個人史、日本史、世界史をつなぐもの--平和と民主主義
私は、1967年に高校入学しました。日本がアメリカのベトナム侵略戦争に加担するのがとても苦痛でした。高校生は政治活動禁止という「規則」がありましたが*1、ベトナム人民支援の募金活動に参加しました。
この時の重要な運動組織の一つとして「ベ平連(「ベトナムに平和を」市民連合)」という組織がありました。小田実(小説家)というその組織の一人のリーダーが、後に明らかにしていますが、その組織の非公然部門があり、米兵の軍隊からの離脱、スウェーデン等への出国をサポートしていました*2。
小田実氏は、当時日本の中に「人民の海」があった、と表現しています。都会、地方、農村の普通の市民がごく自然に、アメリカ兵を匿うのを手伝ったというのです。
もちろんこのことは、非公然だったわけですから、私も全く知りませんでした。
小田氏のこの記述を読んだ時、たいへん驚き、感動しました。それを思い出す度に、改めて驚きや感動に近い、強い感情がやって来ます。
現在の状況だけを知る人には、全く信じられない話でしょう。
1960年の安保闘争は、市民革命として「人民の海」につながり、私の高校生活につながっていたのです。
そして現在、澤藤氏はブローグで、「新安保闘争というべき戦争法案反対の国民運動燃えさか」っていることを指摘しながら、次のように述べています。
アメリカと日本との関係、支配層の憲法嫌悪、世論と議席数の乖離、民主主義の脆弱さ…、基本的なことがらが60年安保の当時と少しも変わっていないことに驚かざるを得ない。なんと、当時の首相の孫が、現首相という因縁さえもある。悪夢のデジャヴュではないか。
(2015年7月4日)
では、1960年の安保闘争、日本の市民革命は無意味だったのでしょうか。
もちろん違います。
それがあったからこそ、他国への侵略もせず、侵略もされない国家体制、民主主義的な体制、その下での経済成長がありました。また、有力なベトナム反戦運動がありました。
そして、それがあったからこそ、右翼勢力はそれを覆す準備をしてきたのです。そして、国民へのクーデター、ファシズムによる政権獲得に成功しました。
今、戦争法案に反対する私達の運動は、1960年の運動を引き継ぐものであると同時に、たんなるその繰り返しではありません。
私はその意味は、世界史的な視点から見た時に、より明瞭になると考えています。
第1に、第2次世界大戦後に作られた世界的な平和体制、それを支える思想を発展させることに貢献する、ということです。
この平和体制、平和の思想は、70年間に様々な緊張、問題によって、修正、妥協、部分的否定を被ってきたのが現実です。
しかし、その基本は変わっていません。これは重要です。
その基本とは、戦争はあらゆる場合に禁止される、ということです。
国連憲章では、戦争は禁止されています。自衛権は、国連や当事者国間の外交交渉による解決着手までの臨時的、例外的な手段とされているのです。
私達の運動は、こうした基本をたんなる建前としてではなく、現実化している様々な運動、制度の重要な一翼を担うものです。
第2に、日本の民主主義の実践を発展させ、その弱点を克服していく、という意義があります。
ヨーロッパでも、極右勢力の台頭が目立っています。しかし、日本のように極右勢力の政権樹立に至った国はありません。
何故、日本ではこのような事態が生じたのでしょうか。
私は、問題は、1945年「革命」の問題にまで遡ると考えています。日本社会においては、その時から、市民が政治の主人公になるという市民革命の基本的課題が、なお切実なものとして残されているように思います。
私達の社会や運動が平和や民主主義を求める世界史的な視点から見て、「進んでいる」と同時に「遅れている」ということ、そして、私がそうした流れで育ちその中にいるということ--それらのことに、不思議な感慨を覚えます。
個人的な話も含めて、私達の反戦争法案、安倍ファシズム政権打倒の闘争の意義を考えました。