hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

共謀罪法反対のために私達はどうすればいいのか--あかりちゃんを想い起こす

 一昨日(4月6日木曜)、日比谷公園共謀罪法に反対する集会、デモ、国会請願に参加してきました。「総がかり実行委員会」と「共謀罪NO!実行委員会」主催で、3700人集まったそうです。

 久しぶりに、野外音楽堂の中に入ることができました。先々週の国会前行動は500人、先週も500人、今回は大集会でこの人数ですが、ともかく、運動を続けている方々に敬意を表します。

 私は安倍政権をファシズム政権と考えており、早くそれを倒さなければ、国内的な政治抑圧のさらなる進行、対外的な戦争が必至であると思います。

 では、どうしたらいいのでしょうか。

 今まずは、こうした集会に参加していくこと、様々な形で意思表明していくこと、それ以外こうすればいい、とういような特別な方法を私は思いつきません。

 一人でも私達のこうした集会への参加者を増やすために、一人でも私達の運動への共鳴者を増やすために、ちょっと気になったことを書きます。

 最初に私が言いたいこと、結論にあたることを書いておきます。

 私が想い起こすのは、2015年の戦争法反対運動の時のあかりちゃんの素敵な言葉です。

 ここに、もう一度コピーします。

 

 

【あかりからのお願い】 終盤戦だからこそ、 内向きの盛り上がりに酔わないで。 自分たちの外側にいる人たちに語りかけて。 感動するのは後でいい。 感慨は5秒で捨てて、冷静に。 あなたの言葉は「いまやっと気付いた遠くの誰か」のためにある。 言葉を外へ。 丁寧に。丁寧に。 

 

 

 今は、共謀罪反対運動の序盤戦です。しかし、これまでの闘いで多くの人は疲れています。あかりちゃんがいうような内向きの盛り上がりに感動するというのではなく、「何でまわりの人々がこの酷い政権の危険性に気づかずに、支持し続けるのか」いらだちで、ちょっと言葉が乱暴になってしまう可能性を感じます。

 あるツイッターでは、安倍支持の国民をバカ呼ばわりしていました。

 そうではなく、

あなたの言葉は『いまやっと気付いた遠くの誰か』のためにある。 言葉を外へ。 丁寧に。丁寧に。」

語りかける必要があります。

 新しい気持ちで、丁寧に話をしないのならば、そんなのは誰も聞いてくれなくて当然です。

 日比谷公園集会に、創価学会の旗を掲げている参加者がいました。私もおやっと気づいたのですが、ところがある人が、「裏切り者の公明党」と怒鳴りました。すると、その創価学会の参加者は、「そんなことをわざわざここにきている私に向かって言って何の意味がある。はらわたが煮えくり返る」と怒りました。

 その創価学会の人が怒るのはもっともです。

 私達の心の中には、同じような闘いをまたしんどいな、というような気持ちがあること自体は当然だと思います。

 しかし、気持ちを切り換え、新たな気持ちで、丁寧に共謀罪法の危険を語っていって、運動をひろげていきたいと思います。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編7)--ポパーのピースミール工学とフーコー

 今回は、フーコーによる新自由主義を統治テクノロジーとしてとらえるという視点を、ポパーのピースミール工学という論点と関わらせて議論します。

 私の見落としでなければ、フーコー自身がポパーに触れた箇所はないようです。しかし、フーコー新自由主義の議論を社会思想の中に正しく位置づけるには、それを工学、社会工学の流れに位置づけて理解する必要があります。

 フーコー思想は、フランス現代思想という枠組みで紹介され、それは構造主義ポストモダンというような流れの中で語られるのが普通です。

 専門研究者の研究はどんどん専門化して大きな流れ、重要な背景が見えなくなっています。すでにフランス現代思想という枠組み自体が、専門化した狭いものになっているように感じます。

 しかし私は、フーコーの統治テクノロジーという発想に、社会工学的な発想・アプローチ、その発展というものが直接的、間接的に影響を与えていたことは疑いのないことだと思います。

 私がそういうのは、文献的な証拠をすぐに示せるからではなく、フーコーのような人物が同時代的な社会思潮を知悉していない事はあり得ないと考えるからです。

 また、構造主義者達やフーコーの方法論は、当時の科学論をめぐる議論を意識したものであったことは知られています--ただし、このことも今日ではあまり触れられませんが。ポパーは科学論において重要な論者の一人でしたから、フーコーポパーを読んでいるのは当然で、その中には、ポパーの社会論も含まれていたと考えるのは自然です。

 私の今回の議論の結論的な構図を言いますと、①情報理論に体現される「新しい工学」の発展、そうした流れの中で、②社会工学の最新形態としての新自由主義、ということになります。

 フーコーの議論も、そうした構図を踏まえると理解しやすく、フーコーの貢献を--「フーコー的バイアス」から逃れて--改めて確認できます。

 まず、「新しい工学」というのは私の表現で、この100年くらいの間に、工学的な世界の中で、広い意味での情報の重要性が自覚化されてきて、それに対応した様々な理論や機械(特にコンピューター)の発展を支えたような工学的潮流を指します。

 工学のような理系の世界では、常に新しいものが古いものに置き換わるのが通常ですから、ある時点で「新しい」などと言ってもすぐ古くなってしまうので、わざわざ「新しい」などと言いません。

 そこでは、新しいものが古いものに完全に置き換わるので、古いものを完全に忘れてしまっていいのです。場合によっては、むしろ完全に忘れてしまった方が、新しいものがうまく機能すること、その理解を早め、容易にすることもあるくらいです。

 ただ私が「新しい工学」という言い方をしているのは、歴史的な視野からの特徴付けが必要だからで、この100年くらいの間の工学における質的な発展を自覚化、シェーマ化したいからです。

 それは、コントロールという分野それ自体、情報という分野それ自体の重要性の自覚の問題です。

 ものを動かすには、エネルギーがいります。しかし、コントロールという作業は、その部分はほとんどエネルギーを使いません。

 例えば、スイッチを入れて電灯をつけるとします。電灯は、電気エネルギーによって明るくなりますが、スイッチを入れるのは人間です。もちろん、人間がスイッチを入れる作業(電灯をつけたり消したりするコントロール作業)も、物理的なエネルギーを要しますが、電灯が要する電気エネルギーと比較すればわずかです。

 もし、スイッチを入れるという作業が面倒なものあったり、エネルギーもかなり要するものであったとしたら、そもそも「スイッチ」という概念から遠くなってしまいます。

 上記の例から、今、コントロール(統御)という概念を次のように定義します。

 

コントロール(統御)とは、潜在的なエネルギーを持つものを、思うように動かすことである 

 

 ここで、「潜在的なエネルギーを持つもの」の代わりに、「『自由な』人間」と置き換えれば、私が何を言いたいのかわかっていただけるでしょう。つまり、

 

新自由主義の統治テクノロジーとは、「自由な人間」を思うように動かすコントロール(統御)技術のことである

 

 人間活動のエネルギーは、「自由」があり、「競争」があるほど高くなるとします。

 すると、この「新しい工学」の視点からは、「自由」や「競争」を押さえ込むことが目標となるのではなく、むしろ、それらを「解放」「奨励」した上で、それをコントロール(統御)することが目標となります。

 工学の分野でのこうした視点の出発は、杉田元宜 [1977](『工学的発想のすすめ』(国民文庫)大月書店)によりますと、例えば次のような面白いものがあります(59ページ)。

 巨大な船舶が荒波で揺れるのを防ぐのに、スペリー方式という巨大ジャイロを用いた上での力づくで対抗する方式--古い工学的方法--から、元良方式では、(1)ジャイロから得られる揺れの方向という情報、(2)荒波の中での船の進行に伴う水力学的なエネルギー、の2つの組み合わせを利用した、船腹のひれの角度のコントロール--新しい工学的方法--へと代わったといいます。

 この元良方式は、1920年の発明です。

 杉田は、もっと古く単純な例として、帆船を挙げています。帆船は、風がないと動きませんが、風さえあれば、風と逆方向へも航行できます。

 ただ帆船は工学の成果ではないので、新しい工学ということはできません。

 また元良方式は、工学の成果という意味で、新しい工学と呼ぶことができますが、コントロール(統御)の分野の独自の重要性が、それが発明された時点では、方法的な意味ではまだ自覚化されていなかったことが、杉田によって指摘されています。

 情報理論サイバネティクス、コンピューターやIT技術の発展を伴いながら、コントロール(統御)の分野の独自の重要性が自覚化されていくのは、この100年間くらいの間の過程なのです。

 杉田が勧めている「工学的発想」とは、こうしたコントロール(統御)の自覚化の潮流に共通する新しい工学の発想のことです。

 すでに、この「新しい工学」の発想が、新自由主義の統治テクノロジーに対応していることを述べましたが、急いで、社会テクノロジー、フーコーの統治テクノロジーとの関連を述べます。ポパーの議論がここで出てきます。

 工学の根本的な精神は実践にあり、その使命と使命の実現方法は、明らかにされた目的に対し、その実現のための「機械」を創り出すこと、その機械の制作過程を具体的に提示することです。

 社会に対しても、統治という観点からこうした工学的精神や工学的使命・方法を適用する動きは、やはり、この100年間くらいのことです。

 近代国家の統治テクノロジーという意味では、それは、近代国家の誕生以来それは存在しますし、社会科学のかなりの部分が、そうした統治テクノロジーとして発展してきました。

 このことは、フーコーの問題意識そのものでしょう。

 しかし、自然科学をモデルとして、あるいは自然科学に基礎を持つ工学をモデルとして、統治方法を提出しようとする態度は、やはりこの100年くらいの間に始まったといっていいと思います。

 社会(科学)の分野で、工学的な発想に基づくものとして重要なものが、社会計画(経済計画)です。ソ連の1928年に始まる第一次5カ年計画が有名で、二次、三次、・・と続いた経済計画は、成功したものととらえられ、第二次世界大戦後は、発展途上国、資本主義国でも、計画がはやります。

 その特徴、前提、あるいは仮定は、中央の集権的な当局が作った計画に、下部組織が忠実にしたがって(したがわせて)全体が動いていく、というものです。

 マンハイムは、1935年に出版した『変革期における人間と社会』で、計画の重要性を論じています。

 他方、計画ではありませんが、重要な社会工学的政策として、ケインズ主義的な経済政策を見逃すことはできません。

 しかし、社会工学的なものが社会科学における重要テーマとして現れてくるのは、第2次世界大戦後であり、それは福祉国家の出現、形成と対応しています。

 それが、先に述べた社会主義的な中央集権的な計画に反対する、カール・ポパーのピースミール工学です。

 ピースミール工学を提唱した『歴史主義の貧困:社会科学の方法と実践』は、1957年の出版です。

 先に結論を言うと、ピースミール工学は、福祉国家の統治テクノロジーの思想、イデオロギーです。

 ピースミール工学は、社会科学全般の工学化を予告し、促進しました。そして、予告は実現したのです。今日のアメリカを中心とする社会科学は、多くが工学化しました。

 しかし私は、ポパーのピースミール工学の主張がなかったとしても、遅かれ早かれ、社会科学の工学化は進んだろうと考えます。何故なら、それは福祉国家が要請するものであったからです。またポパーのピースミール工学の主張がなかったとした場合は、「別のポパー」が現れた可能性もあります。

 あるいは別の言い方をすれば、ポパーの議論は、すでにその時に存在した社会科学の工学化の動向を直観し、それを意識化して表現したものであったといえるでしょう。

 少し横道に逸れますが、ただ不思議なことに、ポパーのピースミール工学の議論の中には、ケインズ主義的な経済政策に関する言及がありません。

 私が想像するに、それには2つの理由があるように思います。第1は、ポパーにとって彼の科学観、工学観からして、ケインズ的政策についての真偽をいいがたく、その意味で評価し得なかったこと、第2に、ピースミール工学は、中央集権的な計画による「革命」的な道に対抗する、漸次的な社会改良の理論なのですが、ケインズ主義的な政策は、社会改良(を維持し続けることが可能な)理論なのか明確でないこと、です。この第2の論点は、第1の論点に含まれている、ということもできます。

 ポパーは、社会科学の中では、経済学だけが科学の水準に達していると言いますが、それは数理経済学を指しているようです。ケインズの『一般理論』を私は読んでいませんが、それは非常に難解で、普通は解説書を読まなければ理解できないと言われています。しかもその内容は、むしろ数式を使った方が理解が容易になるはずなのに、それが使われていないというのです。

 もしかしたら、ポパーのように深い教養を携えた人物にとっても、数式的な表現があるかないかということと議論の明晰さとは等価物のようにとらえられており、その点でケインズは明晰さを求めるピースミール工学の範疇に認めることができなかったのかもしれません。

 しかし、今日的な眼、あるいは私の眼から見ると、ケインズ主義もピースミール工学の一つです。

 さて、ポパーのピースミール工学ですが、これは、漸次的工学と訳されたりしています。確かに、彼のいうピースミール工学という言葉には、そういうニュアンスも含まれていますが、まず、それは、積み木細工のように、部分部分をばらばらのもの(ピースミール)にして扱う、というニュアンスを込めたものです。

 ポパーの議論を少し敷衍して説明します。彼は、集権的に全体を扱う計画は、強制性、集権性を強めざるを得なくなり、不可避的に民主主義に反するものとなるというのです。したがって彼は、集権的に実行する(強制する)社会全体に関わる設計図を作成すること、それにしたがった行動(政策)を否定します。

 彼はまた、ピースミールの集合が関連し合って、全体を構成していることを認めますが、そうした全体の関連性を正確にとらえることは不可能であり、特にその時間的変化(歴史的変化)を予測したりコントロールすることは不可能であると考えます。

 それゆえ、先に述べたように、社会全体をかえていくための設計図というものを作るのは不可能であり、それを作り、無理矢理、実行しようとすると、その実行主体である集権体制は、不可避的に強権的な体制になっていく、ということになります。

 しかしポパーは、社会を把握したり、あるいは社会を動かすために工学的な手法、彼のいうピースミール工学を、むしろ積極的に推奨します。

 しかもそれは大規模なものであってもよい、というのです--それが失敗の可能性を認め、その場合は修正しながら--つまり漸次的に--進むということを明確にするなら。

 彼が考えている失敗の可能性、計画が予定通り進まない一つの原因として、「人間的要因」のもたらす不確定性があります。

 ここで彼は特に議論していないのですが、おそらくこの「人間的要因」とは、政治的価値としての個人の自由を含みつつ、また、広く人間的な要素全般も意味しているものと思われます。

 ところで、私は先に、「新しい工学」がこの100年の間に発展してきたとしたうえで、新自由主義の統治テクノロジーが、それに対応したものであることを示しました。

 では何故、ポパーのように、頭脳明晰で工学的な学問を高く評価していた人物が、「新しい工学」の動向を反映した議論展開をしなかったのでしょうか。 

 彼のように民主主義的な価値を唱えて、ソ連の集権主義に反対した理論家が、何故個人の自由を基礎にした「新しい工学」に対応する、いわば「新しい社会工学」を展開しなかったのでしょうか。

 その答えは、すでに述べたように、ポパーのピースミール工学は福祉国家が必要としたもの、福祉国家の思想、イデオロギーだったからです。

 福祉国家が必要としたのは、まず国家による介入を正当化し、導いてくれるものでした。

 ポパーにとって、個人の自由の尊重を前提としながら、科学的、工学的な態度を貫徹させるならば、国家による介入も、積極的に認められるものです。

 しかし、このような立場からは、個人の自由をも工学的観点から利用する、コントロール(統御)するといった新自由主義の統治テクノロジー(「新しい社会工学)は出てきません。

 この新自由主義の統治テクノロジー(「新しい社会工学)は、まさに、新自由主義国家の時代の思想、イデオロギーとして現れるのです。

 フーコー新自由主義論は、こうした工学、社会工学の発展と同時に新自由主義国家の誕生という、2つの文脈に位置づけるとより深く、かつ、わかりやすく理解できると思います。

 かなり長くなってしまいましたが、次回、もう少し工学的な視点の意義に触れた上で、フーコーの問題点を述べることにします。

安倍政権を倒す新た波を--民主主義の再生(ルネッサンス)としてのデモ

 23日(木曜日)、久しぶりに総がかり主宰の国会議員会館前の集会に行ってきました。

 テーマは、共謀罪法案反対でしたが、ちょうど折から籠池証人喚問があり、その報告も半分ぐらいを占めました。

 500人集まったとのことです。機動隊等の車はいっぱい配置されていたのに対し、こっちが少なくて残念です--たまに来て、こんなことを言えた義理ではないのですが。本当に、地道に運動を続けている総がかりの皆さんに敬意と感謝の意を表します。

 今のような政治状況の中で、民主主義とは何か、と問われれば、私はそれはデモや集会だと答えます。

 もちろん、選挙も重要です。結局は、選挙を通じてファシズム政権を倒さなければならないと思います。

 しかし、腐敗した不当な権力と対峙する集会やデモは、民主主義の原点であり、非常にわかりやすいシンボリックでかつ現実的なアピール力のあるものです。それは、窒息しつつある民主主義に、酸素を供給し、その再生をもたらします。

 だからこそ、腐敗・不当な権力はそれを忌み嫌い、弾圧し、マスコミによる報道を抑えようとします。

 共謀罪南スーダン自衛隊派遣、沖縄基地建設、特別立法の天皇退位制度、教育内容・教科書統制、内閣人事局を利用した行政の私物化、・・・・  

 現在の日本の民主主義は瀕死状況にあるが、またそれに対抗する運動を展開するチャンスもやってきた、と多くの人が危機意識を持ちつつ、今後に期待をつないでいると思います。

 私も、原点に戻って思考し、行動するつもりです。

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編6)--フーコーの新自由主義論とその限界C

 前々回、フーコーの二つ目のすばらしさとして、新自由主義の新しさを浮き彫りにしていること、というふうに述べました。しかし改めて読み直してみると、「浮き彫り」というには明確さに欠いており、レトリックのような部分や彼自身が思考を試行的に重ねている部分を感じます。

 ただし、分析に無理があるところや、レトリックが先行しているところは、フーコーの欠点というよりも、むしろ、普通の歴史研究者と違って、強力な現在の問題意識から過去を見ようとしている、フーコーのすぐれた感性、直感力の反映というふうに理解すべきと思います。

 そこで、ともかくフーコーの議論を私なりにまとめます。

 フーコーは、新しく現れてきた新自由主義の2つの源流に注目します。

 第1は、ドイツのオルド(秩序)自由主義です。この議論の新しい点は、①自由な市場において、その理論的重点は「交換」ではなく「競争」にあることを強調する、②国家の必要性、正当性は、自由な経済・社会関係を創り出す限りにおいてであることが明示化、自覚化される、ということです。

 ①の点について。生産のダイナミズムを創り出し、持続させ、さらに発展させるには、商品が自由に交換されることは必要条件の一つですが、企業や個人の自由なパワーを「競争」という概念に集約させて表現、把握する必要があります。政治的にも経済的にも、「国家からの自由」という概念だけでは、このダイナミズムを支える内的なパワーとしての「(自由)競争」の鍵的重要性がとらえれません。自由な競争を行おうとする企業や個人という主体が前提とされ、重要視されます。

 ②の点について。国家は、このような「自由競争」を創り出し、維持するために必要であり、そのためだけに存在理由(正当性)があるとされます。

 フーコーのオルド自由主義への関心は、それが、競争する自由な主体(企業)を育成し、独占化しないように維持すること、そうした企業によって社会が構成されることを目指す、統治理論という性格を持っていることによります。

 第2は、アメリカのシカゴ学派フリードマンに代表される新自由主義です。そこでは、あらゆる人間の行動が、したがって人間の行動の総体としての組織、制度、社会等が、ホモエコノミクス的な個人の原理から説明されるものとされます。

 フーコーは、このアメリカの新自由主義を、無政府自由主義と呼び、主にフリードマンの弟子であるゲーリー・ベッカーに言及しています。何故なら、ベッカーこそが、新しい統治技術としての新自由主義の現実的な可能性をすべての領域に広げていく理論的、方法的な基礎を具現化したからです。

 俗っぽい、しかし非常にわかりやすく「普遍的」な言い方をすると、すべての個人の行動を「損得勘定」で理解しようとするのがベッカーです。

 宇沢弘文は、 内橋克人との対談の中で、次のようなエピソードを語っています。

 

 今の経済学は、これまでのケインズとも違うし、あるいはマルクス経済学とも違う。経済学の原点を忘れて、その時々の権力に迎合するような考え方を使っていて、その根本にあるのが、やはり市場原理主義というか、儲けることを人生最大の目的にして、倫理的、社会的、あるいは文化的な、人間的な側面は無視してもいいという考え方がフリードマン以来大きな流れになっている。

 その考え方、がどういう性格を持っているかというと、私のシカゴ大学の後任者にB教授という人がいるのですが、彼はフリードマンの思想を極端な形でつないでいった人です。ある二月の寒い日のことだったのですが、 B教授が、食事会の席でこういう話をしたのです。その二週間ほど前、家に帰ると奥さんが13階の屋上から飛び降り自殺して雪の上に横たわっていた、まだ温かかった、と。それで彼は次にこう言ったんですね。「今度自分は自殺の経済学をやりたい」。彼の理論---それはフリードマンの理論でもあるのですが---ですと、奥さんは彼と一緒に生活する時の苦痛と飛び降り自殺した時の痛みとを比較して、自殺したほうが痛みが少ないから合理的に自殺を選択した、と。さすがのフリードマンも、その時はじっと黙っていました。

 

 宇沢弘文内橋克人[2009]「新しい経済学は可能か(4) : 最終回 始まっている未来(連続対談)」(『世界』第793号  July  33ページ)

 ここで宇沢がB教授と言っているのが、ベッカーのことです。

 こういう生々しい話は、その真偽を確かめることが困難であることもあり、学問の世界では語ることが避けられがちです。しかし私は、一般的にもベッカーの場合にも、ある学説が生まれてくるプロセス、環境を理解することは、その学説の歴史的位置、意味を理解する上で重要な一部をなすと考えます。

 それはさておき、さしあたってここでの議論では、宇沢の説明の細部が正しいかどうかは別として、ベッカーが妻の自殺後に自殺の経済学を構想し、その論文を執筆したということ、それは、同居生活の苦痛と自殺の痛みの合理的選択というアプローチに基づいたものであったことを理解すれば十分だと思います。

 ところで、フーコーは何故、フリードマンではなく、ベッカーに焦点を当てたのでしょうか。

 福祉国家が大きな仕事の領域にしていた教育や健康を含め、すべてのことがらを国家から解放し、市場に任せた方が良い結果をもたらすという、フリードマン市場原理主義な主張は、その根拠や主張の論建てが異なるものを含むにしても、基本的に古典的な自由主義と変わらないともいえます。

 しかし、ベッカーに至って価格のついたものが交換される商品市場を超えて、価格が明示化されていないような行動も含めた、あらゆる行動を合理的に理解する実証的な方法的(技術的)可能性が開かれたのです。

 私自身は、このようなラベル--あらゆる行動を合理的に理解する実証的な方法的(技術的)可能性--は、誇大なものであると考えていますが、ベッカーの方法がそのような外観をもたらすものであることは確かであり、経済学界と称する大きなサークルにおけるその追随者数は急成長し続けました。

 フーコーの統治テクノロジーという視点から見ると、ベッカーの方法論は、政府が狭い意味での経済的な市場を合理的な統治の対象とするに止まらず、すべての住民の行動を統治するための合理的な技術を提供するもの(そういう外観を与えるもの)といえます。

 実際、ベッカーの潮流に属する人々の論文を読んでいますと、政策という形で政府が個人の行動に影響を与えることについて積極的で、何のためらいもなく、政策ツールとしての自己のセールスに熱心なものが多いのに驚きます。もっとも、それはベッカー派だけではなく、アメリカの経済学文献の多くに共通することです。

 それらは、政策的介入への制限的な意識--いかに個人の自由を実現するか、その限りで政策的な介入が許される、といった自由自体に価値を見いだすことによって生ずるはずの意識--を全くと言っていいほど欠いています。

 そこでの自由、自由な選択とは、広い意味で個人が損得勘定をする(拡張されたホモエコノミクス)という意味と全く同じです。

 このことは、法(犯罪)の分野にこの方法論を適用した議論において、あからさまに現れます。つまりそこでは、犯罪者あるいは犯罪という行為も、自由の主体あるいは自由な選択の結果としてとらえられます。

 さらに政府(政策)の側でも、正義を実現すること、不正義、違法行為を防止すること(犯罪をゼロにすること)が目指されるのではなく、何らかの形で犯罪と定義され量的に測定されたその量に対して、その量を減らすこと、同時に、そのために必要なコストも何らかの形で量的に定式化し、そのコストの量も減らすこと、が目指されます。

 何を犯罪とするか、それがどの程度の頻度で生ずることを許容するかは、統治者(政府の政策)の問題であって、この新自由主義的経済学にとっては関心事ではありません。

 それにとって重要なことは、それが様々なあらゆる住民統治の必要性に対応して、合理的テクノロジーを提供できるものとして、統治者に認められるということです。

  以上のように、新自由主義を統治のテクノロジーとしてとらえるフーコーの視点は、卓見であり、しかもそれが1978年、79年といった極めて早い時期に表明されていたことは、驚くべきことです。

 しかし他方で、私は、フーコーがそれを合理的なテクノロジーとして、無矛盾的なもののように評価していることには賛成できません。

 私は今、国際的なファシズム体制が形成されつつある中で、その前にあった新自由主義は、国家と資本に奉仕するテクノロジーであると同時にイデオロギーでもあり、その外見は合理的に見えても、その本質は野蛮なものであることが明らかになってきたと考えます。

 フーコーは、新自由主義を国家や資本主義の発展と結びつけて議論することを、意識的に避けているように見えます。 

 フーコーの議論では、何故、より昔からあった新自由主義が、1970年代の末に採用され有力なものとなっていったのか、説明されていません。

 次回に、新自由主義が、テクノロジーとしての新しさを持つものであることを別の角度から確認しつつ、フーコーの議論の限界を、国家、資本主義と関連させつつ、もう少し突っ込んで議論します。

 

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編5)--フーコーの自由主義論と新自由主義論B

 フーコーの権力による人々の意識の支配という問題意識(これは、グラムシをつぐものです)から言って、彼が新自由主義を支配のテクノロジーとして捉えていたことは、彼の1970年代末の講演を知った今となっては、当然のことといえます。

 しかし、支配のテクノロジーとしての新自由主義という考え方は、もっと早くから知られるべきであったし、現在でもより広い人々に知られるべきものです。

 何故、早くから知られなかったのか、現在でも広く知られていないのかについては、後で述べることにして、フーコーの考えを私なりに紹介します。

 フーコーのすばらしい点は、新自由主義を第一に、国家統治における自由主義の歴史的な位置という深さから捉えようとしていること、第二に、新自由主義の「新しさ」を浮き彫りにしていること、です。

 第一の点を説明します。歴史的に自由主義が現れてくる時代というのは、国家がいわゆる法的な支配だけではなく、経済学的な「法則」というものに関心を持ち、それに「従う=(無視できないものとして)」政策を持ちながら、統治するようになっていく時代ということです。それは、国家が統治対象としての「住民な」のあり方(健康といった身体的な面や自由といった意識的面)に関心を持つことでもあります。

 ここで、フーコーは、「住民」と呼ぶ代わりに、「人口」という独特な言い回しをしていて、さらに、これと関連して彼の関心は、「人口」の健康・保健とか「人口の再生産(=性)」とかに繋げられていきます。

 私は、フーコーの「人口」よりも、「住民」と呼んだ方が、わかりやすいと思ってそう書いているのですが、普通の日本語では「国民」と呼んだ方がいいかもしれません。では、何故「国民」とせずに、「住民」としているかについては、長くなるので、ここでは省略します。

 ところで、経済学的な「法則」というと個人の意志を超えるという意味で「不自由」なように聞こえますが、しかし、これは「自由」な市場が支配的なものとして登場してくることを意味しているのです。つまり、少なくとも経済的領域では、自由な個人というものが現れてきます。まさに、資本主義(国家)の誕生ですね。

 つまり、従来の国家的な支配の中で、市場的な自由が広がり始め、むしろ国家がそうした市場的な自由が内在的にもたらす規則性(=「法則」)を認めて、国家運営、国家統治をする必要が生まれてきた、ということです。

 このような統治は何らかの意味で、個人の自由というものを認めるものであり、さらにいえば、認めながらコントロールし、個人の自由を「利用」する統治でもあります。

 市場的(経済的)コントロールではありませんが、このような個人の自由を「利用」した統治の典型として、フーコーが早くから注目したのが、ベンサムパノプティコンでした。

 パノプティコンは、ベンサムが提案した、監視の目はあるがどこからそれがなされているかわからない刑務所のことですが、服役している者達には様々な「自由」が与えられ、「自発的」に刑務所の規則に従い、刑務所内での「生産労働」に励むことを、ベンサムは目指していました。

 フーコーは、パノプティコンを「自由主義的統治の定式そのもの」と呼んでいます(フーコー,ミシェル [2008]『生政治の誕生 : コレージュ・ド・フランス講義一九七八-七九年度 (慎改康之訳)』筑摩書房p.82)。

 フーコーは、このように自由を「利用」した統治の始まりを語るわけですが、では福祉国家をどのように説明するのでしょうか。

 彼はそれを、「より多くの管理と介入によって」「自由を生産し、自由を吹き込み、自由を増加させる事、より多くの自由を導入すること」を行おうとするメカニズムだというのです。

 私はそれはちょっと無理のある表現だと感じますが、しかし、着想が面白いし、言いたいことはわかりますね。

 つまり、ここから--福祉国家の管理と介入の「過剰」に対する反逆、本来の自由主義の再建の企図として--新自由主義という新しい統治方法が生まれてくる、というのがフーコーの図式です。

 すでに、第二の論点に入りつつあります。フーコーの議論を、第一の論点から見ると、新自由主義の新しさはあまりないことになりますが、フーコー自身は、新自由主義は単なる復古ではない、といって新しさを強調している箇所もあります。

 次回に、フーコーの第二の論点を追い、学ぶべき点と批判的に扱うべき点を論じたいと思います--「資本主義の危機・終焉」と繋げるために。

 

 

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編4)--フーコーの役割と新自由主義論A

 新自由主義が現在の国際ファシズム体制へとつながるという話をするために、新自由主義のことを論じ始めました。そして新自由主義が広がった理由の2つめの説明として、新しい社会運動、新左翼全共闘などの体制批判派の中にも、政府(国家)や左翼政党・労働組合の幹部のコントロールからの解放され主体性を求める雰囲気が広がっていたことを指摘しました。

 こうした主体性の議論は、新自由主義とは全く違う出自を持っていますが、「権力」(=規制)からの自由をいう点で、共通性を持っています。

 1989年のベルリンの壁の崩壊、1991年のソ連の解体は、マルクス主義社会主義思想の凋落を決定づけましたが、それは、1970年代末より始動していた新自由主義を、事実とイデオロギーの上で圧倒的なものとしました。

 こうした状況の下で、多くの政治勢力、政治運動、社会運動は、反新自由主義を掲げることを止め、それどころか、それを前提とした体制・運動・活動構築を進めることになりました。

 まずその筆頭の重要なものとして、西欧の社会民主主義勢力を挙げることができます。ここでは、これ以上横道に逸れないように、詳しくは議論しませんが、1993年のEUの発足とその政策原理は、こうした新自由主義的な枠組みの中にあるものです。

 あるいは、NPO等の社会運動について見ますと、1990年代に飛躍的にその数が増えています。それは、国家や国際機関が新自由主義的な政策を掲げて福祉政策を後退させ、その後退させた福祉予算をNPO団体に振り向けるようになっていったことと対応しています。

 本来、体制に対する批判性が強かったはずのNPO等の社会運動の多くまでが、親新自由主義的になってしまったわけですが、それはどうしてでしょうか。

 その理由として、公的予算に依存するNPOの場合、その経済的依存があることは明らかです。

 しかし思想・イデオロギーのレベルを見ることも重要です。

 先に述べたように、体制批判派の中での旧左翼批判としての主体性論が唱えられる中で、社会主義国家の崩壊、社会主義思想の凋落があり、代替的な力強い理論、イデオロギーは生まれてこなかったことが重要です。

 同じことともいえますが、新自由主義を批判する力強い理論、イデオロギーも生まれて来ませんでした(あるいは、広がりませんでした)。

 新自由主義を正面から批判する人々、勢力は、その主張内容の妥当性の有無と関わりなく、既得権に固執する「旧守勢力」として攻撃されました。

 他方、かつての新左翼を支えたポストモダンの思想の唱道者達は、「大きな物語」を嘲笑するだけで、さらに実質的に新自由主義と手を組むような者も現れるようになります。

 また横道に逸れそうなので、そこで、急いでフーコーの話に入ります。

 フーコーは、①主体性論=反福祉国家論、ポストモダン論の先覚者、として知られます。確かに、彼の著作、言動は、そのような役割を果たしてきました。

 私も、そうした理解からフーコーについてあまり評価していませんでしたし、もっと読もうという気が起きたことはありませんでした。

 もしフーコーの役割が、①だけに終わっていたなら、このブローグでも特に取り上げることはなかったでしょう。

 ところが、フーコーは、②新自由主義についての鋭い批判的な分析を、1970年代の末に行なっていました。

 彼の1977年から79年の講義録が、2004年にフランス語で、2007年と2008年に日本語で出版されて、そのことが知られるようになってきたのです。

 今回は、①の点を概論し、②については次回に議論します。

 フーコーは、権力支配というものを、身近なところを含めて近代社会の諸レベルに充満したものとして捉えます。これが、新左翼が旧左翼(の指導者)を批判する根拠(心情とフィットするもの)となります。

 ただ、フーコーの権力支配の捉え方の特徴は、それが直接的な強制的な方法によるものを中心とするものではないことを自覚した上で、権力と密接な関係を持った知のあり方に焦点を合わせるものでした。

 これは、グラムシヘゲモニー論やマルクスイデオロギー論を継ぐものといえます。

 しかし、グラムシマルクスにとって、こうした議論は労働者階級の真理に対する認識能力の優位性を示し、またその行動を導くためのものでしたが、フーコーの場合は、原理的に、知と権力は一体のものです。

 となると、フーコー自身の研究を含め、すべての知は真理によって支えられるものではなく、仮に「真理」というものがあるとしても、そこからの距離は不明のものとして相対化されてしまいます。

 そうしたことを認めた上で、何らかの形で研究といえるものを形作ろうとしたのが、従来の歴史学とは異なる、彼の「系譜学」と呼ばれるものです。

 彼は、知と権力(支配)の一体性を「暴露する」効果的な事例として、福祉国家の良き賜物とされる、病院や学校を取り上げました。

 今の若者達、多くの人々には想像もつかないでしょうが、これらの制度(施設)がいかに、目に見えにくいものとなりながら、しかし身近な権力として私達を支配しているかを議論したのです。

 研究者としては、それで結構かもしれませんが、実践や社会運動のレベルでは何が起きたでしょうか。

 また長くなりそうなので、イデオロギーの社会的意味という点から見て、当時社会的エリートともいえた大学生の状況に簡単に触れるに止めます。

 前にも書きましたが、1970年代の東大の文科III類(多くが文学部に進学する)のクラスの中で、「国家権力」などというフレーズを言おうものなら、フーコーを読んでいない、と嘲笑されるのが普通でした。政治的社会的流行に敏感な人々、学生の間では、国家に焦点をあてたような物言いは「旧く」、権力支配は、大学の中、左翼勢力の中にも充満したものとして語ることが、要求されていたのです。

 「身近な権力支配」の分析は、受験競争に勝利したエリート達の学校体験とフィットするものでした。

 そして全共闘運動のある局面では、大学教員の研究室を暴力的に破壊するといった衝動的行動を、みえにくい、得体のしれない支配に対する主体性を回復する運動というような口実を与えてくれて、合理化してくれるものとさえなったのです。

 私のここでの議論は、フーコー思想と社会運動の個々の問題点を直結させ、前者の責任を問おうとするものではありません。

 フーコーと親和性を持った1970年代、1980年代の体制批判と見えた思想や運動が、新自由主義の台頭に対決するイデオロギー的準備を持っていなかった、ということを論じたかったのです。

 次回に、②を論じます。

 

グローカルな実践と理論--資本主義の危機あるいは終焉(理論編3)--1970年代の「批判的」勢力・理論

 前回、普通の人々が何故新自由主義を支持したか、という問題を大雑把な社会心理の角度から議論しました。

 「普通の人々」で言いたいのは、広範・多様な人々ということです。

 しかし、数の面から見れば絶対的に多数ではないが、思想的・イデオロギー的に影響力を持つ人々、勢力の存在という角度からも捉えておくこと、特に体制批判派と呼ばれるような運動・思想をとらえておくことが、新自由主義の広がりを理解する上では重要です。

 まず、資本主義が福祉国家となった時、そこで提供される福祉がすばらしい、と単純にプラスの側面だけを見たかつての左派は、基本的に資本主義支持派に変わりました。

 他方、いわゆる体制批判派(左派)として残った人々の間では、1960年代半ばから福祉国家批判が主張され、影響力を持っていましたが、その論点は、「主体性論」「疎外論」でした。

  ハーバマス、イリッチ等は、公共性や主体性が福祉国家によって独占される状態を批判的に描き出し、市民がいかに主体性を取り戻すか、という問題の提起、その解決策の模索を行なっていました。

 私が大学に入ったのは1970年代ですが、高校時代も大学に入ってからも同級生の過半数が(というように数的な視点でいうより、集団として、世代としてといった方がぴったりきますが)主体性という言葉、それがかもしだす雰囲気に非常に敏感だったと思います。

 あの当時の雰囲気を適切に表現する言葉が見つかりませんが、あえてその特別さを強調して表現するとすれば、疎外から逃れて主体性を求める宗教的求道心ともいうべきかもしれません。

 マルクスの文献の中でも、『経哲草稿』の疎外論が人気でした。その読書会をやろうと別に政治的でもない同学科の学生が言い出して、一緒に読んだ覚えがあります。

 国家が提供(媒介)する福祉そのものは外見上は「良きもの」に見えるが、福祉そのものの善し悪しよりも、国家による支配の浸透に注意を向ける、という形で「批判性」が展開されたのです。

 何故新自由主義が広がったのか、ということを論じるには、このような「批判派」の問題をも論じる必要があると思って書き出したのですが、書きながら、確かに単なる回り道という以上の重要性があると感じ始めました。

 1970年代は、いわゆる「古典的な」マルクス理論に対応した労働運動(階級闘争)とは異なる「新しい社会運動」--公害反対運動、女性解放運動、少数民族運動--が興隆しました。

 それらは、(労働者)階級の主体性という抽象的なものよりも、より身近なレベルで主体性の回復を実感させるものであったともいえます。

 さらにいうと、労働者階級の主体性といった概念は、例えば、ルカーチの「階級意識」の議論では核心的な重要性を持ちますが、実際にそれを担うのは、実際には共産党労働組合の幹部となってしまっていることに対する強い懐疑・反感が、かなりの人々に広がっていました。

 当時、新左翼極左派・ラディカル派)と呼ばれた人々は、「既成左翼」批判、既成左翼リーダー批判に非常に熱心な人々でした。

 また当時、大学において全共闘を称した人々は、必ずしも政治思想的に明確なものを持っていないことをしばしば明言し、その賛同者達もしばしば「ノンポリ(ノン・ポリティカル)全共闘」と自称していました。

 しかし、新左翼全共闘は、その行動や心情において共通することが多かったのです。そこには既成左翼批判があり、さらにその根底には自己疎外感・主体性喪失感に対する不安・いらだちがあったように思います。

 私は、日本での私自身の経験を念頭においていますが、大雑把にいえば、世界的に同じ傾向があったと思います。

 そして日本での影響を含め、ここで論じていること、福祉国家の問題、新自由主義のひろがりの問題を考える上で、どうしてもフーコーについて触れておく必要があると思います。

 どんど回り道になっていますが、次回に、フーコーについて論じます。