hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編6)--フーコーの新自由主義論とその限界C

 前々回、フーコーの二つ目のすばらしさとして、新自由主義の新しさを浮き彫りにしていること、というふうに述べました。しかし改めて読み直してみると、「浮き彫り」というには明確さに欠いており、レトリックのような部分や彼自身が思考を試行的に重ねている部分を感じます。

 ただし、分析に無理があるところや、レトリックが先行しているところは、フーコーの欠点というよりも、むしろ、普通の歴史研究者と違って、強力な現在の問題意識から過去を見ようとしている、フーコーのすぐれた感性、直感力の反映というふうに理解すべきと思います。

 そこで、ともかくフーコーの議論を私なりにまとめます。

 フーコーは、新しく現れてきた新自由主義の2つの源流に注目します。

 第1は、ドイツのオルド(秩序)自由主義です。この議論の新しい点は、①自由な市場において、その理論的重点は「交換」ではなく「競争」にあることを強調する、②国家の必要性、正当性は、自由な経済・社会関係を創り出す限りにおいてであることが明示化、自覚化される、ということです。

 ①の点について。生産のダイナミズムを創り出し、持続させ、さらに発展させるには、商品が自由に交換されることは必要条件の一つですが、企業や個人の自由なパワーを「競争」という概念に集約させて表現、把握する必要があります。政治的にも経済的にも、「国家からの自由」という概念だけでは、このダイナミズムを支える内的なパワーとしての「(自由)競争」の鍵的重要性がとらえれません。自由な競争を行おうとする企業や個人という主体が前提とされ、重要視されます。

 ②の点について。国家は、このような「自由競争」を創り出し、維持するために必要であり、そのためだけに存在理由(正当性)があるとされます。

 フーコーのオルド自由主義への関心は、それが、競争する自由な主体(企業)を育成し、独占化しないように維持すること、そうした企業によって社会が構成されることを目指す、統治理論という性格を持っていることによります。

 第2は、アメリカのシカゴ学派フリードマンに代表される新自由主義です。そこでは、あらゆる人間の行動が、したがって人間の行動の総体としての組織、制度、社会等が、ホモエコノミクス的な個人の原理から説明されるものとされます。

 フーコーは、このアメリカの新自由主義を、無政府自由主義と呼び、主にフリードマンの弟子であるゲーリー・ベッカーに言及しています。何故なら、ベッカーこそが、新しい統治技術としての新自由主義の現実的な可能性をすべての領域に広げていく理論的、方法的な基礎を具現化したからです。

 俗っぽい、しかし非常にわかりやすく「普遍的」な言い方をすると、すべての個人の行動を「損得勘定」で理解しようとするのがベッカーです。

 宇沢弘文は、 内橋克人との対談の中で、次のようなエピソードを語っています。

 

 今の経済学は、これまでのケインズとも違うし、あるいはマルクス経済学とも違う。経済学の原点を忘れて、その時々の権力に迎合するような考え方を使っていて、その根本にあるのが、やはり市場原理主義というか、儲けることを人生最大の目的にして、倫理的、社会的、あるいは文化的な、人間的な側面は無視してもいいという考え方がフリードマン以来大きな流れになっている。

 その考え方、がどういう性格を持っているかというと、私のシカゴ大学の後任者にB教授という人がいるのですが、彼はフリードマンの思想を極端な形でつないでいった人です。ある二月の寒い日のことだったのですが、 B教授が、食事会の席でこういう話をしたのです。その二週間ほど前、家に帰ると奥さんが13階の屋上から飛び降り自殺して雪の上に横たわっていた、まだ温かかった、と。それで彼は次にこう言ったんですね。「今度自分は自殺の経済学をやりたい」。彼の理論---それはフリードマンの理論でもあるのですが---ですと、奥さんは彼と一緒に生活する時の苦痛と飛び降り自殺した時の痛みとを比較して、自殺したほうが痛みが少ないから合理的に自殺を選択した、と。さすがのフリードマンも、その時はじっと黙っていました。

 

 宇沢弘文内橋克人[2009]「新しい経済学は可能か(4) : 最終回 始まっている未来(連続対談)」(『世界』第793号  July  33ページ)

 ここで宇沢がB教授と言っているのが、ベッカーのことです。

 こういう生々しい話は、その真偽を確かめることが困難であることもあり、学問の世界では語ることが避けられがちです。しかし私は、一般的にもベッカーの場合にも、ある学説が生まれてくるプロセス、環境を理解することは、その学説の歴史的位置、意味を理解する上で重要な一部をなすと考えます。

 それはさておき、さしあたってここでの議論では、宇沢の説明の細部が正しいかどうかは別として、ベッカーが妻の自殺後に自殺の経済学を構想し、その論文を執筆したということ、それは、同居生活の苦痛と自殺の痛みの合理的選択というアプローチに基づいたものであったことを理解すれば十分だと思います。

 ところで、フーコーは何故、フリードマンではなく、ベッカーに焦点を当てたのでしょうか。

 福祉国家が大きな仕事の領域にしていた教育や健康を含め、すべてのことがらを国家から解放し、市場に任せた方が良い結果をもたらすという、フリードマン市場原理主義な主張は、その根拠や主張の論建てが異なるものを含むにしても、基本的に古典的な自由主義と変わらないともいえます。

 しかし、ベッカーに至って価格のついたものが交換される商品市場を超えて、価格が明示化されていないような行動も含めた、あらゆる行動を合理的に理解する実証的な方法的(技術的)可能性が開かれたのです。

 私自身は、このようなラベル--あらゆる行動を合理的に理解する実証的な方法的(技術的)可能性--は、誇大なものであると考えていますが、ベッカーの方法がそのような外観をもたらすものであることは確かであり、経済学界と称する大きなサークルにおけるその追随者数は急成長し続けました。

 フーコーの統治テクノロジーという視点から見ると、ベッカーの方法論は、政府が狭い意味での経済的な市場を合理的な統治の対象とするに止まらず、すべての住民の行動を統治するための合理的な技術を提供するもの(そういう外観を与えるもの)といえます。

 実際、ベッカーの潮流に属する人々の論文を読んでいますと、政策という形で政府が個人の行動に影響を与えることについて積極的で、何のためらいもなく、政策ツールとしての自己のセールスに熱心なものが多いのに驚きます。もっとも、それはベッカー派だけではなく、アメリカの経済学文献の多くに共通することです。

 それらは、政策的介入への制限的な意識--いかに個人の自由を実現するか、その限りで政策的な介入が許される、といった自由自体に価値を見いだすことによって生ずるはずの意識--を全くと言っていいほど欠いています。

 そこでの自由、自由な選択とは、広い意味で個人が損得勘定をする(拡張されたホモエコノミクス)という意味と全く同じです。

 このことは、法(犯罪)の分野にこの方法論を適用した議論において、あからさまに現れます。つまりそこでは、犯罪者あるいは犯罪という行為も、自由の主体あるいは自由な選択の結果としてとらえられます。

 さらに政府(政策)の側でも、正義を実現すること、不正義、違法行為を防止すること(犯罪をゼロにすること)が目指されるのではなく、何らかの形で犯罪と定義され量的に測定されたその量に対して、その量を減らすこと、同時に、そのために必要なコストも何らかの形で量的に定式化し、そのコストの量も減らすこと、が目指されます。

 何を犯罪とするか、それがどの程度の頻度で生ずることを許容するかは、統治者(政府の政策)の問題であって、この新自由主義的経済学にとっては関心事ではありません。

 それにとって重要なことは、それが様々なあらゆる住民統治の必要性に対応して、合理的テクノロジーを提供できるものとして、統治者に認められるということです。

  以上のように、新自由主義を統治のテクノロジーとしてとらえるフーコーの視点は、卓見であり、しかもそれが1978年、79年といった極めて早い時期に表明されていたことは、驚くべきことです。

 しかし他方で、私は、フーコーがそれを合理的なテクノロジーとして、無矛盾的なもののように評価していることには賛成できません。

 私は今、国際的なファシズム体制が形成されつつある中で、その前にあった新自由主義は、国家と資本に奉仕するテクノロジーであると同時にイデオロギーでもあり、その外見は合理的に見えても、その本質は野蛮なものであることが明らかになってきたと考えます。

 フーコーは、新自由主義を国家や資本主義の発展と結びつけて議論することを、意識的に避けているように見えます。 

 フーコーの議論では、何故、より昔からあった新自由主義が、1970年代の末に採用され有力なものとなっていったのか、説明されていません。

 次回に、新自由主義が、テクノロジーとしての新しさを持つものであることを別の角度から確認しつつ、フーコーの議論の限界を、国家、資本主義と関連させつつ、もう少し突っ込んで議論します。