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hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

<私の憲法論> 無血革命としての象徴天皇制 V (歴史を通じた人権の徹底を--象徴天皇制廃止の展望(7))

 憲法第1条を論じようとして、「本丸」に辿り着く前に、予定以上に長くなってしまいました。悪い癖です。

 「厳密」と称して、何をぐだぐだと言っているのだ、という疑問があるのが当然でしょうから、ここで、もう一度私の意図を明らかにしておきます。

 第1条の共和制主義派の解釈は、次のようなものだと思います。

 以下で<X>は、天皇を指します。

 

第1条 

(かつて<X>は、<大日本帝国憲法によって規定された国家>を実質化する存在であった。しかし、今は、)

<X>は、<日本国憲法によって規定された国家>の象徴にすぎない。

(かつて<X>は、<大日本帝国憲法によって規定された臣民が一体的な存在であること>を実質化する存在であった。しかし、今は、)

<X>は、<日本国憲法によって規定された国民が一体的な存在であること>の象徴にすぎない。

 

 これを「天皇無力化」論と呼ぶことができるでしょう。かつては実質的な力を持っていたことを認めた上で、現在はそれはない、という解釈です。

 この解釈は、歴史的経緯を踏まえれば自然な解釈です。立法者意志(GHQにおいて憲法作成に関わった人々の意図)もそれだったでしょう。

 しかし時間の経過を経た上で、憲法が規範であることを考えれば、この第1条も、規範的な性格(この憲法が抱いている基本的な価値を積極的に展開しようとする性向)を強めた解釈が出てくるのが、自然・当然だというのが、私の主張です。

 つまり、天皇無力化」論では、「象徴」は「象徴にすぎない」というようにつまらないものとして扱われますが、私の解釈では、「象徴」は、この憲法が抱いている基本的な価値を積極的に認める存在、この憲法的価値を認めた上でその価値を象徴する存在としての象徴です。そこでの「象徴」は、憲法的価値の象徴であり、重要、大切なものとなります。

 そこで、私の解釈は、次のようになります。

第1条 

<X>は、<日本国憲法によって規定された国家>の象徴でなければない。

<X>は、<日本国憲法によって規定された国民が一体的な存在であること>の象徴でなければならない。

 象徴とは、ここでは、日本国憲法が示すあるべき価値を積極的に象徴化して表現したものである、とされます。

 その上で、<X>がそのような存在でなければならない、とされるのです。いわば、「憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論です。

 天皇無力化」論も「憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論も、<X>が「憲法的価値によってがんじがらめなっている」ことを認めます。

 ただ前者は、この「がんじがらめ構造」によって<X>が無力化されるに止まるのですが、後者では、<X>が無力化された後、さらに、<X>が「憲法的価値に奉仕する」ことを求めるのです。

 私は、両者ともに、ぱっと目には説得力があるが、それぞれ異なったタイプの難点を抱えていることを認めます。

 そのことについては、回を改めて議論するとして、結論的に、私は憲法的価値に奉仕する象徴天皇」論の立場に立ちます。

 その場合、共和制主義者としての私にとってどうしても必要な作業が、この第1条に示された「日本国」「日本国民」「国民の総意」を厳格にとらえておくことです。

 そうしないと、憲法的価値に奉仕する」という意味が曖昧になり、そこに、憲法的価値に反対のものが入り込む可能性すら出てきます。

 そうした可能性を徹底的に排除しよう、というのが、私のしつこい議論継続の意図です。

 つまり、この第1条は、規範として理解する時に、<X>が、「日本国」「日本国民統合」「国民の総意」によって完全に規定されていることは明らかだと思います。

 したがって、この規範に実質的な効力を与えるのであれば、「日本国」「日本国民統合」「国民の総意」についての厳格な解釈が必要だ、というのが私の考えです。

 それらの中に、伝統的な権威とか伝統的なまとまり、とかの意味不明の伝統的なもの、曖昧なものが入っていないようにする、ことが必要です。

 そうした立場から、今回は、英訳日本国憲法にある英語表現を見ながら、今まで議論してきたことを説明する形で、日本国憲法にある<国家>や<国民>が何なのかを明らかにし、それによって、これらの中に、「意味不明の伝統的なものが入っていない」ことを、しつこく確認します。

 「国民」と「国家」の関係を規定するのが、近代憲法の本質的な構成要素です。

 それは、ヨーロッパ起源なので、日本国憲法も、英語表現のほうが基本的論理を理解したり、それに沿った展開を理解しやすいという面があります。

 英語で「国家」にあたる部分を見ますと、the stateとなっています。「国民」はthe peopleです。

 stateは、一般的な意味は、統治機構ということです。

 英訳日本国憲法に現れるstateは、すべて具体・固有の日本国憲法の規定する統治機構としての日本国家で、それはthe stateあるいはthe Japanese stateとして表現されています。

 日本語の日本国憲法の中では、the stateやthe Japanese stateが、国や日本国と「訳」されています。

 「訳」されています、と「」をつけたのは、公式的には当然日本語の日本国憲法が正式のものであり、英語から日本語に「訳」されたという言い方は、おかしいわけですし、事実関係についても、どのようなプロセスがあったかは完全にはわからないので、通常の意味での「訳」といっていいか断定できない、といった事情を反映させつつ、しかし、ほぼそういっていいだろう、という意味です。

 ただ、以下では一々「」をつけるのはうざいので、省略します。

 まず訳として、国ではなく、国家した方がstateの語感に近い、より限定性の高い日本語表現だと思います。

 何故なら、stateは、統治機構--統治機構に属するメンバーが、統治機構外の人々を統治する装置--を意味しますが、日本語の語感では、国というより国家の方がそうした語感に近く、そのような限定性が比較的明確な言葉だからです。

 次に、the peopleを見ましょう。

 <the people>や<the Japanese people>は、<国民>や<日本国民>と訳されています。

 the peopleを国民と訳するのは、適切ではありません。ではどうしたらいいか、というと完全にぴたっと当てはまる日本語がない、と思います。<人民>が適切な場合もありますが、必ずしも、いつもそれがぴったりと当てはまるわけではありません。

 だからこそ、こうして英語表現に基づいた理解も有意義なわけです。

 the peopleという言葉は、一般的な概念としては、どのようなものでしょうか。

 私は英語ネーティブではなく、また、そうしたことが十分にわかるほど英語の勉強をしたわけではありませんが、想像するに、もとはといえば、the peopleは「人々」「普通の人々」というような語感の言葉だと思います。そこに、定冠詞がつくと、「あの人々」「あの辺りに住んでいる人々」という感じになります。自分達とは異なったところで、自分達とは異なった言語や文化を持って(集団的に)生活する人々を、the peopleと呼んでいたのでしょう。

 このことから、英語のthe peopleの一般的な意味、具体的な時代や地域を限定しない一般的な概念としては、<ある地域のまとまった住民>を意味することとなります。

 以上の英語表現の検討だけからも、the stateとthe peopleの関係について、重要な次の3点がわかります。

 第一は、the peopleは、the stateがない時代から存在するもので、この意味で、歴史的事実としても概念的にも前者は後者に先行して成立したものである。

 第二に、the stateが誕生してからは、the peopleが統治の対象となる。

 第三に、上記の第二で示された両者の関係の発展過程は、上記第一で示された出発点の関係を出発点としている。

ということです。

 上記の第三が言いたいこととしては、まず、歴史的事実としても論理的にも、一つのthe stateと一つのthe peopleが一対一対応していない段階があるということです。

 ところが、近代国家ができて来ると、一つのthe stateと一つのthe peopleが一対一対応するようになります。一つのthe stateの統治する領域の住民すべてが、一つのthe peopleとして統合されるようになるのです。

 このようなこと--the peopleがthe stateと別のもの・独立的なものであるところから、両者が密接に結びつくようになる--の認識を、英語表現だと、より明確に持つことができるのではないでしょうか。

 このような近代国家として、歴史的に絶対君主国家とそれを革命によって壊して生まれる共和制的(主権在民)国家があります。

 ここで、ついでに扱っておいた方がいいnationという言葉についても、議論しておきたいと思います。

 ただまたしても、だいぶ長くなってきたので、途中ですが、次回に続けます。