hajimetenoblogid’s diary

このブログは、反安倍ファシズムのすべての人々と連帯するために、米村明夫が書いています。

2017年の始めに思う(1)--反安倍ファシズム政権の運動を、「野党共闘」と呼ぶのはやめよう

 また、少し忙しさでブローグをお休みしていました。忙しいといっても、個人的な事情で、ファシズム下の日常というのはこういうものと妙に納得します。

 目の前のファシズム政権に反対して、私達ができることは、①選挙で反ファシズム勢力に投票すること、②デモ等、反ファシズムの宣伝、活動に参加すること、③前記の①②に資すると同時に、反ファシズム勢力の連帯と拡大のためにも、反ファシズムの意思表示すること、です。

 ということで、十分な用意はできていないのですが、新年最初のブローグを書きます。

 世界中で、第2次世界大戦前の似た状況が出てきていますが、希望は、例えば日本の場合でいえば、特に、2015年末の戦争法案反対運動に続く、市民運動と野党共闘の運動が存在することです。そうした動きは、第2次世界大戦前にはなかったものといえると思います。

 しかし、そうした新しい希望の存在を認めた上で、私は2つのことを率直に述べたいと思います。

 今日はその第1です。

 それは、「野党共闘」という「旗」のまずさ、うさん臭さ、です。私は反ファシズム勢力の統一戦線の必要性を主張してきました。そして、理想的ではないとはいえ、現在の「野党共闘」が、統一戦線の具体化したものであることを認めます。その意味で、「野党共闘」(の候補者)を支持してきました。

 しかし、反ファシズム勢力の共闘組織であるならば、例えば、「立憲主義のためのフォーラム」「平和を求める樹々」「民主主義のための共同」等、なんのために共闘するかの目的を表した組織名を掲げたものにしなければならないのは、当然ではないでしょうか。

 一日も早く、「野党共闘」に代わる表現を運動の側が常用し、自然とマスコミもそれを使うような状況にする必要があると思います。

 何故、こうした当然のことがなく、「野党共闘」という手段が先行した表現が採用されたのでしょうか。

 私の想像では、まず市民運動の側で、①共産党が従来の「独自」路線をやめて、(当時の)民主党等との共闘を受け入れてほしい、②特定の政党名(民主党にせよ、共産党にせよ)をいうよりは、「野党共闘」という呼び方のほうが、日本の政治風土では、市民や選挙民への支持の呼びかけをしやすい、という事情があり、その結果、やり方(手段としての共闘)を単純明快に示した、「野党共闘」という「戦略」構想が共産党に対して提示されることがあったのではないかと思います。

 そして、共産党はそれを受け入れたのだろうと思います。

 私は、市民運動がそうした「戦略」に至った事情は、以上のように想像、(しかたがないと)納得できるのですが、共産党の対応は非常にまずかったし、政治のプロであるはずの政治組織としては、何でこうなったのか理解できません。

 「野党共闘」は、2015年末の戦争法が強行採決される直前あたりから、集会のコールでも叫ばれるようになっていました。

 そして、戦争法が強行採決された直後、共産党は、「国民連合政府」の提起という形で、市民運動が主張する民主党等との共闘を受け入れる方針を明確化しました。

 私は、この共産党「国民連合政府」の提案はすばらしいもの、私が主張する統一戦線の具体化への一歩と考えて、このブローグでも支持を表明しました。

 「国民連合政府」提案は、要するに、憲法違反の戦争法を廃止する、その目的のためにあらゆる勢力が手を結ぼう、ということです。

 重要なことですが、この「国民連合政府」提案と、「野党共闘」とは、イコールではありません。

 しかし、共産党はすぐに「野党共闘」しか言わなくなりました。

 そして、国民に対する共産党の重要な一つのセールスポイントとして、(仮に相手がまじめに戦争法廃止を闘わないような人物でも応援することを含め)「誠実に野党共闘を進める」ことを押し出すようになったように思います。

 これは、大きな政治的失敗だと思います--共産党にとっても、反ファシズム勢力全体にとっても。

 本来、共産党は、共闘をめぐってはイニシアチブを維持し続けることができる立場にありました。また、「戦争法廃止」という共闘の条件を明示的に掲げることは、自らのアイデンティティをはっきりさせる重要な意味があったはずです。

 そして、そうした共闘の条件が明示されることは、一般社会から見ても、反ファシズム運動としてのアイデンティティが認識されることでもあります。

 たとえ共産党にとって結果として大幅な譲歩を行うことがあったとしても、明確な目的、基準が社会に見える形で掲げられた上での共闘と、最初から「野党共闘」ありきの議論では、全く違います。

 おそらく共産党指導部は、「野党共闘」ありき、ということはない、きちんと一致点を明確にした上で、共闘を進めてきたし、これからも進めていく、と主張するのでしょう。

 しかし、その主張を端的に示すポスターを見ても、「野党共闘」の文字が踊っています。

 一度掲げた以上、「野党共闘」をセールスポイントとする他ない、という袋小路に陥っているように思います。

 しかし、「世間」からみると、「野党共闘」はただ議席が欲しい者達の野合であり、自民党公明党以上に、うさん臭いのです。そして事実、民主党民進党)の候補者の多くはそういう人々といわざるを得ないのです。

 運動の内部で、野党共闘の理由が、反ファシズム、反安倍だ、それは自明だ、といっても、それは勝手な思い込みで、世間はそうはとってくれません。

 有権者の間での民進党の支持率は驚くほど低いですが、私は大雑把に言って、それはそもそも政治的な主張を持った集団(アイデンティティを持った組織)と見做されていず、議席が欲しいだけの集団と見做されているからだと思います(私はその見方は少なからずあたっていると思います)。その延長が「野党共闘」になりかねないのです。

 反安倍政権、反ファシズム運動は、その性格・主張を明確した「旗」(名前)を掲げる必要があると思います。

 次回に、第2の論点を述べます。

 

トランプ当選の意味(2)--現在の動き--ファッショ化への挑戦

 イギリスのEU離脱では、離脱の旗をふった独立党党首のファラージが辞任(逃亡)するという茶番が起きました。ファシズム的な運動の中には、上から下まで、このような虚勢をはりたいだけの茶番的な人物達が混ざっていることは確かです。しかし、そのリーダー(達)の多くは、一度権力を握ればそれを最大限あるいは最大限を超えて利用し、ふるう者として人格形成、地位形成をしてきた人々であり、そのやり方を自ら変えることはまずないと考えた方が正解です。

 トランプ政権はファシズム政権になるのでしょうか?私はその可能性が高いと思います。

 ファシズム運動は、復古的なナショナリズムに志向するものです。その背景には自国の深刻な経済不況が有り、人々の不満と不安が有り、それらからくる社会不安が有ります。ファシズム勢力は、そのような自国の現在を、内外の敵によって不当な状況におかれていることが原因であると説明し、歴史的に偉大であった、強国であった過去--実際にはそんな過去は存在しないのですが--に戻ろうと訴えるのです。

 トランプの思想が政策的にはどのような形を持つものなのか、について不明な点が多いことも、マスコミの論評がすっきりしない理由の一つでしょう。

 しかし、今回のトランプの勝利が上で述べたファシズム的なものによっており、私は、トランプがファシズム運動のリーダーとしてアメリカ政治と社会を動かそうしていくと思います。

 社会レベルで、KKKを始めとしたファシズム的運動組織の活動等、暴力的・差別的な社会的雰囲気が顕在化しています。それは今後急速に、より活発化・顕在化、ネットワーク化、新政権との連携化を実現していくでしょう。

 当面トランプにとって重要な問題は、まだ議会や政党(共和党)の中に自派組織と呼ぶべきものを持っていないことです。しかし、それも急速に形成されていくと思います。その一つの可能性が、選挙中に見せた共和党内の亀裂が、トランプ支持派の台頭という形で進行していくことです。少なくとも、トランプはそうした方向を計算して人事を進めていくでしょう。

 アメリカの大統領選挙と直結した政治的・行政的に重要な意味を持つのは、行政ポストの政治任用制という制度です。英文のwikiによると、新規大統領は、4000人の新規任用を行ないます。その内、1000人は上院の承認が必要とされます。

 大統領行政府には、350人余の上院の承認不要の人員の多くが配置されます。その中でも、ホワイトハウスのスタッフが大統領と密接な位置にあります。

 現在トランプは、ホワイトハウススタッフの従来トップとされてきた大統領首席補佐官に、ラインス・プリーバス共和党全国委員長を、また同じくホワイトハウスの要職である首席戦略官・上級顧問(兼任)に、スティーブ・バノン(大統領選挙中の選対トップで、右翼メディア「ブライトバート」でナチズム的な言動を先導した)の二人を指名しています。トランプは、わざわざこの2人を、同等の力を持つ(「平等なパートナー」)という意味の発言をしています。

 また、トランプによる各省のトップ指名者について、報道がされてきています。各省の長官、副長官、次官などの上級官僚は、上院の承認を要します。しかし歴史的に不承認の例は5つしかありません。

 国防長官に指名されたジェームズ・マティス元中央軍司令官(66)は、彼がイラク戦争等において果たした役割等、過去の言動から「狂犬」と呼ばれています。

 先に述べたバノンやこのマティスの指名は、トランプ政権のファッショ的性格を典型的に示すものです。トランプと同様の指向性(政治思想や言動において権力的・暴力的性向)を持つ人物を据えることによって、彼の選挙時の民衆的なサポーター達にアピールすると同時に、同じく選挙時に彼に反対した民衆に対する脅しをかけようとしているのです。日本で安倍第2次内閣が、国家公安委員会委員長に、極右の山谷えりこを指名したことを想い起こさせます。

 またこうした人事は、共和党および民衆党の彼に対する反対派に対する挑戦という意味を持つでしょう。

 トランプが勝つとは限りませんが、彼は強力な権力を握りつつあるのです(彼の指先に核ミサイルのボタンがあります!)。

  その他の閣僚ポストは、「大富豪達」によって占められています。

 民主党内の予備選で惜しくも破れたバーニー・サンダースは、トランプの財務省、厚生省、商務省、教育省、 住宅・都市開発省、司法省、各省の長官指名者が、百万長者、億万長者たちであることを、痛烈に批判して、次のように述べています。

 

「トランプの行政府は、百万長者・億万長者の、彼らによる、彼らのためのものだ」 

(住宅・都市開発省長官に指名されたベン・カーソンは、辞退したという情報もあります。)

   

Donald Trump's administration: of, by and for the millionaires and billionaires.

 

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(数字は、純資産額です。)

 

 

 

 現在のトランプの人事を中心とした動きを、トランプのファッショ化への挑戦という角度から見ました。

 このような動きに合わせて、前回のブローグで述べた、新自由主義グローバリズムの帰結、資本主義の危機ということを、どのように一貫性を持って捉えたらよいのでしょうか。

 次回にこの点を論じます。

トランプ当選の意味(1)--過去をどう総括するか--新自由主義・グローバリズムの帰着点

 少し忙しくて、ブローグをお休みしていました。その間の一番大きな事件は、アメリカ大統領選で、トランプが当選したことです。

 新聞等に見る、何故トランプが勝利したかについての議論は、それぞれ理があるように思えます。

 気になるのは、多くの場合、では今後はどうなるのか、あるいはどうすべきかについて、何故彼が勝利したのかという問題の理解との論理的一貫性を持たないまま議論が述べられていることです。

 そうした一貫性のない議論の第1が、トランプは選挙中は言いたい放題を言ったが、実際はこれまでの「エスタブリッシュメント」と変わらない政策をとることになるだろう、というものです。そして第2は、トランプの政策を「孤立主義」「保護主義」という枠組みで批判、牽制しようとするものです。

 私は、一貫した見方をするためには、トランプ当選の意味を、まずこれまでの新自由主義グローバリズムの帰着点としてとらえる必要があると考えます。

 今回アメリカが辿った道と、イギリスのEU離脱を同じ文脈におく議論がいくつか有りますが、私もそれに賛成です。それは、私が何度もこのブローグで言及している柄谷行人の『世界史の構造』の視点から見えることです。アメリカの覇権は、1970年代の終りにすでにくずれる兆候があり、1990年代にはすでになくなっていました。

 新自由主義グローバリズムは、もともと凋落する先進国の資本主義がその凋落を食い止め、その優越性を長期的に維持し続けるための道具・戦略・看板でした。イギリスやアメリカでは、今でもそれを主張する支配層(大資本・政治家・上層官僚)が少なくないでしょう。

 しかし、それは一時期はうまく行ったように見えました(ロンドンのシティの世界の金融市場としてよみがえりによるイギリスの「復活」や、連邦準備制度理事会議長グリーンスパンのもとでのアメリカの「繁栄」)が、特に2008年のリーマンショックで世界経済は深刻な打撃を受け、その道は結局、低賃金と失業という古典的な貧困や過酷な労働を生み出すものであることがはっきりしてきました。

 そして今や、労働者層と若い人々が、もうそれには我慢できない、といっているのです。

 

 他方、新聞などの一貫しない議論を見ておきましょう。

 例えば、東京新聞の社説(2016年11月10日)は、次のように述べています。

【社説】トランプのアメリカ(上) 民衆の悲憤を聞け
2016年11月10日
 変化を期待して米国民は危険な賭けに出た。超大国のかじ取りを任されたトランプ氏。旋風を巻き起こした本人には、それを果実に変える責任がある。
 支配層への怒りが爆発した選挙結果だった。ロイター通信の出口調査によると、「金持ちと権力者から国を取り返す強い指導者が必要だ」「米経済は金持ちと権力者の利益になるようゆがめられている」と見る人がそれぞれ七割以上を占めた。

◆現状打破への期待
 トランプ氏はその怒りをあおって上昇した。見識の怪しさには目をつぶっても、むしろ政治経験のないトランプ氏なら現状を壊してくれる、と期待を集めた。

・・・

中年の白人の死亡率が上昇しているというショッキングな論文が昨年、米科学アカデミーの機関誌に掲載された。それによると、九九年から一三年の間、四十五~五十四歳の白人の死亡率が年間で0・5%上がった。
 ほかの先進国では見られない傾向で、高卒以下の低学歴層が死亡率を押し上げた。自殺、アルコール・薬物依存が上昇の主要因だ。
 ピュー・リサーチ・センターが八月に行った世論調査では、トランプ支持者の八割が「五十年前に比べて米国は悪くなった」と見ている。米国の先行きについても「悪くなる」と悲観的に見る人が68%に上った。
 グローバル化の恩恵にあずかれず、いつの間にか取り残されて、アメリカン・ドリームもまさに夢物語-。トランプ氏に票を投じた人々は窒息しそうな閉塞(へいそく)感を覚えているのだろう。
 欧州連合(EU)離脱を決めた英国の国民投票でも、グローバル化から取り残された人々の怒りが噴き出した。グローバル化のひずみを正し、こうした人たちに手を差し伸べることは欧米諸国共通の課題だ。
◆夢追える社会実現を
 米国の今年のノーベル賞受賞者七人のうち、ボブ・ディラン氏を除く六人が移民だ。移民は米国の活力源でもある。
 国を束ねる大統領として、トランプ氏は自身の言動が招いたことに責任をとらねばならない。顧みられることのなかった人々への配慮は、人々の怒りを鎮め、分断を埋めることにもつながる。
 米国の抱える矛盾があらわになった大統領選だった。国民が再びアメリカン・ドリームを追うことのできる社会の実現をトランプ氏に期待したい。

  長いので一部を省略しました。一つ一つの段落は、意味を伝えていますが、混乱した印象を与えますね。そもそもこのタイトル「民衆の悲憤を聞け」が、混乱の第一歩ですが、これは誰に対して言っているのでしょうか?トランプ?クリントン?あるいは世の政治家一般でしょうか?

 この社説は、最初の方で、「旋風を巻き起こした本人には、それを果実に変える責任がある」と述べ、「国民が再びアメリカン・ドリームを追うことのできる社会の実現をトランプ氏に期待したい」と終わっているので、全体として、トランプが選挙中に行なってきた煽動的、差別的言動を批判し、今後を牽制しているものとして理解すればいいのかもしれません。

 もしそれが本旨なら、民衆の悲憤を聞け」というタイトルはトランプに対して言っていることになります。しかし、トランプこそ、「民衆の悲憤」を引っかき回し、煽動し、利用した人物であることは、社説の著者を含め多くの人の知るところです。このことを承知の上で、あえてこのようなタイトルを掲げるならば、「民衆の悲憤」利用に対するもっと力強い、より鋭い、直截的な批判を展開すべきだったと思います。

 そして、翌日の続く社説「トランプのアメリカ(中) 孤立主義に未来はない」では、外交政策が論じられます。しかし、内容の紹介は今は省略しますが、そこでは「民衆の悲憤」をどうするのか、という問題とは関係なく、トランプに対する孤立主義保護主義という視点からの批判、牽制が行なわれています。

 これらの社説は、意外であったトランプの勝利の翌日、翌々日の社説ですから、まだ落ち着いた見方ができていない、という面もあるでしょう。

 昨日(2016年11月28日)の社説「米TPP離脱 グローバリズム是正を」では、アメリカの「民衆の悲憤」とTPPグローバリズムを関連させる視点を述べています。

【社説】米TPP離脱 グローバリズム是正を
2016年11月28日
 トランプ次期大統領の離脱明言でTPPは実現困難になった。発言の底流にあるグローバル化の歪(ひず)みを是正し修復しなければ、自由な貿易は前に進めないどころか、保護主義へと転落しかねない。
 世界中の新聞、テレビ、雑誌、ネットにあふれる論評、解説がトランプ氏の米大統領当選の衝撃を物語っている。
 なかでも重要な指摘のひとつに「歴史の転換点」がある。
 第二次世界大戦後、自由、人権、民主主義という理念、価値観を掲げてきた米国は内向きになり、外交も安全保障も経済も米国にとって損か得かという「取引」「米国の利益第一主義」に変容していく。米国が主導してきた国際政治、経済の枠組みの終わりという見方だ。
 冷戦終結後の一九九〇年代以降、米英を中心に加速した経済のグローバル化は、多国籍企業が富の偏りや格差の拡大を意に介せず利益を追求する貪欲な資本主義、マネーゲームの金融資本主義に化けた。負の側面が露(あら)わになったグローバル化は、その意味を込め「グローバリズム」と呼ばれるようになる。
 トランプ氏を大統領に押し上げたのは、グローバリズムに押しつぶされる人々の既得権層に対する怒りだった。これを黙殺して貿易の自由化をさらにすすめる環太平洋連携協定(TPP)からの離脱は、当然の帰結といえるだろう。

 貿易立国の日本は戦後、関税貿易一般協定(ガット)や世界貿易機関WTO)を成長と安定の土台にしてきた。このため自由貿易の停滞や保護主義の台頭を懸念する声は強い。
 だが、米国をTPPから離脱させる力は、過剰な利益追求や金融資本のマネーゲームに振り回され、暮らしが破綻に追い込まれつつある中低所得者層のぎりぎりの抵抗にある。その事実を直視しなければいけない。
 二十四日の参院TPP特別委で安倍晋三首相は「自由で公正な経済圏を作っていく。日本はそれを掲げ続けねばならない」と審議を続ける理由を説明した。
 強者の自由が行き過ぎて弱肉強食となり、社会の公正は蔑(ないがし)ろにされてTPPは行き詰まった。
 グローバリズムの欠陥、その象徴である経済格差を「公正」という価値観で是正しない限り、自由な経済は前に進めない。新たな対立を生みだして世界を不安定にする保護主義の台頭を防ぐことはできない。

 省略無に全部を引用しました。

 これも、全体として何を言っているのか、混乱した印象ですね。私は、数日前からこのブローグを用意し始めたのですが、私の「グローバリズムの帰着点」という表現に対して、この社説が「グローバリズム是正」を主張しているのを見つけました。

 ただ、この社説でも、「民衆の悲憤」と今後の方向についての関連らしきものはあるのですが、トランプのこれからがどうなるのか、世界がどう動いているのか、我々が何をなすべきなのか、見えてきません。論理的な一貫性がないのです。

 「資本主義の危機」という言葉があります。それはかつて繰り返し使われ、その毎に資本主義は危機を「乗り越えて」きたのですが、それでもこの「資本主義の危機」という言葉は、ある種のリアリティを持った言葉として繰り返し使われてきたように思います。しかし現在は、ほとんど使われていないようです。

 それは社会主義思想や現存の社会主義が、かつては力を持っていたこと、現在はその力を失ってしまったこはと関係するでしょう。

 しかし、社会主義の力の有無とは関わりなく、現在の事態が基本的に「資本主義の危機」に相当するものであることは、間違いないと思います。

 この「資本主義の危機」が、世界第一の軍事、経済大国で顕著に現れたことの深刻さを、まだ理解していないのが大勢のようです。しかし、それも急速に変わって行かざるを得ないでしょう。次回に続けます。

 

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(7)--”あかとんぼ”と”かながわ憲章”のこと

 私が岡本太郎のことを取り上げたのは、日本文化・芸術における「怒り」の感情の正当な位置について論じたかったからです。ただ、今日も本論に入らず、回り道をします。

 「あかとんぼ」という三木露風作詩・山田耕筰作曲の名曲があります。

 この3番の歌詞は、

 

   十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた

 

というもので、「(昔は、農村の女性は15歳になると労働力や労働力たる子供を産むため結婚するのが普通であった。)そして、あのねえやもその後の消息もわからなくなってしまった、と歌っている」というのが普通の解釈で、私もそのように理解していました。

 ところが、誰だったか覚えていませんが、「違う。これは、身売りを歌っている」という指摘があって、ハッとしました。

 もし、身売りという指摘が正しければ--私は正しいと感ずるのですが--「あかとんぼ」全体の解釈が全く異なってきます。

 「あかとんぼ」が発表されたのは1921年です。他方、東北からの身売りが増大したのは、昭和恐慌以来、特に1930年代に入ってとされています。ですから、話が合わないようにも見えます。

 ところが、最近の研究では、確かに1930年代にも増加していますが、1900年代に最初の大きな増加があった可能性が明らかにされています(安中進)。

 三木露風は、カトリックの洗礼を受けています。当時の文学者達は高い教育を受け、彼らは求める真理、芸術、社会は一つのものと信じており、したがってまた社会状況に敏感で、互いに影響し合う存在でした。

 露風がカトリック教徒になったのは、そうした社会的な信念、行動の表れでしょう。

 ただ特に日本近代文学に見られる一つの傾向として、ここには、社会的なものを個人の内面という内側に閉じ込めていく要素を見て取ることができます。

 「身売り」という残酷な現実を、「嫁入りして、便りもなくなった」という叙情的な詩に託す時、彼の静かで深い諦念の感情がより強く染み渡ってきます。

 --あるいはさらに、「嫁入りした」という表現は、詩人の「発明」ではないかもしれません。それが、娘を身売りせざるを得ない親(達)の「生(なま)の言葉」であったとするなら、その親(達)の日常的な諦念こそが、露風のそれを裏打ちする実体であった、ということになります。

 あの美しい童謡は、全く異なった世界を見せてくれているように思えます。

 しかし、ここで問題です。

 諦念の気持ちが強ければ強いほど、深ければ深いほど、それはそこにとどまるものでしょうか?

 それは、怒りの感情とは厚い壁によって隔たれていますが、とはいえ、怒りの感情のすぐ隣にあるものなのではないでしょうか。

 

 ・・・・

 

 話が飛びますが、7月に神奈川県の障害者福祉施設で、多くの方が殺傷される事件がおきました。

 これに対して、10月14日に県議会全会一致で、次の憲章を採択したとのことです。

 

ともに生きる社会かながわ憲章

   ~この悲しみを力に、ともに生きる社会を実現します~

 

 平成28年7月26日、障害者支援施設である県立「津久井やまゆり園」において19人が死亡し、27人が負傷するという、大変痛ましい事件が発生しました。
 この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。
 私たちは、これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきました。
 そうした中でこのような事件が発生したことは、大きな悲しみであり、強い怒りを感じています。
 このような事件が二度と繰り返されないよう、私たちはこの悲しみを力に、断固とした決意をもって、ともに生きる社会の実現をめざし、ここに「ともに生きる社会かながわ憲章」を定めます。

 

一 私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします

一 私たちは、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現します

一 私たちは、障がい者の社会への参加を妨げるあらゆる壁、いかなる偏見や差別も排除します

一 私たちは、この憲章の実現に向けて、県民総ぐるみで取り組みます

 

平成28年10月14日 神奈川県

 

 

  私は、この殺傷事件について、首相が殺傷行為を非難する声明を出すべきだとしましたが、その後の新聞などの論調が、「私達のホンネのところで差別意識がある」というようなもので埋まっているのにうんざりしていました。

 そこに、この憲章です。

 私は違和感を禁じ得ません。

  説明的な前文において、「悲しみを力に」「強い怒り」という言葉ができてますが、私にはそういうものは伝わってきません。

 というか、この文章をそのままとりますと、

これまでも「ともに生きる社会かながわ」の実現をめざしてきた・・・その中でこのような事件が発生したこと 

 に対して、「大きな悲しみ」「強い怒り」を感じていることになります。

 そうじゃないでしょう。

 神奈川県の知事や公務員、あるいは議員、さらに県民が「ともに生きる社会かながわ」をめざして努力したかどうか--ということは関係ありません。

 殺された人々の無念--それこそが、怒りの原点でしょう。彼らの人権はどこへやられたのか。

 この憲章のどこを探しても、この殺された人々の無念、それへの共感がありません。

 痛ましい、悲しみ、怒り、こういう言葉が散りばめられているのですが、この殺された人々の人権を共有するところから来る本当の強い怒りがないので、憲章の本体部分の最重要原理たる第1項の

私たちは、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にします

が、迫力を持って響かないのです。

 さらにいうと、この憲章の文章の中での「私たち」の当事者性がすっきりしなすぎます。

 

この事件は、障がい者に対する偏見や差別的思考から引き起こされたと伝えられ、障がい者やそのご家族のみならず、多くの方々に、言いようもない衝撃と不安を与えました。

  

の部分ですが、「事件は・・・伝えられ」という伝聞的な認識の状態で、「怒り」の感情が沸くものでしょうか。

 また「障がい者」「家族」「多くの方々」に「衝撃と不安を与えました」というのですが、これは、「私たち」の「悲しみ」や「怒り」とは別事として並べられています。

 殺された人々と彼らこそが、悲しみと怒りの主体ではないのか。

 そうでないならば、ここで「ともに生きる」「私たち」とは何者なのか。

 どういう資格、権利を持って「悲しみ」「怒る」のか。

 これまでも「そういうことがおきない様に努力してきたのに、事件が起きたから悲しみ、怒る」のか。

 

 

 あまり、理屈っぽすぎると言われるかもしれません。が、怒りをめぐる芸術論はまだ続きます。

  

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(6)--ボブ・ディランも日本に来るとこうなる

 前回、ボブ・ディランスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチと並べて議論しました。そうすることによって、スウェーデン・アカデミーが評価しようとしているものが、よりはっきりすると思ったからです。

 私は、ロックやポピュラー音楽を知りませんので、ボブ・ディランの仕事の中身に関わって議論することができませんでした。ところが、ツウィートやブローグでこんなものを見つけました。

 まず、ツウィートです。

 

大瀧師匠は「アメリカンポップス伝」でアメリカのフォークソングの暗い歴史について語っています。50年のGoodnight Irene から58年のTom Dooley まで、ポップ1位にチャートされたフォークソングは一曲もありませんでした。それはなぜか。

 

マッカーシズムです。フーヴァーとマッカーシーがまず標的にしたのはハリウッド、次が音楽業界でした。50年にGoodnight Irene はじめヒットを連発したWeaversはその反体制的な姿勢を咎められてテレビラジオ出演禁止を言い渡され、デッカはカタログから全曲を削除しました。

 

マッカーシー没落までの数年間、アメリカのラジオからピート・シーガーやウディ・ガスリーの声が流れることはありませんでした。ボブ・ディランの登場は1962年。あれは体制批判を歌うことがただちに失職や投獄のリスクを意味していた時代をラジオの前で耐えて過ごした少年の歌声なんですね。

 

 今の日本では、投獄はありませんが、石田純一氏の都知事選に関わる発言は、事実上の失職の危機をもたらしました。

 

 それから、久保憲司という人がブローグでこういうことを書いています。

 (この記事は、「ロック、本当はこんなこと歌ってるんですよ」というタグをつけて、2016年06月23日 18時47分にアップされていますから、ノーベル文学賞受賞を機に、特別に執筆されたものではありません。)

 

なぜサム・クックが「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」を書こうと思ったというと、ボブ・ディランが「風に吹かれて」を書いたからです。

 サム・クックはラジオで「風に吹かれて」を聞いて、“あ、この白人の少年は僕ら(黒人)のために歌ってくれている。僕らもこういう歌を歌わない”といけないと思って書いたのです。

 日本だと「風に吹かれて」は色々な解釈が出来る歌と言われていますが、海外では誰もそんなこと言わないです。これは公民権運動を代表する曲なのです。

 

 この「風に吹かれて」の歌詞を私なりに、部分的抜粋して訳しておきます。

人はどれだけ多くの道を歩まなければならないのか--人と呼ばれるようになる前に。

・・・・

どれだけ多くの砲弾が飛ばなけれならないのか--それが永久に禁止されるようになる前に。

友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。

 ・・・・・

 

人はどれだけの回数顔を背けるのか--見ないふりをしながら。

友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。 

  

 久保憲司氏は、この歌詞の冒頭の「人」は、「黒人」を指していて、それがいつになったら「人間扱いされるんだ」と言っていると指摘して、次のように書いています。

 

黒人はいつだって人間だと思うんですけど、この頃のアメリカの黒人は人間として認められていなかったのです。

それをボブ・ディランはお前らいったいいつになったらこの間違いに気づくんだと投げかけているのです。

 

「その答えは 風に吹かれている」--(「風に吹かれて」)

 

という名サビですけど。これを日本では風に舞うくらいだから、あやふやな答えだろと考える人が多いですけど、ボブ・ディランはそんなあやふやな気持ちで歌っていないです。ボブ・ディランが歌っていることは黒人が人間かどうかなんかという答えなんか風が教えてくれるくらい当たり前のことだろ、お前ら、分かってんのか、立ち上がれよ、黒人のためにという強い意志で歌っているんです。

 

 さらに「どれだけ多くの砲弾が飛ばなけれならないのか--それが永久に禁止されるようになる前に。友よ、答えは風の中にあるんだ、答は風の中にあるんだ。」の部分についても、こういっています。

 

「どれ位の砲弾が飛び交えば」禁止されるのか? うーん、、その答えは風に舞っているかもね。とか、そんな軽い話じゃないんです。黒人を解放するためにアメリカは二つに分かれて、50万人もの死者を出しているんです。こんな歴史があるのに、お前らまだ黒人は人間じゃないとか言ってんのか、ぶっ殺すぞみたいな感じなんです。

 

 私は、この「芸術は政治だ!」のシリーズを、「血のメーデー事件」をモチーフとした岡本太郎の絵画のことから始めました。そして、途中で「女性を扱った海外の映画が日本に来るとこうなる」という話を扱いました。

 ボブ・ディランについても、同じことがいえそうですね。

 久保憲司氏の解説によれば、それが日本に来ると、「多様な解釈」ができるというようなことになって、「その答えは風に舞っているかもね」というようなことになってしまう。でもそれは違う。本当は、「ロックは政治だ!」「文学は政治だ!」、ということですね。

 ただ、ちょっと私なりの注釈を2つ、つけておきます。

 まず第1に、この歌のタイトルやサビの部分の「風に吹かれて」「答は風に吹かれている」という訳についてです。

 

                          The answer is blowin’ in the wind.

 

というのが元の歌詞ですから、これは直訳として正しいものです。

 しかし、日本語訳だと、「答」は、風に吹かれて飛んでしまうような弱々しい存在のようなニュアンスになってしまいます。

 では、英語のニュアンス、ボブ・ディランの意図はどうでしょうか。

 英語のWikiには、Gray (2006)の The Bob Dylan Encyclopediaの p. 64からの引用として、ボブ・ディランのインタビュー発言が載っています。

 

この歌については、答が風の中でblowingしているということ以外オレがいえることはあまりないんだ。答は、本、映画、テレビのショーや議論の中にはないよ。それは風の中にあるんだ、そう、風の中でblowingしているんだよ。多くの分かったような顔をした連中は、ここに答があるとか言ってくるが、オレは信じないね。やっぱり、オレはそれは風の中にあって、まさに風に舞う紙切れみたいに落っこってくることになっているんだけど・・・だけど、丁度問題なのは、それが落ちてきた時にその答を誰も拾おうとしないのさ。だから、あまり多くの人がそれを見たり、知ったりすることはないのさ・・・それで、その答はまたどこかへ飛んで行ってしまう。だけどオレは言いたいが、不正を見て何が不正かを知っていて顔を背けるヤツは、最悪の犯罪者の中におくべき連中だぜ。

 

 これを見ると、ボブ・ディランの言う「答」は、弱々しいもの--風に吹かれてどこかへ行ってしまう、そして容易に消えてなくなるような--ではないことがわかります。

 それは、必ず私達の目の前に現れるものとされています。そういう意味では、「答」の存在は確実なのです。

 ただ問題は、私達の目の前に現れた時に、誰もそれを把握しようとする者がいないことなのです。 

 私の部分的抜粋の訳では、「答は風に吹かれている」と訳さずに、「答は風の中にある」と意訳したのは、この方が「答」の存在確実性が伝わると思ったからです。

 ところで、ボブ・ディラン自身も、「答」を知っている、とは主張していません。だから、「風の中にある」わけですね。

 しかし、重要なのは、

 「だけどオレは言いたいが、不正を見て何が不正かを知っていて顔を背けるヤツは、最悪の犯罪者の中におくべき連中だぜ。」

の部分ですね。

 つまり、彼は、「全部の答を知っているわけではないが、このことだけは知っている」と言っているわけです。

 「風に吹かれて」の歌詞の中で、比較的さりげなく真ん中のあたり(上述の抜粋訳では最後のあたり)に置かれている

 

 「人はどれだけの回数顔を背けるのか--見ないふりをしながら」

 

がこれに対応する部分ですね。

 これは確かにとてもキツいセリフです。以降の「人は・・・」という歌詞を聞く時、常にこの「顔を背けるのか」というセリフが頭の中で重なってきます。

  

 「答は風の中にある」

 

 この詩的な表現のサビで受け止めるのでなければ--日本人でなくても--ちょっと耐えられない気がしますね。

 第2の注釈は、芸術における解釈の多様性ということです。

 言うまでもなく、芸術の解釈は多様です。しかしそれは「何でもあり」、「何でも相対化される」ということではありません。

 多様な解釈は、互いに補完や対立等の関係を含めた、緊張的関係にあり、そうした中でそれぞれのあるべき影響力や価値が決まってきます。

 日本ではそうした緊張関係を失ったまま、勝手に多様な解釈があっていいかの雰囲気が多々あるように思います。

 よくヘイトスピーチをする人が批判されると、「言論の自由だろ」と返してきますが、これは言論活動の緊張関係、その中でのあるべき影響力、価値のあり方を知らない--知的レベルの低い--あまり欧米的な世界では見たことがない反応です。つまり、上記のような雰囲気の一例だと思います。

 芥川龍之介に、「羅生門」という作品があります。映画化もされていて、一つのことも見方によって多様な有様となる、ということを言っているものとされ、そうした発想を、「羅生門的アプローチ」と呼んだりします。

 うろ覚えですが--老婆が死体の髪の毛を抜いて商売していて、老婆をそれを、その死体の男が生前どんなに悪いことをしていたか、自分がそんな醜い商売もやらないと生きていけない、ということを説明して、自らの行為を合理化する話です。

 ただこの話の最後は、この話を聞かされた男がその話に納得しながら、「おれも、一文なしで、悪いが恨まないでくれ」といいながら、老婆を身ぐるみ剥いで去って行くはずです。

 さすがは、芥川ですね。ポストモダンの観念的なお遊びとはダンチの切れ味となっています。

 人々の生きている現実は一つなので、それぞれの見方、立場は、異なれば異なるほど互いに容易に相入れ難い緊張を生まざるを得ないのです。

 

 久保憲司氏の議論も、重要な提起をしている--現実を前置しそこに切り込んでいる--と思います。

 

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(5)--ノーベル賞は何を評価するのか?

 昨日の朝刊に、ノーベル文学賞の発表がありました。そこで今回は、ノーベル賞受賞者を決定するスウェーデン・アカデミーは、何を評価するのか、という観点から議論します。

 次回以降に、私達の日本の文化は何を評価するのか、ということにつなげていきます。

 今年のノーベル文学賞は、ボブ・ディランに、昨年はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチという作家に与えられました。

 ボブ・ディランは、プロテスト・ソング等のシンガー・ソング・ライターであり、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは、ソ連の下での戦争や原発事故の人々の詳細で数多くの体験談を採取し、消失しようとしていた声に社会的・歴史的な表現を与えた「編集者」「ノンフィクション・ライター」です。

 日本の新聞は、「近年、文学の枠が広がった」といい、「純文学でないポピュラーなものも受賞する可能性が出てきた」「村上春樹は純文学でないとみなされてきた。しかし、これで来年以降の受賞可能性が出てきた」という言い方をしています。

 どうでしょうか。ノーベルは、文学賞を次のものに与えるように遺言しています。

the person who shall have produced in the field of literature the most outstanding work in an ideal direction

文学の分野で、理念的な方向において、最も傑出した作品を生み出した者

 では、スウェーデン・アカデミーは何を以て「理念的方向において」「飛び抜けてすぐれている」と捉えたのでしょうか? 

 ここには、2つのキーワードがあります。

 第1は、idealです。上では「理念(的)」と訳しましたが、「観念(的)」「理想(的)」と言う訳が適切な場合もあります。観念、理念といったものは、現世的な既成の権力や権威に対置される次元・世界であり、従来も文学が特有のパワーを持ち得る特別な次元・世界と考えられてきました。

 第2は、outstandingです。それは、「飛び抜けて優れている」ということですが、字義どおりに直訳すると、「目立つ」「際立つ」「突出」する、ということです。この意味において最も評価されるのは、「新しさ」「創造性」「オリジナリティ」です。当然これも、既成の権威に対抗する要素を含んでいます。

 ただ、従来の文学賞では、「文学の分野で」という時、確かに文学の領域が狭く限定されていました。文学とはかくかくたるもの、という常識が確立されていて、その中での新しさ、オリジナリティが評価されていたのです。そしてその常識は、当然文学の世界における権威のあり方と関係します。

 そうした従来の枠組みに従えば、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの仕事は、「ノンフィクション・ライター」のそれということになります。そこに「文学的価値」は、認められていませんでした。

 ところが、スウェーデン・アカデミーは、彼女へのノーベル文学賞授与の理由を、次のように述べています。

我々の時代における苦難と勇気の記念碑と言える多声的な叙述に対して

 この理由の表現自体が、とても簡潔で文学的ですばらしいですね。

 「記念碑」的で「多声的叙述」は、彼女が開発した新しい文学の方法、世界を指しています。

 「苦難と勇気」はダイナミズムを感じさせますが、この2つの要素は無理やり結びつけられているのではなく、それらが、「記念碑」的に「多声的」に語られていることによって、そのダイナミズムは静かだけれどけして止むことない響きをもたらします。

 そしてもちろん、語られるものが「我々の時代」の「苦難と勇気」であることが重要です。今の我々の苦難と勇気という現実の世界と文学の世界が結びつけられます。

 アカデミーは、彼女の仕事を、文学の常識に抗しながら現実に向かい、しかし文学の広さと深さを拡大するオリジナルな文学的挑戦を行なってきたものとして評価した、といっていいと思います。

 では、今年の場合はどうでしょうか。

 ロック歌手と見なされてきたボブディランの授与理由は、次のようです。

偉大な米国の歌の伝統の中で、新たな詩的表現を創造してきたことに対して

 ここでも、ボブ・ディランの仕事を「新たな詩的表現」の「創造」として評価しています。

 他方、「偉大な米国の歌の伝統の中で」という表現は、彼の仕事をを米国の歌の伝統に結びつけています。それだけでなく、それは、ヨーロッパの古代の詩、歌、劇が一体化した世界を連想させることを期待したものでしょう。

 スウェーデン・アカデミーのサイトに入ると、今年のノーベル文学賞発表後に、アカデミーのサラ・ダニウス事務局長(permament secretary)への記者達によるインタビューのu-tubeがあります。

 まず、「新しい詩的表現」の「創造」ということに関してはどのように説明しているのでしょうか。

 ボブ・ディランは、英語圏の伝統の中で偉大な詩人であり、たえず自分自身を「再発明」し、新しいアイデンティティを創造することによって自身の「再発明」を行なって来ました。

 これだけ聞いていると、何が新しいのか、新しいことの中身はわかりません。 

 他方、ダニウス事務局長は、次のように伝統を非常に強調しています。

 ボブディランは、英語圏の伝統の中で偉大な詩人であり、伝統を体で表している。

 そして、「アカデミーは、ノーベル文学賞の地平を広げたのか?」という質問に対しても、こう答えています。

 そう見えるかもしれません。しかし、本当はそうではないのです。

 ずっと昔、2500年ほど前を振り返ると、ホメロスやサッフォーが見いだされます。彼らは、詩を、音楽と一緒にあるいは劇の中で演じられるものとして書いていたのです。これは、ボブ・ディランも同様です。

 ボブ・ディランの場合は、その人も仕事もよく知られており、それを文学として認めるためには、普通の人々との常識との距離が大きすぎたのでしょう。アカデミーは、自らの選定を合理化することに必死で、数千年昔の伝統に位置づけることによって、その合理化を果たし、世間を納得させようとしているように見えます。

 つまり、ここでむしろ「新しい」のは、アカデミー自身の文学の基準です。そうした「新しさ」=「ノーベル文学賞の地平の拡大」をアカデミー自身は否定していますが、2500年前に基準を戻そうとすること自体が「新しい」ことといえるでしょう。

  それにしても、アカデミーは、ボブ・ディランに、どのような新しい文学的方向性、可能性を見いだしたのでしょうか。

 それを、伝統的な詩と音楽や劇が一体化する形式に関連づけて評価するというのは何を意味するのでしょうか。

 私には、アカデミーが表立っては語らないけれど、ここでもスヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの場合と同様に、文学が現代社会の現実に向かうことの意義についてのメッセージがあるように思います。

 そうした挑戦は、自ずから従来の文学の枠組みを超えた形をとり得ること、それは文学にエネルギーを与え、文学を豊かなものとすること、また、それが私達が求める文学なのだ、というメッセージです。

 私のこうした見方が正しいとすれば、村上春樹の仕事が、以上で見てきたような意味において「新しさ」があるのか、あるとみなされるのか、ということが、彼の受賞を決定することになります。

 

「芸術は政治だ!」--岡本太郎のこと(4)

 

[うんざりの2--来年公開予定の映画「サフラジェット」が・・・]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 上記の左が元のポスターで、右が日本でのポスターです。

 タイトル  「Suffragette」→「未来を花束にして」

 宣伝コピー  「The time is now」→「百年後のあなたへ」

に変わっています。

 この映画の日本での公式サイトによると、婦人参政権論者がSuffragistと呼ばれ、その中で過激な活動も辞さない女性運動家がマスコミで「Suffragette」と呼ばれたということです。

 想像するに、「参政権suffrageを主張するうるさい小娘」といったニュアンスでしょうか。

 それから、英語の得意な人に教えてほしいのですが、この原題が単数形であるのは何を意味しているのか--ヒロインを指しているのか、あるいはやはり集合的な意味合いがあるのか、あるいはその双方か--どうでしょうか。

 (フランス語版では、複数形になっているとのことなので、それほど深く考えることではないのでしょうか。)

 いや、ともかく、英語のままでは確かに分かりにくいでしょうから、邦題を工夫して少しでも観客数を増やそうとするのは当然のことです。

 しかし、この邦題では全く別世界のような感じです。

 おまけに、日本版ポスターの左下には、本当に花束があしらってあります(上記ではほとんど隠れていますが)。

 これに関連して、「女性映画が日本に来るとこうなる」という上記のツウィッターのハッシュタグがあって、次々と実例が紹介、議論されています。

 日本に来ると社会性を持った映画は、何故別物に変わらせられようとするのでしょうか。

 それは、権力者達の強制や陰謀ということでは説明がつかないものであり、日本文化のあり方に関わることのように思います。

 数年前に、「ハンナ・アーレント」という映画が公開され、同時に、その20年以上前に同じ監督と女優のコンビによる「ローザ・ルクセンブルク」が上演されています。すぐれた女性の反ナチスの哲学者や革命家がテーマです。

 それから、14年前になりますが、「フリーダ」というタイトルで、メキシコの女性画家フリーダ・カルロの生涯を扱った作品があります。メキシコ革命の壁画運動に参加したディエゴ・リベラと2回結婚していて、ソ連から亡命してきたトロツキーを匿ったりします。

 これらの作品は、みんな女性の固有名詞がタイトルですね。つまり、間違いなく存在した一人の女性です。つまり、本当に実在した、独立した個人としての女性が、社会をどのように捉え、それと向かっていくのか、という角度から扱っているのです。

 (ここで、私が「独立した個人」とわざわざ「独立した」を加えたのは、他人に依存していない、という意味ではありません。「他人に依存する」としても、その前提として、個人というものが存在する、という意味で「個人」ということを強調するためです。日本では、しばしば、最初から個人というものが存在しなくなってしまうので、それを防ぐためです。)

 今回の作品のタイトルSuffragetteがそれを意識していない、ということはあり得ないことのように思います。 

 そして私はネイティブでないのでSuffragetteの語感、ニュアンスが、わからないのが残念ですが、それでもこんなふうに想像します。

 一方でそれは、複数形でなく単数形ですから、一人、つまりこの映画のヒロイン(運動家)を指します。(フランス語版のように複数であるとすると運動家達です。)

 とすると実話に基づくということですから、固有名詞をタイトルとすることもできるはずです。でも他方で、名前もあまり知られていない(ヒロインの無名性)ということを示唆するのが、このタイトルなのです。

 つまり、今回のSuffragetteというタイトルは、その時代や社会を、その瞬間に生きた独立した個人としての女性の視角を引き継ぎながら、ただし、それまでの作品とは異なって無名の運動家に焦点をあてたものだ、という無言のアピールも含まれているのではないでしょうか。

 私の想像は大きく外れているかもしれません。

 しかし、いきなりですが、「男女共同参画」なんて、糞食らえっ、と言いたいですね。出発点が、共同になっていて、その前の独立した個人、独立した女性個人がなく、それを意識させないために、つまり本来あるべき「男女平等」という言葉を避けるために、官僚がひねり出した言葉です。

 こうしたインチキな言葉が大きな顔をしている社会、文化では、 原題のSuffragetteが、「未来を花束にして」という情緒的なタイトルに変わってしまうのは、止むを得ないようにも思えます。