここで「それ以外あり得ません」と述べたのが、この民主主義的原理以外はない、ということです。ただこれは言い過ぎでした。確かに、憲法に、記された職務内容(6条、7条)や候補者資格(2条)の規定は、それらも、第一条のいう「国民の総意」と解釈せざるを得ません。

 そこで、私の「象徴天皇=国家公務員」論の提案は、矛盾していても何でもいいから、この制度を規定する最初である第一条において、それがいう「国民の総意」とは、根本的に、優先的に、「憲法の原理(国民主権、平和主義、人権尊重)」であると解釈して、象徴天皇のあり方(資格)を直接的に規定してしまおう、というものです。

 えーっ、そんな矛盾したものは具体的な制度(法)としてあり得ないよ、そんな法解釈はあり得ないよ、といわれるかもしれません。

 しかし、そんな矛盾した制度が現に存在するのです。そしてその矛盾の中で、憲法原理を生かそうとしているのが、現皇室の実践ではないでしょうか。彼らの護憲発言、国境を超えた人命尊重の態度は、憲法原理と君主制の原理の妥協、調整から生まれるというよりも、象徴天皇制の由来するピープルの意志が国民主権、平和主義、人権尊重であることに、直接的な理由があると考えるべきではないでしょうか。

 このような視点から天皇(皇室)の仕事を憲法原理に基づく国家公務員のようなものとしてとらえることは、皇室の仕事に関する評価の視点を、それをいつも否定的にしか見ないという態度から変更することを意味します。角度を変えれば、彼らにとっても仕事のやりがいを与える、ということでもあります。事実問題として、仕事を与えておきながら、その仕事を常にシニカルに見るというのは、とても非人間的なことではないでしょうか。

 すでに前回述べたように、「象徴天皇=国家公務員」論では、象徴天皇たる資格が憲法原理によるものですから、憲法原理に反対の意見や行動を行なおうとする人間としての天皇については、我々の側で当然象徴天皇になることを拒否できますし、また天皇自身の側でも、憲法原理にもとづく象徴天皇になるのがいやなら、拒否の権利を持ちます。これらのことは、明文規定がないとはいえ、まさに、憲法原理によって我々にも、そして人間としての天皇にも保証された権利、自由と考えます。同時に仮に、象徴天皇不在となっても、この憲法の内容は、実質的に困ることなく対応できるようになっています。

 ところで私が思うに、これだけでも、象徴天皇制の可能な変革(解釈)としては相当ぎりぎりのラディカルな議論です。天皇にも選挙権を与える、とか、象徴天皇の職の立候補制、等は、現行憲法の下では、無理なのではないでしょうか。この意味で、私は、「象徴天皇=国家公務員」論は、天皇の人間としての解放の「第一歩」であると述べたのです。