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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシズム、新自由主義、そしてポストモダニズム(2)--ポストモダーンの認識論的問題と歴史修正主義

 ポストモダニズムは、

 ①認識論的誤り、

 ②政治的誤りのその1--歴史修正主義に「理論的」根拠を与える

 ③政治的誤りのその2--ポスト産業資本主義を対象化できない

という重要な欠点を持っています。②③の問題は、①をもとにしています。

 今日は、①②を議論します。

 ポストモダーンの思想をわかりやすく議論しているのは、柄谷行人です。上記の問題整理と直結してはいませんが、前にも紹介した彼の論文「丸山真男とアソシエーショニズム 」で、彼自身が考えていたポストモダニズムを、次のように述べています。

私が考えていた「近代批判」はつきつめると、自発的な主体(主観)に対する批判ということになる。各人は自発的な意志をもつと思っているが、それは「他人の欲望」によって媒介された結果にすぎない。別のいいかたでいえば、主体は、無意識の構造の結果(効果)にすぎない。また、認識的な主観は自由ではなく、すでに言語的な制度(システム)の中で規定されている。これは、自由な個人主体というフィクションから出発するブルジョア的思想に対する批判であった。と同時に、それは、ブルジョア社会を否定するような知識人の権力(知の権力)への批判でもあった。すなわち、大衆を啓蒙し指導するという知識人=前衛党という主体への批判である。このような主体批判は、主体の否定ではない。その逆に、知の権力に従属しないような個々の主体とそのアソシアティヴな活動を創造することを意味していた。それは、1968年の五月革命に象徴されるような運動である。実際、フランスで始まった構造主義およびポスト構造主義は、旧来の左翼を否定する新たな左翼の運動を背景にしていたのである。 

 少し、長くて難しいですが、要するに「右翼だろうが左翼だろうが既存の近代の知識は権力から生まれている(権力に従属した知識)」ということです。そして、真理としての知識(権力に従属しない知識)は、既存の組織、権力に対抗する新しい運動(新左翼)によって獲得されていくというのです。

 認識論的部分に注目すると、それは、「知識は権力によって作られる」という一見、「批判的」で「ラディカル」なものです。ここでいう権力とは、社会や組織に遍在しているものであり、国家権力だけではなく、例えば左翼政党(幹部)も権力となります。

 このように単純に自らを表現しないものの、いわゆるポストモダーンな社会科学の作品には、「知識は権力によって作られる」という主題や通奏低音が響いています。

 繰り返しますが、一見それは「批判的」で「ラディカル」なようなのですが、私から見ると、それは自己陶酔のような感じがしますね。

 実は、これは「批判的」でも「ラディカル」でもなく、悪質な権力者自身がそう思って、実践していることです。あるいは、歴史修正主義者は、このポストモダーンな見解に大賛成して実践しているわけです。歴史修正主義者は、捏造した歴史の宣伝を「歴史戦」と呼び、歴史研究をそれに従属させます。

 この「歴史戦」観と「知識は権力によって作られる」とは同じものです。

 私は、本当にラディカルに批判的であるということは、まず、事実、客観的な存在があるという素朴な唯物論的な立場に立つことしかあり得ないと考えています。*1

 こうした素朴な唯物論の立場からは、歴史修正主義者の議論を批判し、社会に対して彼らが間違っていることを示すには、歴史的事実は研究を通じてこうであると証明できる、歴史修正主義者は事実をねじ曲げているという批判--「常識的」で「素朴な」批判--こそが有効であり、ラディカル(根源的)なものです。

  以上、①②を述べました。

 新しい社会運動が、既存の価値観や知識を批判すること、自らを新しい価値観や知識を体現したものとして理解し、あるいはさらに新しい価値観や知識を求め、それを体現しようとするのは、自然で、普通のことです。

 1960年代末に始まったの新左翼の運動が、仮に、そのような新しい真理らしい重要な知識を生産しているという実態があれば、あるいは仮に、その運動が成長を続ければ、上記のような認識論にも何らかの発展があったのかもしれません。

 事実はそのようなものにはなりませんでした。柄谷行人氏は、資本主義の発展が、ポストモダニズムを飲み込んでしまった、と言っています。 

 次回に、このことを敷衍しながら、③について議論します。

 

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 本日の澤藤統一郎氏のブローグ(2015年11月30日・連続第974回)では、私が上記で論じたことに直接関わる歴史認識における記録の重要性の話やその他、重要な論点が論じられています。

 参照してください。

 また、最近、安倍ファシズム勢力(自公および日本会議などの極右グループ、官僚、大資本)の行動は、まさにファシズムとしての常軌を逸した姿を次々とさらし出してきています。

 国連表現の自由特別委員会の調査拒否、

 戦争被害者シンポジウム証言者の入国拒否

 辺古野基地建設暴力的開始、「協力」団体への脱法的金銭配布

  TBSアンカー岸井成格氏排除の圧力、

lite-ra.com

 

   一つ一つ論じている能力が私にはありませんが、強く糾弾したいと思います。

  

*1:私はここで、わざと「素朴な」という形容詞を使いました。素朴唯物論というのは、日常経験から得られる認識をさしており、哲学的な議論を経ていないものとされています。しかし、哲学的な難しい議論を経ても、結局のところ、客観的存在というような基本的な概念は素朴なものとしかいいようがなく、それで十分なように思います。