hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

永続市民革命(4)--「抑圧の文化」

 私達は、社会の子であり、時代の子です。父母に教えられ、先生に教えられ、友人やテレビに影響を受けます。すぐれた小説に心を動かされ、すぐれたアジテーターによって行動に誘われます。

 「独立」した人格などはないのです。

 しかし、自分で感じ、自分で考え反省し、自分で行動を決定すること、これは、大きな権力を前にしても可能です。

 友人や職場の組合、大学の自治会の方針や運動が自分の考え・決定と同じであれば、「楽」に行動できますね。ひとりぼっちのところで、行動を起こすのは、その人にとってはまさに「革命」ですね。

 しかし、それは、どちらが良いとか悪いとか、本物の市民であるとかないとかではありません。

 労働組合学生自治会が退潮して、政治的闘争を闘わなくなった時代とそれらが闘争の中軸であった時代と、どちらに人々の市民への「移行」の可能性、市民革命の可能性があるのでしょうか。

 それは、そうした見えやすい客観的条件よりももっと重要な条件--それは客観的とも主観的ともいえる条件です--にかかっているように思います。

 それは、問題の切実さ、人々の解決を求めようとする危機意識です。

 世界各国が近代のフェーズに入って行って以来、どの国、どの社会においても、市民が生まれる必然性(客観的根拠)、個人として解放されようとする願望が生まれてくる必然性(客観的根拠)は、否定できないもののように思えます。

 このような意見は、啓蒙主義の決まり文句であり、今や人々を誘うキャッチフレーズとしては、全く魅力的でないものと言われるかもしれません。

 しかし私の場合、この決まり文句が、再び生き生きとしたものとして感じられるようになっています。

 海外で多少なりとも現地の人と一緒に生活した経験のある人の内で、日本社会にある独特の抑圧を意識するようになった人は少なくないのではないでしょうか。

 

 --<通勤で混んだ朝の駅で整列乗車する人々の秩序>と<子連れベビーカーの「乱入」に対する敵意>。

 --<東日本大震災で暴動を起こさず助け合いながら忍耐強く支援を待つ人々への「称賛」と「『絆』の高唱」>と<原発事故被害者に対する具体的制度的支援の貧弱への無関心>。

 --増加する人身事故で度々止まる電車の中で、スマートホーンの作業を続ける人々。

  --君が代斉唱を強制するために、口が動いているかどうかを観察、報告することを求める首長。彼を支える有権者とマスコミ。

 --一昨日、沖縄で慰霊祭があった時、安倍首相に対し、罵声が上がったことを、早速熱心に「慰霊祭のような場で罵声はふさわしくない」と非難する人々。

 

 私達の社会には、秩序の影に隠れた抑圧があります。

 私達が感ずる閉塞感は、ある行為それ自体が許されない、というだけでなく、押さえきれない感情や良心を表現しようとする、どうしても内側から出てこようとする表現行為までを抑圧されている--「漏れなくすべてを抑圧されている」という感覚であるように思います。

 このような抑圧は、今日のようなファシズムの時代では、極限に達しています(つまり、全体主義ともいえますね)。抑圧は抑圧を呼び、上から下へと重層構造化します。(丸山真男超国家主義の論理と心理」)。

 私達は、これに対抗する文化--抑圧から解放されたいという願望を表現する文化--を持っているのでしょうか。

 残念ながら、日本社会の表側は、こうした抑圧状況を受け入れることを前提とした「抑圧の文化」が覆っているように思います。この30年の間に、その私達を覆うカバーは、ますます厚くなってきているようです。

 しかし、そうであればあるほど、この抑圧から解放されたいという願いは強くなります。

 日本にあるこの「抑圧の文化」という壁は、容易に崩れないでしょう。

 でも、崩れないから、それを崩そうとする願望もけして無くならないのです。

 私は、ロック系の音楽は知らないのですが、日本ではどのような動きがあり、どのような影響力を持っているのでしょうか。ロックは、怒りをそのまま自分のものとする音楽だと言われています。

 原発事故の時に、京都の一つのロック系グループが、声を上げましたね。

 また、私は、山田洋次の柴又の寅さんではなく、小津安二郎のモノローグ的な登場人物達に注目しました。

 抑圧の文化は、私達の中にある抑圧を破っていくヒント、つまり私達の中に実際ある感性、考え、判断まで、見えなくしていこうとします。

 私達は感度を高め、私達の過去、現在、未来に市民を発見して、連帯していかなければならいないのです。