hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

今、切実さを持ってよみがえる憲法前文--問われている私達の世界史的感覚

 本日(6月4日、アップは5日)も、木曜の国家前集会に参加してきました。

 私は新しいニュースを追っかけて論ずるのが性にあわないので、このブローグでは、私が気になっていること、訴えたいことを、行きつ戻りつ、議論していきます。

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 前のブローグで引用した皇后のメッセージ、美しい日本語ですね。高尚ぶっていない、わかりやすい美しい日本語です。

 憲法の前文も、日本国民の決意をコンパクトに示していて、雑物が入り込んでいない美しさを感じます。憲法全体もコンパクトで、一種の構成美すら感じます。

 前文のことを「コピペ」だ、といって貶めようとする人がいます。しかしそれは、憲法というものの歴史的性格を理解していない主張ですね。

 前文は、歴史的に確認されてきた人権思想や人民主権思想を踏まえながら、同時に、第2次世界大戦の日本の経験を、国際的な平和主義思想の文脈で意義づけようとしたものです。

 日本国憲法のすばらしさは、まさにこの歴史的性格に由来しています。

 世界史的経験の中に日本の経験が位置づけられていること、同時に、日本のこれからの平和への実践が世界史的な展望を開くものであること、を宣言している、これが日本国憲法です。

 私が今論じているこうした世界史的な感覚、それ自体が、歴史教科書の受け売りというのではなく、現在の政治状況の中で、私自身の過去の経験や勉強してきたことと合わさって、私自身にとって、切実なものとして迫ってきています。

 従ってまた、私にとって、日本人全体の世界史的感覚がどのようなものであるか、という問題は重要ですが、残念ながら、私から見ると、そうした感覚が欠如しているように思います。そしてそれは、非常に根の深い問題です。「寅さん」「天皇制」「憲法立憲主義)」の問題は、この深いところでつながっているように感じます。

 ただ今日は、とても手に負えない大議論をするのではなく、憲法前文の冒頭部分の理解という問題に絞って議論します。

 前文の冒頭を引用します。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

  議論したい箇所は、「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」の部分です。

 この部分は意訳すると、「日本国民は2度と政府が戦争するのを認めない」ということです。

 つまり、これは、立憲主義(国民が国家を憲法によって縛る)の非常に強力な実例といえます。当然、国民と政府(国家)を明確に別物とした表現になっていますね。 

 そして今、私や多くの人々にとって、まさに文字通りそのままが切迫した形で迫ってきているわけです。

 しかし、私の誤解でしょうか、護憲をいう人の中でも、憲法と平和主義について語る中で、ストレートにこの冒頭部分と現在の戦争法制制定を重ねること、は少ないように思います。

 おそらく、それは、私達の中で、国民と政府(国家)を別物とする考え方、場合によっては、両者は利害が対立する(政府が国民に惨禍をもたらす)という考え方、それと密接につながる立憲主義の考え方が、あまり定着していないことからきているように思います。

 下に引用したのは、日本国憲法口語訳として広く知られているものです。

http://matome.naver.jp/odai/2133761068022854701

 

俺らはちゃんとみんなで選んだトップを通じて、
うちらのそのガキのまたガキのために、ご近所さんと仲良くして、
みんなが好きなことできるようにするよ。
また戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて、
国の基本は国民にあることを声を大にして言うぜ。それがこの憲法だ。

  これは、わかりやすく、こどもに最初に理解させるには、すばらしい試みです。

 ただ、この口語訳だと、国民と政府(国家)を別物とする考え方は全くありません。戦争みたいなひどいことを起こさないって決めて」というのは、「俺ら」の決め事になっています。

 「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」は、終戦直後は、人々の体験・実感にフィットし、熱烈に歓迎されました。

 政府の起こした戦争、というとらえ方、そうした戦争をもう許さないということは、多数の被害者的な意識を持った人々にとって全く抵抗感がなく、当然の論理として受け止められたのです。いえ、論理というよりも感覚といった方が良いでしょう。

 しかし、70年も経過して、体験・実感が失われてくると、日本人の中に昔からある、国家、国、国民、社会、等の区別があいまいである感覚、むしろそれが一つであるような感覚に戻っていったように思います。論理ではなく、感覚であったので、昔の感覚に容易に戻ったのです。

 もし、日本国憲法が、「与えられた」ものではなく、下から生じた革命的な事態の直接的な成果としてもたらされたものであれば、国民と政府(国家)を別物とする考え方や立憲主義は、論理として意識化され、より強固な基盤を持つことになっていただろうと想像します。

 とは言っても、歴史を変えることはできません。

 私達ができることは、憲法というすばらしい「贈り物」ベアテ・シロタ・ゴードン)に記銘された歴史を、想像力を持ってよみがえらせていくことです。

 

 

安倍ファシズム政権の危険性を感じた時--いく人かの実例

 国会で参考人として呼ばれた3人の憲法学者が、そろって戦争法案を違憲と断定したことが報じられています。やはり、基本、根本というもの、すなわち憲法が、歴史的緊急時に議論の戻るべくして戻る場所となりますね。

 ところで今日のブローグは、私たちとは異なった立場からも様々な人が、安倍ファシズム政権の危険性を感じつつあること、それを態度、行動に表しつつあることを、批判的に見ておきたいと思います。

 長谷部恭男氏は上記の参考人の一人(与党推薦)で、過去に秘密保護法を推進した人です。澤藤氏は、今度の態度について「研究者としての信念を持っていると見直さざるを得ないhttp://article9.jp/wordpress/ (2015年6月4日)」と言っていますが、違うと感じます。

 長谷部氏は、秘密保護法では、私が前に指摘したファシズム勢力の第一グループ(官僚・大資本)を支援することを自分の経歴上のプラスと感じていたのでしょう。そして、安倍政権ファシズムぶりをあまく見ていたのです。ところが、この秘密保護法が成立して以来のファシズムの怒濤の前進を見て、自分の果たした役割が歴史的、世界史的な汚名とともに永遠に記録されること、それが国会という誰もが見ていて言い逃れを許されない場において記録されること、それを、さすがに認めることはできなかったというべきでしょう。

 私は、政界あるいは御用学者界というものに関心がなかったので、一人一人について、個人史的に追跡しているわけではありません。しかし、秘密保護法成立以来、政権に協力的な立場にあったその他の人々の中でも、少しずつ変化(非常に微妙なものも含めて)があるように感じます。

 長谷部氏に続いてすぐ思いつくのが舛添都知事です。彼の場合、秘密保護法成立後に自民党の支持を得て知事になったものの、かなりの始めより、おれは安倍とは違うよ、という態度を示してきて、今やオリンピックの国立競技場問題では、こんな連中とは一緒にやっておれんよ、という感じです。彼の場合は「変化」というより、地がすぐに出たといってもよいかもしれません。都知事選でも、極右の票は、田母神俊雄候補へ行ったわけで、その支持を必要としないことも関係ありますね。   

 それから、佐々木毅という政治学者がいます。東大総長も務めた人で、1994年の小選挙区制導入を推進し、2014年7月より、選挙制度調査会の座長もしています。

 彼は、東京新聞に月に1回ぐらいのペースで「時代を読む」というコラムを担当しています。

  その2013年12月1日付けで、この年を回顧した「回顧と予感」では、成立したばかりの秘密保護法について、最後に、次のようなつけたりをしています。

 [来年に向けて注目したいことの一つは]特定秘密保護法案をめぐって政権・政府とメディアとの緊張関係が久しくなかったレベルにまで高まったことである。これは将来にわたって、予測しがたい波乱要素になる可能性を秘めている。

 これは、「時代を読む」というより、いわゆるKY、「空気を読む」というやつですね。「来年もまた空気を読みたい」というわけです。こういう姿勢の人が、第三者機関と称する選挙制度調査会の座長に任命されることになります。

 それでも、2015年5月24日付けのコラム「安保法制と外交力」では、これから行なわれる国会での戦争法案審議を前にして、次のように述べています。

 ここに日本の外交力の実態が浮かび上がる。先の十三兆円や安保法制は、外交力不足を資金や人員でカバーする伝統を一歩も出ない。今回の安保法制論議が分かり難いのは、個別的自衛権なら持ち得た具体性から自衛隊の活動を解き放つことで「どこへ向かうのか」という形で外交への問いがあらためて提起され、これに対して積極的平和主義だけでは十分な答えにならない点に起因しているように見える。国会では法制度をめぐる議論も歓迎するが、外交戦略を踏まえた議論も期待したい。

 ここでは、論点を外交力という方向に逸らしつつ、実質は、やはりKY路線を踏襲しているようです。

 ただ、「積極的平和主義だけでは十分な答えにならない」等と、わずかに批判者ぶっているところは、露骨なKY路線では、最近の露骨な安倍ファシズムと一緒にされてしまう、という警戒心が無意識的にでも現れてきたようにも思えます。

 安倍ファシズム政権の危険性を感じた時、どのような態度、行動をとるのか。政治家や「研究者」の実例を見ました。

 私達も、同様に試されていると思います。