hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

ファシズム、新自由主義、そしてポストモダニズム(3)--消費社会・情報社会とポストモダニズム

今日は、前回の続きで、ポストモダーンの  

政治的誤りのその2--ポスト産業資本主義を対象化できない

を議論します。

 柄谷行人氏は、論文「丸山真男とアソシエーショニズム 」を次のように続けています。 

 しかし、あとからふりかえると、こうしたポスト構造主義あるいは知のディコンストラクションがラディカルな意義をもちえた時期は限られていた。それはまもなく、資本主義的な発展がもたらした消費社会・情報社会の進行に追いぬかれてしまったのである。つまり、近代批判の言説は、資本主義そのものが促進するディコンストラクションにのみこまれ、同化されていった。ポストモダニズムという言葉が流行したとき、すでにその内実はそのようなものだった。それはどこでも先進資本主義国に生じた現象である。つまり、ポストモダニズムはほとんどポスト産業資本主義と同義となってしまったのだ。 

 非常に巧みな表現、鋭い指摘ですね。

 ここでは、資本主義社会の現実のレベルと社会運動・哲学・認識論のレベルの問題が重ね合わせて議論されています。それで、とても巧みな表現となっているのですが、きちんと理解するのは難しいですね。

 私なりに咀嚼します。

 まず資本主義社会の現実のレベルです。

 ポスト産業資本主義社会とは、消費社会化・情報社会化の進行した資本主義社会のことです。

 消費社会化・情報社会化とは、資本主義の生産力の増大と技術の発展に対応して、生産における消費欲望の自立性、生産における科学・技術・情報の自立性・普遍性という特徴が現れ、それが資本によって自覚化されていきます。

 そこで繰り返しになりますが、ポスト産業資本主義とは、生産における消費欲望の自立性、生産における科学・技術・情報の自立性・普遍性という特徴に対して、自覚的な資本主義ということができます。

 消費社会とは、消費欲望の自立性が資本によって自覚化された社会のことですが、もう少し詳しくみましょう。

 例えば、食べるという行為は、生存エネルギーを得るためのものです。同時に私達はおいしいものを食べたいので、よりおいしいものが生産されていきます。その意味では私達の食への欲望は早くから生存維持という条件から自立性を持つようになっていました。

 しかしさらに、生産技術の向上や生産力の拡大が急速に進む資本主義社会では、

  1. 一方で、対応すべき消費欲望の拡大が進まずに、過剰な生産が発生する、
  2. 他方で、潜在的な過剰生産力の存在の中で、対応する消費欲望が急速に「自立性」を持って変化・拡大する、

という資本にとって重要な問題、現象が生じてきます。

 (1)では、利潤の再生産、資本主義の再生産の阻害という深刻な問題に直面することになり、(2)では、 消費者の欲望の予測が困難な「自立的」な変化に対応するために、資本間の死活の対応・競争が招来されます。

 資本は消費欲望それ自体を自覚的に把握し、研究することを求めるようになり、そうした把握、研究を通じて、(1)(2)に対応し、消費欲望を資本の側から創造し、操作、操縦する術すら学んでいきます。これが消費社会です。

 情報社会とは、科学、技術、情報の領域が、生産に必要であると同時に、しかしさらに、普遍的な自立性を有する固有の領域としての重要性を持つことが、資本によって自覚化された社会のことです。

 科学、技術、情報の資本主義にとっての重要性は古くから理解されていました。しかし、それらと資本の結びつきは、無意識的に、その資本の活動の属する特定の分野、企業、部局、人々に固着、限定されたものとして扱われていました。

 しかし、主に工学的発想の新たな発展、情報理論やコンピュータ、関連技術の発展によって、科学、技術、情報と資本の結びつきは、個々の特定の資本の活動から自立性を持った、普遍性を持ったものとなってきました。そしてさらに、この普遍性を持った結びつきそれ自体が、固有の産業(情報産業)や固有の研究領域(情報産業研究)を形成するようになります。そして多くの資本が、全体としてのこのような動向を自覚しながら活動を行なうようになります。これが、情報社会です。

 次に、社会運動・哲学・認識論のレベルです。

 「ラディカルな意義をもちえた」「ポスト構造主義あるいは知のディコンストラクション」(=「ポストモダニズムという言葉が流行する以前のポストモダニズム」)とはどういうものでしょうか。

 私は、ポスト構造主義あるいは知のディコンストラクション」(=「ポストモダニズムという言葉が流行する以前のポストモダニズム」)とは、体制批判的な知識人の内で、自らの「新しいタイプ」の知識(人)の自立性(=存在意義)を強調する、あるいは自立性(=存在意義)を模索する運動・思想であった、と考えています。

 彼らは何からの自立性を求めていたのでしょうか。既存の知識、既存の知識生産のあり方、すなわち「近代的知識」、「近代」からの自立性です。

 そしてこの運動は、一言でいうならば「失敗」しました。柄谷氏の表現で言えば、「それはまもなく、資本主義的な発展がもたらした消費社会・情報社会の進行に追いぬかれてしまったのである。つまり、近代批判の言説は、資本主義そのものが促進するディコンストラクションにのみこまれ、同化されていった」のです。

 何故このようなことが起こったのでしょうか。

 問題は、彼らが、「近代の(知識)」からの自立性を「確認」しようとしながら、実はそれとは異なる、「意識の外にある世界・社会」「それらに関する正しい知識=真理」の存在からの自立性を求める方向、つまりそうした存在を否定する方向に、事実上向かった、ことです。

 

 この項、続きます。