過去と現在から学ぶ--竹田茂夫氏のコラム「殺戮の遠近法」
昨日のブローグで、戦争法制が実施されれば、軍事的合理性の論理が解放され、行政、政治、社会が変容していくだろうと述べました。
どのように変容していくのでしょうか。
社会科学において、自然科学をまねて、「精密なモデル」を作って「予測」を行なうことがありますが、あれは外見だけで、実際は科学的ではありません。
今私達にとって重要なのは、科学的外見やアカデミックな意味で評価される論文を書いたり読んだりすることではなく、基本的な社会の動向を捉え、それにどう向かうのかという実践的な判断ができるようになることです。
具体的には、過去の歴史や現在の問題に学ぶことです。
大雑把に言って、社会の基本的なメカニズムやプロセスが同じであれば、大雑把に言って、別の未来の社会でも同じ結果が得られると考えられるでしょう。
また、異なったプロセスや条件が、どのように異なった結果をもたらすかを思考することも必要です。
さらに、基本的なメカニズムやプロセスを追っていくと、表面的には異なることでも、むしろ本質は変わっていないとわかることもあります。
そうした観点から過去と現在を眺め、熟考し、判断することが最も間違いのない方法です。
戦争法制による日本社会の変化を考える上で、そうしたメカニズムやプロセスに関わる過去と現在を扱った竹田茂夫氏によるコラムがあります。
本音のコラム「殺りくの遠近法」
竹田 茂夫 (東京新聞2015.08.13)
一九四二年七月のある朝、占領下のユダヤ人の村をドイツの治安警察が急襲した。成年男子を別にして、老人、女性、子どもは処刑せよとの命令に従い、部隊はためらいつつも約千五百入の銃殺を実行した(ブラウニング『普通の人びと』)。
この部隊は故郷に家族や仕事を持つごく普通のドイツ人からなるが、ほかでも殺りくを繰り返し、無抵抗の約四万人を殺した。殺す側は返り血を浴び、阿鼻叫喚は耳元に迫る。
中国大陸で捕虜や民衆に暴虐の限りを尽くした情報将校も、戦後は悪夢にうなされる夜が続いたという(鵜野晋太郎『菊と日本刀』)。総力戦では国民が戦争を担い、膨大な戦死と心身の傷を引き受ける。
だが、戦略爆撃(日独都市への大空襲)や原爆の投下で、事態は根本的に変化する。専門の部隊が無差別殺人を担当し、自国民にはそれを正当化する宣伝を行うのだ。いまだに米国民の大半は、原爆投下で日本の敗戦が早まり、多くの命が救われたと信じている。
中東やアフリカなどの「オバマの戦争」ではドローンや特殊部隊を投入し、厳重な情報統制を敷く。イラク戦争に倦んだ米国民は戦争業務を専門部暑に委ね、帰還兵の心身の傷やドロ ―ン攻撃の巻き添え死に目をつぶり、戦争から距離をとる。日本人も将来、米軍支援の自衛隊に同じ態度をとるのか。
この短いコラムに、戦争によって行なわれてきた無差別殺人に、国民がどのように向かい合ってきたのか、という角度からの問題提起が凝縮した形でなされています。
過去の総力戦における「普通の人」による殺戮、あるいは目の前の人々に対する自分の直接的身体的攻撃行為としての無差別殺人。戦闘行為の担い手、そしてその結果としての戦死、心身の傷の引き受けてとしての国民。
また、第二次世界大戦時の空襲や原爆投下--空間的距離をおいて専門性を持った軍人の機械操作による無差別殺人。国民に対する無差別殺人の正当化の宣伝。
さらに、「オバマの戦争」における精密兵器や特殊専門化部隊による無差別殺人。情報統制。国民は、任せ、目をつぶる。
竹田氏は、「日本人も将来、米軍支援の自衛隊に同じ態度をとるのか」と非常に重たい問いを発しています。
今、私達はそれぞれの行動によって、この問いに答えるべき時にいると思います。