hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

祝 「板門店会談・宣言」――非常識で傲慢な日本のメディア2

 最近の米朝会談をめぐる報道も、非核化のみの狭窄的視点が続いています。何でこのようなことになっているのでしょうか?それによって何が見えなくなっているのでしょうか?

 問題は、<(i)北朝鮮の非核化>と<(ii)「板門店会談・宣言」>、<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>、<(iv)米朝会談>、との関連をどのようにとらえるか、ということです。

 私が、視点の狭窄化と呼んでいるのは、(ii)(iii)(iv)のすべてを、(i)の視点のみから理解、評価しようとする視点、立場のことです。

 この狭窄化した視点、立場からは、<(ii)「板門店会談・宣言」>の「最大の課題(毎日新聞社説)」、「最大の焦点(東京新聞社説)」、「最も注目された(朝日新聞社説)」たことが、<(i)北朝鮮の非核化>とされます。

 またそこでは、<(ii)「板門店会談・宣言」>は、<(iv)米朝会談>への「橋渡し(毎日)」、「米朝首脳会談に向けた予備協議の色合い(朝日)」、「『完全な非核化』という表現で宣言文に盛り込むことを目指し・・・米朝首脳会談につなげる考えだった(東京)」という位置づけがなされます。つまり、本番、重要なのは、<(iv)米朝会談>である、というわけです。

 これらのメディアにおける<(iv)米朝会談>への主要な関心は、最近の報道紙面でも明らかですが、それは米側がいかに「完全な非核化」要求を貫徹させ、北朝鮮がそれを受け入れるか、つまり、<(i)北朝鮮の非核化>ということにあります。

 そして、これらの狭窄的視点では、「板門店宣言」で言及されている<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>のオリジナルなイニシアチブとしての極めて重要な意義がとらえられず、言及されてもすぐその関心は、<(i)北朝鮮の非核化>や<(iv)米朝会談>に移される形でしか言及されていないのです。

 これに対し、私は前回、会談・宣言に関して、そのあるべき評価基準とは、

まずそれが現在の危機回避にどう貢献したか、ということであり、また今後の平和構築にいかに貢献し得るものか、ということにあります。

 と書きました。

 この私の視点、立場からは、「板門店宣言」で述べられている<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>は、根本的重要性を持つものであり、韓国と北朝鮮が合意して目指す非核化は、その<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>の支えがあって、安定的に実現し、完全化していくもの、つまり彼らの合意においては、<(i)北朝鮮の非核化>と<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>を一体化させようとする意志が存在する――(iii)を基礎にしないと(i)のプロセスは結局不安定化、不調化してしまうという了解が存在する――と考えます。*1

 「宣言」の該当部分を読んでみましょう。 

南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣⾔し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北⽶3者、南北⽶中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。

 ここで重要なのは、「今年」という時限を与えていることです。これは、明らかに<(i)北朝鮮の非核化>のプロセスを、<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>と関連づけることを意味しています。

 そしてそれは明らかに、<(i)北朝鮮の非核化>を無条件の絶対的な基準とする一方的制裁的な態度・アプローチではなく、対話・交渉のアプローチの中で、終戦・平和体制を構築し、その中で<(i)北朝鮮の非核化>を安定的に持続、完全化させる形で実現していくことを意味します。

 つまり、終戦・平和体制構築とは、そこで米国が不可欠でかつ極めて重要な役割を果たすことは当然ですが、同時に米国がこの対話・交渉のアプローチの枠組みの中に組み込まれること、米国が一度このアプローチに乗った後は、勝手、一方的に、制裁的・軍事的アプローチに切り換えたりすることを困難にすることを意味しています。

 つまりそれは、<(i)北朝鮮の非核化>のみを意味するもの、あるいは、それのみによって事態の進展が行なわれ、そのすべての評価がなされるようなものではなく(一方的な制裁的なアプローチではなく)、米国も何らかの譲歩を行ない(対話的アプローチをとり)、そうしたアプローチを長期的に安定化することが、北朝鮮に対しても保証されるということです。

 こうした視点からいうと、<(iv)米朝会談>はむしろ、<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>への橋渡しという性格を持つとすら言えるのです。

 もちろん、<(iv)米朝会談>は、実現するにしてもしないにしても、決定的な重要性を持つことはいうまでもありません。

 万一、<(iv)米朝会談>が実現しない、あるいは実現しても合意に失敗して決裂ということになれば、それは、確実に米国による戦争断行の可能性を非常に高めるものとなるでしょう。

 しかし、ここで日本の多くのメディアの論調を見ていますと、<(iv)米朝会談>が実現しないことを望むかの如くです。<(i)北朝鮮の非核化>だけを絶対確実に実現することを求め、<(iv)米朝会談>が実現するとしても、なんら譲るべきでなく、見返りを与えるべきでないかに主張し、まるで本心ではそれが決裂してほしいかの調子です。だがそれは、米国による戦争への道であり、それを正当化するものであり、朝鮮半島のすべての人々だけでなく、日本にとっても極めて危険な道です。

 実は、こうした強硬的な態度は、強い意志や決断力の表れではなく、逆に、私が前回指摘した「主体性の欠如」の表れでもあります。自分の頭で、日本のおかれている危険な状況をとらえ、それからどのように抜け出すのか、という判断を下すことが、全くできなくなっているのです。

 そうした判断はすべて米国にまかせて米国の言うままに「判断」し、後は、自分達は米国を親分とするシステムにおいて、第1番の子分を自認して――自認というより、自分勝手にそう思い込んで――欧米諸国以外の他国にはえばりちらす、という姿勢を、日本のメディアもまたとってきたのです。

 こうした態度は、安倍ファシズム政権の特徴ですが、実は同時に、ほとんどの日本のメディアにも特徴的なもので、それはさらに日本全体を覆う主体性の欠如現象の因となり果となっています。

 この米国に従属することによる<米国にとっての第1の子分>意識の醸成は、かなり古くからなされてきたものですが、安倍ファシズム政権の成立や日本の様々なパワーの凋落という事実によって、今日、この意識はさらに強化されています(白井聡『国体論 菊と星条旗』参照)。

 この<米国にとっての第1の子分>的意識は、韓国の保守・支配勢力の中でも、別の形であるように思えます。朝鮮戦争以来の米国への特殊な依存関係、その下での経済成長、といった条件は日本の場合と類似するものであり、支配層を中心として、そうした意識を醸成するものとなってきたのではないでしょうか。

 彼らやその意見を反映する韓国のメディアの一部もまた、「板門店会談・宣言」に懐疑を示し、反対するような言論を広めようとし、展望もないまま、北朝鮮との妥協を排し、徹底的な即時の<(i)北朝鮮の非核化>を唱えているかに見えます――米朝の対話が実現しない場合、一番の多大、深刻な被害が及ぶのは、韓国と北朝鮮の人々である可能性が非常に濃厚であるにもかかわらず。

 幸いなことに、ろうそく革命で生まれた韓国の新政権は、前回述べたように、破局を回避し、さらに、平和構築を目指す現実的な道へのイニシアチブを発揮しています。

 私は、今回の「板門店会談・宣言」実現に関して、文大統領のイニシアチブは大きいと思いますし、また、文大統領のイニシアチブが、米大統領トランプとのおおまかな了解の感触を得ながら進められたであろうと想像します。

 ただ、だからといって実際に、文大統領や「板門店宣言」が予定、希望した通りに、<(iv)米朝会談>が実現し、<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>が予定、希望した通りに実現する、というほど国際政治は甘いものではない可能性があります。米国の力は極めて大きく、関係国との合意やこれまでの経緯を無視して、いきなり何を起こしても不思議ではありません。

 特に、トランプが大統領に就任して以来、彼と米国の既存の支配勢力・ネオコンとの関係は、どのようなものであったのか、それが今後どのようなものになっていくのかは、推測しがたいことです。そのことが、当然、この平和体制構築の問題に即影響を与えるのは確かです。

 しかし、現時点において、この「板門店会談・宣言」という両国の合意、イニシアチブ(<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>を根本においた<(i)北朝鮮の非核化>、対話的アプローチ)はとてもすばらしいものであり、私達もこれを支持し、大切にしよう、と訴えたいと思います。そして、それが国際的常識です。

 ところがすでに述べたように、日本のメディアは、非常識な狭窄的視点を今も持ち続けながら報道を流しており、自らの主体性の欠如について全く自覚がないようです。

 そして恥ずかしいことに、「板門店会談・宣言」を素直に受け止め、歓迎することができず、そのオリジナルなイニシアチブの価値を認め、評価することができず、無内容に偉ぶった態度をとっています。

 メディアの自覚を促すために、もう一度、毎日、朝日、東京の4月28日付けの新聞社説を引いて、具体的に議論しておきます。

 各社説とも、「板門店宣言」の中に明記された<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>の重要性を無視することはできずに、それを取り上げているのですが、「宣言」に明白に見てとれる両国の平和構築のためのイニシアチブを正当に評価しようとしません。

 朝日新聞社説では、前回も指摘したように、

「宣言の他の中身は、07年の前回に出た南北共同宣言から大きな進展はなかった」「非核化も平和構築の問題も、南北だけでは解決できないという限界も浮き彫りにした」

と、半ば否定的な断言がなされています。

 では、この「限界」をどのようにとりはらうべきだというのでしょう?それは、一応、「南北当事者と国際社会の協力が欠かせない」と述べているのですが、読み進めていくと、具体的には、次のように米国頼みなことが分かります。

「段階的に非核化をめざした過去の合意を生かせなかった失敗を繰り返さず、なおかつ、芽生え始めた和平の動きを摘んでしまわない。[トランプ氏に]そんな巧みな配慮と外交戦術が求められる。

 ・・・文氏は5月に訪米する。トランプ氏は謙虚に耳を傾け、本格的に朝鮮半島の将来像を考えた政策を打ち立ててほしい。

 韓国や北朝鮮の主体性、その主体性の表れである両国の交渉成果を正当に評価できないこの社説の姿勢は、次の文にも表れています。

今回の南北会談に続き、米朝会談の結果次第では、北東アジアの枠組みや構造が大きく変わる契機となる可能性がある。

 この文では、「大きく変わる契機となる」に関わる主語が何か不明ですが、実質的に米朝会談――つまり米国の政策――に決定的な意味が与えられています。そのような重大な契機を作り出したイニシアチブが南北会談にあることを、極力避ける表現がなされているのです。明らかに、南北会談・宣言こそ、そうした「大きく変わる契機」を作り出したイニシアチブであったにも関わらず、です。

 毎日新聞では、「きのうの会談では終始、南北融和ムードが演出された」と、会談の意義をムード、演出と斜めから見ます。

 ただ、「宣言」の中に、終戦宣言、平和協定締結の項目があることは、次のような形で触れています。

休戦状態が完全な終戦に向かえば、日本をはじめとする北東アジアの安定化に大きく寄与する。年内と区切ったのは、北朝鮮の非核化を同時に進める狙いがあるのだろう。

  この「北朝鮮の非核化を同時に進める狙いがあるのだろう」といった書き方は、「宣言」において極めて重要なこの部分が、韓国と北朝鮮の合意を表すものというよりも、まるで、韓国の「狙い」をより強く反映している、というような毎日新聞の社説の著者の歪んだ認識を示すものです。

 しかし、それにしても、これは<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>と<(i)北朝鮮の非核化>を一体化してとらえる、私が提示した視点に近いようにも見えます。

 ところが上記の文章には、次の文が続いています。

そうであればこそ、日本やロシアも加わる枠組みが必要だ。・・・韓国政府は、地域の平和構築に向けた協議の重要性を改めて検討すべきだ。

 つまり、「板門店宣言」にダメだしをして、日本やロシアを加えろ、そういう案に作り直せというのです。何と言う傲慢!

 また、毎日新聞も、今回の「板門店会談・宣言」が「大きく変わる契機」となり得るとした朝日新聞と同様、「好機」というとらえ方を次のように示しています。

 北朝鮮は核保有国としての立場に変化はなく、米国と軍縮交渉に臨むに過ぎないとの否定的な見方と、場合によっては核放棄を含めた大胆な決断もありうるとの観測が交錯している。

とはいえ、北朝鮮核問題解決に向けた好機との見方は関係国の一致するところだ。合意履行が不十分な状況での行き過ぎた融和政策は禁物だが、信頼関係構築に向けて努力すべき時でもある。

 ここでは、平和体制の構築という表現ではなく、「北朝鮮核問題解決」という表現(つまり、<(i)北朝鮮の非核化>の視点による表現)が用いられています。しかし、「信頼関係構築」という表現が現れていることから見て、これは実質的に、平和体制の構築、そのための対話的アプローチを意味していると見て良いでしょう。

 このような重要性を持つ「好機」が、「板門店会談・宣言」によってもたらされた、ということを絶対に述べようとしないことも、既に見たように朝日新聞の場合と同様です。

 「板門店宣言」が、<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>を提起していること自体のオリジナリティ、イニシアチブに言及することなく、そうした努力を評価することもなく、無視し、その合意提案の中に対話的アプローチが含意されていることについても、言及していません。

 東京新聞の社説についても見ておきましょう。

  関連部分を下記にコピーします。

[E]

 (dec1)さらに発表文には、朝鮮戦争(一九五〇~五三年)について、区切りをつける「終戦宣言」が盛り込まれた。

 (com1)朝鮮戦争は休戦中であり、法的には戦争が継続している。

 (dec2)南北は「いかなる武力もお互いに使わない」とし、平和的な共存を宣言した。(com2)北朝鮮は体制の存続に安心感を抱き、核放棄へ踏みだしやすくなるだろう。

 (com3)朝鮮半島の緊張状態を根本的に解消するには、朝鮮戦争の正式な終結が欠かせない。

 (com4)今後、南北朝鮮、米中の関係国首脳が集まり、この宣言を再確認したうえで、休戦協定を平和協定へと早急に切り替えるべきだ。

 (dec1)等と表記された文は、宣言を紹介した部分、(com1)等と表記された文は、「社説」による解説・コメントです。

 この[E]の(com4)までの部分は重要ですが、不正確でわかりにくい書きぶりになっています。何回読んでもよくわかりません。しかし、ここでの核心は、「終戦宣言」「停戦協定」「平和協定」のあたりだ、ということは直感的に見当がつきます。

 そこで、こういう時は、アカデミックな研究と同じように、オリジナル――ここでは、「板門店宣言」――に戻って該当部分がどうなっているのかを調べ、そこでいっていることを理解するのが早道です。

 その該当部分は、既に、今回のこのブローグの比較的最初の方に、記した通りですが、もう一度ここにコピーしておきます。

南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣⾔し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北⽶3者、南北⽶中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。

 これと比較しますと、「東京新聞社説」は、まず「宣言」の中身をうまく紹介できていないことが分かります。

 以下は、私が「宣言」の各条項の順番に従って、内容も「宣言」に忠実に書き直し、コメントも分かりやすいように少し書き直したものです。 

(dec2)’南北は「いかなる武力もお互いに使わない」とし、「相互不可侵合意を再確認し、厳守する」ことに合意した。

(com1)’しかしなお、法的には、朝鮮戦争は休戦中であって、戦争が終わったわけではない。

 (dec1)’そこで、その完全な終結を目指して、次の合意が盛り込まれた。「南と北は停戦協定締結から65年になる今年に、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で強固な平和体制の構築のための南北米3者、南北米中4者会談の開催を積極的に推進していくことにした。」

 こうすると、「終戦宣言」「停戦協定」「平和協定」の意味、それらが「板門店宣言」のどこに出てくるのか、正確かつ明快に理解できるでしょう。

 そしてまた、「板門店宣言」の重要な意義が──平和構築のための重要な意義が──ここにあることがわかってきます。

 朝日新聞の社説が、「板門店宣言」を2007年の共同宣言と変わらないと評していたことを紹介しました。しかし、「板門店宣言」は2007年の共同宣言と異なり、「平和協定」締結について、既に指摘したように「今年」という期限を明示していることが重要です。

 それは、<(ii)「板門店会談・宣言」>、6月予定の<(iv)米朝会談>、さらに<(iii)今年中の終戦宣言(平和協定締結)>が一体的なもの、一定の方向を持つようにするイニシアチブ(提案)です。

 巷において、ノーベル平和賞が語られているのは、それらが一体的なものとして理解されていて、また、それが成功した場合の多大な平和への貢献が理解され、あるいは感じられているからでしょう。

 ところがどうでしょう!――東京新聞の「社説」では、このすばらしいイニシアチブがあたかも「社説」の著者による提案というものであるかの書き方にになっています――「社説」の著者が書いたはずの(com4)を読むと、それは、今言及した「宣言」のイニシアチブ(提案)とほぼ同じものです。

 「社説」がこれを自らの提案の如く提示するのは、「社説」の著者による「宣言」からのパクリというべきものであるばかりではなく、このパクリによって、「宣言」のオリジナルな重要な意義もまた隠してしまうことになっているという点で、強く批判されるべきものです。*2

 せっかく、「(com3)朝鮮半島の緊張状態を根本的に解消するには、朝鮮戦争の正式な終結が欠かせない。」という適切なコメントをしているのに、何でこんなことになってしまっているのでしょうか?

 私は、ここにも、「板門店宣言」のオリジナリティ、イニシアチブをすなおに認めようとしない心理が働いていることを感じざるを得ません。

 私は、日本が和平体制構築に積極的に関わっていくべきだと考えますが、それには、「板門店会談・宣言」の意義を受け止め、歓迎する態度、そこに協力的に参加していく態度を明確にすることが不可欠な前提だと思います。

 実は、この不可欠な前提は、すでに5月9日に開かれた日中韓会談の共同宣言に日本政府も署名したことによって満たされているはずです。それは、次のように述べています。

・日本及び中華人民共和国の首脳は,2018年4月27日の・・・「朝鮮半島の平和と繁栄,統一のための板門店宣言文」を特に評価し,歓迎する。

・我々,日本,中華人民共和国及び大韓民国の首脳は,南北首脳会談の結果を踏まえ,特に,来る米朝首脳会談を通じ,関係国による更なる努力が,地域の平和及び安定に向けた関係国の懸念の包括的な解決に貢献することを強く希望する。

・我々は,朝鮮半島及び北東アジアの平和と安定の維持は,我々の共通の利益,かつ,責任であることを再確認する。我々は,この目標に向かい,共同の努力を強化していく。

 

 これはまた、私が以上で述べてきた私の視点からの「板門店宣言」理解と基本的に同じものといえるでしょう。

 ところが、5月19日現在なお、日本政府も、この公的に採用したはずの態度を真摯に実践しているようには見えませんし、日本のメディアも態度を改めているようには見えません。

 主体性を喪失しつつ、傲慢さにしがみつく病状は、やはり重くて、そう簡単に治らないもののようです。

*1:私の立場は、基本的に世に倦む日々氏がツウィートやブローグでこの件に関して書かれているものに依拠、参照したものです。

*2: (com4)には、「この宣言を再確認したうえで」という文言があります。これは、パクリを行なう学生や質の悪い研究者が、パクリの指摘を受けた時に「これが『宣言』からの引用を意味している」と言い訳に使うためのものかもしれません。もちろん、そのような言い訳は通用しませんが。