倫理としての唯物論--ファシズム政権を目の前にして(2)
前回に「①自分の意識から独立した外界の存在を認める立場」が唯物論だと言いました。
もう一つ唯物論について重要なことがあります。それは、「②その外界について、経験や調査研究を通じて、知っていくことが可能である」と考えることです*1。
歴史の例を挙げましょう。「従軍慰安婦が存在」「そこに軍の関与があった」といった事実(外界)は、研究者が研究するとしないと関わりなく、事実として存在するかしないかのどちらかです。そして存在するならば、そのあり方(事実の内容)は、研究者と無関係に決まっています(①)。研究者は、研究によって、事実の存在やその有り様を明らかにして行きます(②)。研究過程は、①を前提としながら、様々な議論、異論を通じて、どちらが正しいか、相互補完的なのか、差し当たって結論保留、というような形をとりながら、進んでいきます。
①という前提と②をまじめに行なうということは、お互いに支えあった関係にあります。①という前提を認めないと、②はまともではない方向に進み始めます。あるいは、②がまともでない方向に進み始めると、①が無視されたり、否定されたりするようになります。
「事実を正しく認識する」というのは、上記の①②を指すわけですね。常識的な話といえるかもしれませんが、このことを自覚的に意識しておくことは重要です。
私は以前のブローグで、誠実な研究というものについて、先生の教えてくれた方法や学界の約束事を守ることではなく、事実の重みを直視することだという言い方をしたことがありますが、それも上記で述べたことと同じです。
非唯物論的で、不誠実で、非倫理的な認識活動とはどういうものかを「歴史修正主義」を取り上げて説明します。上記のような常識的な立場を自覚することの意義が理解できると思います。
「歴史修正主義」は、①の立場を否定することによって可能となるものです。
例えば、「慰安婦宿所への軍の関与は、それを記した公文書があるかどうかによって決まる」「公文書はないから、関与はなかった」と主張します(ドイツでも歴史修正主義者が、「公文書がないので、アウシュビッツはなかった」と主張しました)*2
あるいは、自分で「強制」の基準を決めて、「強制的慰安婦徴用はなかった」と主張します。
ここにある見方の根底には、「事実の有無は、その人の用いる事実認定の基準に依存している」という考え方があります。そこでは、①は無視、または否定されています。
何か正しいことを言っているようですが、おかしいですね。すぐ気づくおかしいことは、事実認定の基準がおかしいということです。つまり、認定基準がおかしければ事実が捉えられなくなる、ということですね。
しかし、ある事実をとらえるのにふさわしい事実認定基準というものはどのように決めるべきなのでしょうか。
それは、①を前提に、各研究者が考えたり、研究者間で議論をしながら決めていくというものです。
もし、①という前提を失うならば、事実認定基準が、研究者の嗜好や研究者間の権力関係、あるいはさらに外部権力によって設定されることを、拒否する根拠を失ってしまいます。
通常、研究者の多くは、①という立場を自覚することなく、①に基づいた議論をしています。
しかし、「歴史修正主義」のような主張が現れた時、特に歴史研究者の内部にそのような主張が現れた時に、①という立場の自覚は、「歴史修正主義」に対する批判をより強固にしてくれるものとなるでしょう。
①という立場は、私達の問題設定自体の重要性を擁護し、まじめな研究としての②の継続を促してくれるものでもあります。
私が、安倍政権をファシズム政権だと考えることは、ブローグでその根拠を説明してきました。
これに対し仮に、ある政治学者がファシズムの定義によって、「これはファシズム政権ではない」と結論づけるとしましょう。
しかしこの結論自体は、①という立場に立つ限り、今目の前にある政権をどのように理解すべきか、という問題の重要性を否定することにはつながりません。すなわち、それによって安倍政権が事実として持つ危険性の有無を変更してしまうことはできません。従って、議論を終わりとすることはできないのです。
私達にとって重要なのは、この政権が危険であることそのものなのであって、定義付けによってつけられる名前が問題でないからです。
①という立場は、この意味で②をまじめに追求していくことにつながります。
①という立場の自覚が、倫理的な意味を持っていることは、以上の説明で明らかになったと思います。
次回に、アカデミズムにおける①という立場の意義について、もう少し議論を加えたいと思います。